横浜の秘密

知らなかった横浜がいっぱい ~鈴木祐蔵ブログ~

今だからこそ、日本を見つめ直す。年末年始からお花見、端午の節句、母の日まで、日本ならではのしきたりの雑学が満載!

2024-04-05 11:40:50 | 

『大人の常識 日本のしきたり・年中行事』(KADOKAWA)。100万部突破の大ベストセラー「日本人のしきたり」の著者として知られる飯倉晴武先生に監修をお願いして私が執筆し、2016年10月中旬発売となりました。

四季折々に、何気なくふれ、親しんでいる、さまざまな日本の風習・しきたり。ところが、それらの由来や本来の意味などをご存じの方は、意外に少ないのではないでしょうか。

元号が『平成』から『令和』へと改まり、新たな時代を迎えたこの機会に、わが国・日本の風習やしきたりを振り返ってみるのも一興です。

2020年夏に予定されていた東京五輪(オリンピック、パラリンピック)は、2021年夏に延期され、紆余曲折はあったものの開催の運びとなりました。ただし、猛威を振るっていたコロナウィルスの影響で、五輪史上初の無観客に。世界中の方々とふれあい、交流を深め、友情を育む機会が奪われてしまったことは、日本にとって大きな損失でした。しかしながら、やがて人類がコロナに打ち勝った暁には、世界と交わる機会はますます増えていくことでしょう。そうした折に大切なことのひとつは、私たち日本人が日本をどれほど理解しているか、そしてそれを国境や文化、言葉の壁を越えていかに伝えるかです。海外の人々は、自分の国にはない日本ならではの文化・風習・習慣に高い関心をもっているからです。

本書では、中国の習慣が伝来して日本風のしきたりが加わることで生まれた「ひな祭り」や「端午の節句」「七夕」などの五節句から、日本古来の風習である「お正月」「お盆」「お花見」、主に明治時代以降に欧米から伝わった後に日本流にアレンジされた「バレンタインデー」「エイプリルフール」「母の日」「父の日」「ハロウィン」「クリスマス」などの比較的新しい習慣、日本独自の風習である明治時代からの「忘年会」や昭和に生まれた「ホワイトデー」まで取り上げ、それぞれの意外な発祥の歴史やエピソードなどを200以上も収録。


お求めやすい気軽な価格で、持ち歩きもしやすい文庫本に、日本人なら絶対に知っておきたい日本の年中行事にまつわる興味深い秘話・逸話をコンパクトに読みやすくまとめました。いつでも、どこでも、手軽に読める一冊です。2023年という新たな一年に、そして今後を見据えて、本著『大人の常識 日本のしきたり・年中行事』を手に取り、世界に目を向けながらも、日本を改めて見つめ直す時間をもってみてはいかがでしょうか?


大人の常識 日本のしきたり・年中行事(KADOKAWA)
KADOKAWA
カドカワストア
紀伊國屋書店

■定価:560円(税別)


