横浜の秘密

知らなかった横浜がいっぱい ~鈴木祐蔵ブログ~

西洋理髪発祥之地記念碑「ザンギリ」は、なぜ山下公園に建っている?

2016-06-10 22:03:51 | 日本の発祥
安政6年(1859年)に開港した横浜には、外国人が永住し、会社やお店を構えて貿易や商売をすることができる外国人居留地が設けられた。居留地で仕事や生活を営んだ外国人たちは、より快適に暮らすために慣れ親しんでいる自国の文化を数多く横浜に持ち込んだ。一方で、好奇心旺盛な横浜の人々は、自分たちの暮らしに欧米文化を積極的に取り入れた。その結果、横浜には日本での発祥となったものが多いのだが、「西洋理髪」もそのひとつである。

江戸時代といえば、時代劇などを見てもわかるように男性はちょんまげか総髪、女性は日本髪が一般的であった。いずれも長く伸ばした髪を結うスタイルである。一方、西洋人は髪を結うほどには伸ばさずに短く切って整えていた。大多数の日本人はみずからの髪型にこだわりと誇りをもっていたが、なかには西洋人のヘアスタイルに関心を示す者もいた。

開港後、当時はちょんまげを結っていた日本人の結髪師たちは、横浜港に停泊した外国船に仕事道具のカミソリを手に出入りし、船の乗組員の顔のひげ剃りをする商売をするようになった。それだけでは飽き足らず、日本人の間で西洋風のヘアスタイルが広まることを見越して、船内の西洋理髪師からハサミの使い方など理容技術を習得する者が現れたのである。

ただし、日本初の西洋理髪店(理容室=ヘアー・ドレッシング・サロン)は、日本人ではなく外国人が開業。元治元年1月下旬ごろ(新暦:1864年3月初めごろ)、外国人居留地(山下居留地)70番に建てられた日本初のホテル「横浜ホテル」内でヨーロッパ人理容師ファーガスンがオープンした。場所は、現在の山下町70番地、大桟橋通りと本町通りが交差する一角にあたる。

日本人で初の西洋理髪店を開いたのは、それから約5年後の明治2年(1869年)、外国船で西洋理髪の技術を身につけた小倉虎吉であった。外国人居留地(山下居留地)148番に店舗を構えたと伝えられている。場所は、現在の山下町148番地、横浜中華街の中華街大通り沿いにある老舗中華料理店・同發本館のあたりだという。当時はまだ中国人たちが仕事や生活の場とする横浜中華街は形成されていなかった。

明治4年8月9日(新暦:1871年9月23日)には「断髪令」が出され、明治政府がヘアスタイルの洋風化をさらに後押しした。新聞の影響力を利用して、木戸孝允が「半髪頭(=ちょんまげ)を叩いてみれば、因循姑息な音がする。総髪頭(=長髪)を叩いてみれば、王政復古の音がする。散切り頭(=西洋人風の髪型)を叩いてみれば、文明開化の音がする」という俗謡も掲載。ちょんまげや総髪はもう古くて時代遅れであり、洋風の髪型は新しい時代の先端を行っているというような意味であろう。この俗謡から、西洋人風のヘアスタイルは「散切り(ザンギリ)頭」と呼ばれ、文明開化の象徴にもなったのである。

ただし、断髪令は強制ではなく髪型を自由にしてよいという法令だったため、しばらくはちょんまげや総髪を死守する日本人が多かったという。先頭を切って断髪したのは、時代の流れに敏感な学生や学者、役人などだが、少数派であった。日本の日常生活では見慣れなかったこともあり、当初は奇異にも思われた西洋人風の髪型だが、明治6年(1873年)3月20日、明治天皇が断髪されたことで、日本人のちょんまげや総髪への執着は大きく減ったという。髪を結う手間が省けるという利便性もあり、徐々に断髪する日本人が増えていった。日本人のほとんどの断髪が済んだのは明治22年(1889年)ごろといわれる。

横浜の山下公園には、小倉虎吉が創業した日本人初の西洋理髪店を記念して、平成元年(1989年)11月、神奈川県理容環境衛生同業組合により「西洋理髪発祥之地」の記念碑「ザンギリ」が建てられた。高さ約2メートル、重さ約2トンの巨大な御影石を、ザンギリ頭と称された洋風の髪型をした男性の顔に彫り上げた白い石像は、イースター島のモアイ像を連想させる。

しかしながら、日本人初の西洋理髪店が開業した場所は、現在の横浜中華街である。どうして、山下公園に記念碑「ザンギリ」が建てられたのか?

しかも、日本人初の西洋理髪店がオープンした明治2年(1869年)には、山下公園はまだ存在していない。大正12年(1923年)9月1日に発生した関東大震災のガレキで横浜港沿いの海岸を埋め立て、昭和5年(1930年)2月28日に完成し、翌月3月15日に開園したのが山下公園である。関東大震災の復興事業の一環としてつくられた山下公園と日本人初の西洋理髪店との間には何の接点もないように思われる。
<※山下公園の誕生の経緯に関しては、自著「横浜謎解き散歩」(KADOKAWA 新人物文庫/監修:小市和雄)で「山下公園は、関東大震災のガレキでつくられた?」と題して詳しく記しているので参照していただけると幸いである。>


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山下公園がつくられる以前、その場所は港の海および海岸であり、岸壁にはフランス波止場あるいは東波止場と呼ばれた2つの突堤が文久4年(1864年)に設けられた。小倉虎吉など日本人の結髪師たちは、その突堤に横づけされた小舟に乗って沖合に停泊していた大型の外国船に出入りし、西洋理髪の技術をマスターしている。見方を変えれば、いまは山下公園となっている場所こそが、日本人による西洋理髪の原点になったとも考えられる。

また、現在の横浜中華街・中華街大通り沿いの同發本館のあたりに日本人初の西洋理髪発祥之地の記念碑を建てるとなると、中国の方々の許可を得る必要があるし、何よりも老舗中華料理店の前にそうしたスペースは確保することは困難であろう。

そう考えれば、「西洋理髪発祥之地」の記念碑「ザンギリ」が、山下公園に設けられているのも合点がいくが、いかがだろう?