<大人の常識 日本のしきたり・年中行事(KADOKAWA)の内容一例>


一月
■一月一日・・・かつては全国民の誕生日だった
■正月・・・一年の幸福をもたらす年神様を迎える行事
■元日と元旦・・・元日は一月一日、元旦は一月一日の朝のこと
■松の内・・・関東で一月七日までなのは、「明暦の大火」が原因
■年賀状・・・もともとはがきではなく封書だった
■年賀状・・・明治二〇年ごろから習慣として定着
■年賀状・・・元日に書いて投函するものだった
■年賀状・・・真冬なのに「新春」「迎春」などと書くわけは?
■初日の出・・・年神様をお迎えする新しい風習
■初詣・・・もともと大みそかの夜に行うものだった
■初詣・・・人気寺社に行くのではなく、「恵方詣」が正式
■七福神めぐり・・・由来は中国の「竹林の七賢人」
■おもち・・・正月におもちを食べるようになったわけは?
■鏡もち・・・なぜ丸く、大小二段重ねにして飾る?
■鏡開き・・・鏡もちを包丁で切るのはタブー
■鏡開き・・・徳川家光の月命日を避けるため、一月一一日に行うようになった
■お雑煮・・・関東は角もち・しょうゆ味、関西は丸もち・みそ味
■おせち料理・・・かつては年六回も食べられていた?
■おせち料理・・・重箱に詰めるのは「福が重なる」から
■おせち料理・・・それぞれの料理に込められた願いとは?
■お年玉・・昔はお金ではなく、おもちを渡していた
■お雑煮とおせち料理・・・大みそかの夜から食べるものだった
■お屠蘇(おとそ)・・・年少者から飲むのは毒見のため?
■初夢・・・大みそか、元日、一月二日、どの夜に見た夢のこと?
■初夢・・・いい夢を見るため、宝船の絵を枕の下に敷いて寝た
■初夢・・・「一富士 二鷹 三茄子」が縁起がよいとされる理由は?
■書き初め・・・恵方に向かって書いたものを、どんど焼きで燃やすと字が上達
■かるた・・・男女の出会いのツールでもあった
■かるた・・・女性の教養を示す嫁入り道具だった
■羽根つき・・・災厄や病気を祓い、福を招く遊び
■羽根つき・・・「悪い虫がつかない」ように、女の子に羽子板を贈る
■タコ揚げ・・・戦にも使われたタコで、男の子の健康と成長を願うのが由来
■タコ揚げ・・・「イカのぼり」から「タコ揚げ」になった意外な理由(※もともとは「イカのぼり」と呼ばれていた。)
■こま回し・・・吉凶を占い悪霊を払う、宮中行事が由来の遊び
■双六・・・禁止令が出されながらも、嫁入り道具になるほどの人気だった
■七草がゆ・・・もともとは七草のお吸い物だった
■七草がゆ・・・「春の七草」にこだわらず、自由に具を選ぶこともできる
■七草がゆ・・・台所道具から作り方まで「七」づくし
■七草がゆ・・・新年で初めてツメを切る「七草爪」
■成人式・・・二〇歳が成人と定められたのは、課税と徴兵の基準年齢だったから
■どんど焼き・・・健康と字の上達をかなえるが、江戸では火事の原因になるため禁止

二月
■節分・・・豆まきは、大みそかの行事だった
■節分・・・炒った豆で鬼退治するのは、「魔目を射る」から
■節分・・・寺社で豆をまく際、「鬼は外」とは言わない
■節分・・・相撲取りが豆をまくのは、四股で鬼を踏みつけるから
■節分・・・豆は年齢より一粒多く食べる
■節分・・・イワシとヒイラギも鬼退治に有効
■節分・・・恵方巻を丸ごと一本食べるのは、縁を切らないため
■節分・・・恵方巻きを食べるときは、福や運が逃げないよう無言で
■針供養・・・医者や音楽業界人も行った風習
■バレンタインデー・・・チョコレートを贈るのは日本だけ
■梅見月・・・花見といえば、桜より梅だった

三月
■ひな祭り・・・当初は、男の子の行事でもあった
■ひな祭り・・・ひな人形は、もともと男びなと女びなの二体だけ
■ひな祭り・・・関東と関西で異なる、男びなと女びなの並べ方
■ひな祭り・・・ハマグリを供えて良縁祈願するわけは?
■ひな祭り・・・菱もちは、なぜ赤・白・緑の三色で菱形?
■ひな祭り・・・ひなあられ、関東と関西の違いとは?
■ひな祭り・・・白酒と甘酒はまったくの別物
■ひな祭り・・・婚期が遅れないよう、ひな人形は海や川に流す代わりに早く片付ける
■潮干狩り・・・意外にもルーツはひな祭りと同じ
■ホワイトデー・・・チョコレートのお返しは、はじめマシュマロだった
■お彼岸・・・もともとは墓参りの日ではなく、修行のための日だった
■お彼岸・・・春は牡丹が咲くから「ぼたもち」秋は萩が咲くから「おはぎ」

四月
■お花見・・・桜の木に宿る田の神様に、豊作祈願をする行事が由来
■お花見・・・徳川吉宗の政策で、一般庶民に浸透
■お花見・・・東京の開花宣言は靖国神社から
■お花見・・・満開より散るころが人気だった
■お花見・・・今はソメイヨシノ、昔は山桜
■お花見・・・娘たちにとって、玉の輿の大チャンスだった
■お花見・・・花見だんごの赤・白・緑は何を意味する?
■お花見・・・桜もち、関東と関西では大きく異なる?
■エイプリルフール・・・もともと、四月一日は「不義理の日」
■エイプリルフール・・・ウソをついてもいいのは、四月一日の午前中まで
■新学年・・・四月スタートになったのは、国の都合
■新学年・・・四月二日生まれから新学年になるのは、法律の解釈の違いが原因
■花祭り・・・仏教徒が祝うべきお釈迦様の誕生日
■十三参り・・・帰路に振り返ると、いただいた知恵が戻ってしまう
■山菜狩り・・・男女の縁結びの行事でもあった。

五月
■五月晴れ・・・もともとは、梅雨時の晴れ間のこと
■端午の節句・・・じつは女子の節句として始まった
■端午の節句・・・関東は新しい「柏もち」、関西は伝統の「ちまき」が主流
■端午の節句・・・かつて、鯉のぼりはなく、菖蒲づくしだった
■端午の節句・・・鯉のぼりの起源は、鯉の絵を描いた紙
■端午の節句・・・鯉のぼりは、数よりも高さを競った
■端午の節句・・・鯉のぼりと一緒に飾る「吹き流し」と「矢車」は、魔除けのため
■八十八夜・・・長寿を招く新茶は贈り物としても人気
■母の日・・・カーネーションを贈るのはなぜ?
■母の日・・・日本の「母の日」は皇后誕生日だった

六月
■衣替え・・・衣服や小物を変えて、心身の穢れを祓う行事だった
■衣替え・・・江戸時代は、年四回行った
■衣替え・・・明治以降は夏と冬の二回が定着
■和菓子の日・・・神様にお菓子を供える平安時代の行事「嘉祥喰」と同じ六月一六日
■父の日・・・母の日と同じく、アメリカ南北戦争が由来
■父の日・・・父が健在なら赤いバラを贈り、他界していれば白いバラを墓に供える
■夏越の祓(なごしのはらえ)・・・「茅の輪くぐり」で半年間の穢れを祓う

七月
■七夕・・・裁縫や書道がうまくなるよう願う行事が起源
■七夕・・・笹飾りは日本独自の風習。笹に飾り、高く掲げるのはなぜ?
■七夕・・・「七夕送り」も日本ならではの風習
■七夕・・・機織(はたおり)の糸にそっくりな、そうめんを食す習慣があった?
■七夕・・・日本で一時廃れた七夕が「仙台七夕まつり」で復活
■お中元・・・天神様を誕生日にまつる道教の習慣が仏教と融合して誕生
■お中元・・・贈る時期は東日本と西日本で異なる
■花火大会・・・戦のための火薬を、故人の鎮魂のために利用
■花火大会・・・「たまやー」「かぎやー」の語源は、江戸の人気花火師の屋号から
■風鈴・・・涼を得るだけでなく魔除けの効果も
■ゆかた・・・本来、屋外で着るものではなかった
■怪談・・・お盆に浮かばれない霊を慰めるのが目的
■打ち水・・・暑さ対策ではなく、商店が開店前に場を清める心遣いだった
■暑中見舞い・・・喪中でも出せる便利なあいさつ
■土用の丑の日・・・うなぎを食す習慣は、平賀源内の発案
■土用の丑の日・・・うなぎの蒲焼き。関東は背開き、関西は腹開き
■土用の丑の日・・・うなぎ以外の「う」のつく食べ物も食べた
■土用の丑の日・・・「滝浴び」で夏バテ防止と無病息災を祈願

八月
■立秋・・・真夏なのに立秋と呼ぶわけは?
■お盆・・・旧暦では七月中旬、新暦では八月中旬に行われるわけは?
■お盆・・・玄関に灯す迎え火・送り火は、先祖が家に帰り、あの世へ戻る目印
■お盆・・・野菜で作る精霊馬は、故人の霊が現世と来世を往来する乗り物
■お盆・・・精霊流しは、送り火のひとつ
■盆踊り・・・地獄から逃れて喜び踊る死者を表す
■盆踊り・・・明治時代初期、政府に禁止されたこともあった
■残暑見舞い・・・立秋から八月いっぱいに出すのがマナー

九月
■お月見・・・かつては「十五夜」と「十三夜」の両方観るのがしきたりだった
■お月見・・・水に映る月が風流、見上げるのは無粋
■お月見・・・月見だんご、関東は丸型、関西はイモ型
■お月見・・・月見だんごはいくつお供えするといい?
■お月見・・・月見だんごは盗まれるほど縁起がいい?
■お月見・・・十五夜の月を「芋名月」、十三夜の月を「栗名月」「豆名月」と呼ぶわけは?
■お月見・・・ススキを供えるのはなぜ?
■放生会・・・逃して功徳を積むため、わざわざ生き物を買う人もいた
■重陽(ちょうよう)の節句・・・菊を重用するため、現在の新暦では根を張りにくい
■重陽の節句・・・秋にもひな人形を飾る「後(のち)のひな」で、一年中の厄除け祈願
■虫の音・・・日本人には風流、西洋人には雑音
■敬老の日・・・兵庫県の「としよりの日」が由来

一〇月
■秋の七草・・・食べずに観賞するのは、万葉の歌人・山上憶良に由来
■体育の日・・・一〇月一〇日が「体育の日」になったわけは?
■亥の子祭り・・・子だくさんの猪にあやかり、旧暦一〇月の亥の日・亥の刻にもちを食す
■こたつ(開き)・・・江戸時代、こたつを出す日は一〇月の亥の日と決まっていた
■恵比寿講・・・留守を守る恵比寿様を慰め、商売繁盛を祈願
■恵比寿講・・・東京名物「べったら市」の由来
■誓文払い・・・特売行事の由来は、商人・遊女の客への罪滅ぼし
■ハロウィン・・・仮装するのは、本来、魔除けのため
■ハロウィン・・・本場・欧米では、仮装した子どもが家々を訪ね、お菓子をもらう
■ハロウィン・・・飾るのはカボチャでなく、もとはカブ(※当初、魔除けのために飾ったのはカボチャでなくカブだった)

一一月
■文化の日・・・もとは明治天皇の誕生日、日本国憲法公布の日を記念した祝日
■紅葉狩り・・・「観る」のに「狩る」と称するのはなぜ?
■紅葉狩り・・・江戸では男の遊びの口実だった
■酉の市・・・熊手で名高い「酉の市」のルーツは、日本武尊(やまとたけるのみこと)の東征
■酉の市・・・縁起物の熊手は、値切った分をご祝儀として置いて帰るのがしきたり
■酉の市・・・熊手と並ぶ縁起物は黄金もちと八頭(やつがしら)
■七五三・・・三歳・五歳・七歳それぞれが独立した行事だった
■七五三・・・一一月一五日になったのは、五代将軍・徳川綱吉に由来
■七五三・・・千歳飴は七五三の縁起物ではなかった
■勤労感謝の日・・・皇室行事「新嘗祭(にいなめさい)」に由来

一二月
■師走・・・一二月を「師走(しわす)」と呼ぶわけは?
■お歳暮・・・新年用の祖先や年神様へのお供え物を、本家・家元に届ける行事が由来
■お歳暮・・・贈る時期は、昔と今では異なる
■お歳暮・・・仕事などの利害関係者に盛んに贈り始めたのは明治時代
■お歳暮・・・「新巻き鮭」を贈るわけは?
■冬至・・・柚子湯には金運を願う意味もあった
■冬至・・・「ん」のつくものを食べると運を招く?
■冬至・・・かぼちゃを食べるのはなぜ?
■雪見・・・雪見は日本ならではの娯楽
■忘年会・・・明治時代に始まった日本独自の習慣
■クリスマス・・・本場・欧米では家族と過ごす日
■クリスマス・・・クリスマス・イブが重要なのはなぜ?
■クリスマス・・・赤いイチゴと白い生クリームのクリスマスケーキは日本発祥の風習
■クリスマス・・・かつてのプレゼントの定番は「歯磨き粉」だった?
■大そうじ・・・江戸時代は一二月一三日に行うものと決まっていた
■正月の準備・・・門松・しめ飾り・鏡もちを飾るのも、もちつきも一二月二九・三一日はタブー
■大みそか・・・一二月三一日をなぜ「大みそか」と称する?
■大みそか・・・江戸時代は大みそかを過ぎると、前年の借金は帳消しとなった
■年越しそば・・・かつては年越しそばでなく「年越し膳」
■年越しそば・・・健康と長寿を願って食す、江戸時代中期ごろからの習慣
■年越しそば・・・年を越してから食べると縁起が悪い
■年越しそば・・・「年越しうどん」を食べる地域がある?
■除夜の鐘・・・一〇八回つくのはなぜ?
■除夜の鐘・・・最後の一回は新年につく
■年ごもり・・・大みそかの夜は、元日の朝まで徹夜が常識だった
■新年の始まり・・・かつては大みそかの夜が、新年の始まり




大人の常識 日本のしきたり・年中行事(KADOKAWA)
KADOKAWA
カドカワストア
紀伊國屋書店

<大人の常識 日本のしきたり・年中行事(KADOKAWA)の本文一例>
参考のために、本文の一部を抜粋して、ご紹介します。


■母の日・・・日本の「母の日」は皇后誕生日だった。

日本で「母の日」の風習が広まったきっかけは、アメリカの「母の日」の提唱者アンナ・ジャービスがキリスト教系の学校・青山学院に働きかけ、大正二年(一九一三)ごろ、キリスト教会などで母の日礼拝が始まったことにある。

(中略)

母の日といえば五月の第二日曜だが、日本では大正時代に貞明皇后の誕生日である六月二五日が「地久節」といって国民の祝日になったことが礎となり、皇后陛下の誕生日である地久節を母の日と定めることが大正一五年から提唱されていた。

そして時代が昭和に代わり、昭和六年(一九三一)、大日本連合婦人会が結成されたのを機に、香淳皇后の誕生日である三月六日が「母の日」と制定されたのである。

それ以降の数年間、日本では皇后陛下の誕生日・三月六日と五月の第二日曜という二つの母の日が祝われることになった。昭和一〇年ごろからは、五月の母の日を「万国母の日」、「国際母の日」と名づけ、三月六日の母の日と区別して呼ぶようになった。

ところが

(中略)

が評判を呼び、母の日は五月の第二日曜という認識が一般的になっていった。

第二次世界大戦後は、地久節が廃止され、昭和二〇年代前半(一九四〇年代後半)あたりから「母の日」はアメリカにならって五月の第二日曜に限定されるようになり、現在に至るまで定着している。

なお、地久節とは、戦前に天皇誕生日を天長節といったのに対してつけられた名称である。


■年賀状・・・真冬なのに「新春」「迎春」などと書くわけは?

年賀状に大きく書かれた「新春」「迎春」「初春」「賀春」といった言葉を目にして、寒さが厳しさを増す真冬を迎えているのに、どうして「春」が到来したかのように書くのだろうと疑問を抱いた経験はないだろうか?

日本では、明治時代初期まで採用していた太陰太陽暦(旧暦)では、一年を約二週間ごとに分けた二十四節気のひとつ「立春」から一年が始まっていた。

(中略)

立春が正月であったことから、旧暦では、現在の季節感とは異なるが、一~三月は「春」、四~六月は「夏」、七~九月は「秋」、一〇~一二月は「冬」とも定義されていた。

このように、かつては一年の始まりである正月は、春の始まりでもあった。そのため、年賀状にも「新春」などの春の訪れを喜ぶ言葉が記されたのである。そして新暦となったいまでも、その習慣が受け継がれているというわけだ。


■お年玉・・・昔はお金ではなく、おもちを渡していた。

いまの時代、「お年玉」といえば、正月に大人が子どもへ贈るお金のことだと誰もが認識している。しかし、昔はお年玉として渡すものは「おもち」だった。それには鏡もちが深く関係している。

正月には、新たな一年の幸福や恵みをもたらす年神様に鏡もちをお供えする風習がある。各家にやって来た年神様が居場所とする鏡もちには、年神様の魂が宿る。こうした鏡もちを家長が家族に分け与えることを、年神様の魂をいただくという意味で「御年魂(おとしだま)」と呼び、やがて「お年玉」と称するようになった。年神様の賜り物(たまわりもの)であるとして「お年玉」になったという説もある。

お年玉がおもちからお金に変わったのは、

(中略)

が由来とされる。それから時代を経て、昭和三〇年代後半の高度経済成長時代ごろから、お年玉としてお金を子どもに与える習慣が都市部を中心に広がり、まもなく日本中に普及することになった。いまや、お年玉の本来の意味は忘れ去られてしまったようである。


■お雑煮・・・関東は角もち・しょうゆ味、関西は丸もち・みそ味(のわけは?)

正月料理のお雑煮は、地方によってさまざまな特色がある。大きく分けると、関東は「角もち」でしょうゆ味、関西は「丸もち」でみそ味が主流といえよう。

江戸時代にお雑煮を正月に食べる習慣が広まったが、当時、江戸は人口が多く、手で一つひとつ丸めてつくる丸もちより、伸ばして切り分けるだけで手早く多くつくれる角もちが好まれた。鏡もちを模した丸もちは円満の意味があって縁起がいいが、

(中略)

帯びるため、焼いて入れるようになったという。味付けはしょうゆ仕立てのすまし汁。

(中略)

が連想されて縁起がよくないという理由で、みそは使わなかった。江戸のこうしたお雑煮文化は、いまも東日本に多く見られる。

一方、関西では縁起物の丸もちを焼かずにそのまま入れ、味付けは白みそ仕立てである。ただし、関西以外の西日本ではすまし汁仕立てが多い。江戸時代に参勤交代で全国各地から江戸にやって来た大名が、江戸のお雑煮を食べ、地元に帰った後に伝えたからという説がある。


■節分・・・寺社で豆をまく際、「鬼は外」とは言わない。

節分に鬼退治で豆をまくとき、「鬼は外、福は内」という掛け声を発するのが習わしだが、全国共通の口上というわけではない。全国各地の寺社の多くでは「鬼は外」という言葉を唱えることはタブーとされている。

(中略)

が理由だが、災厄をもたらす鬼も受け入れて、仏の力で改心させ、

(中略)

を運んでくれるよう帰ってもらうという哲学がその裏にあるからである。

そうした背景があり、多くの寺社では節分の豆まきの際に、「福は内」だけを口上としたり、

(中略)

などと唱えたりする。


■節分・・・恵方巻きを丸ごと一本食べるのは、縁を切らないため

節分の夜に、その年の恵方を向いて、願いごとを頭に思い浮かべながら無言で恵方巻き(風呂巻き寿司)を丸かじりすると、願いごとが叶う、あるいは一年を無病息災で過ごせるとされる。

恵方巻きの発祥は大阪で、誕生した時期は江戸時代末期から大正時代初期までの間でさまざまな説が存在する。

節分に恵方巻きを食べる風習が広まったのは、

(中略)

恵方巻きは、七福神にあやかって七種類の具を入れた太巻き寿司が一般的だが、それは福を巻き込むという理由から。丸ごと一本を丸かじりするのは

(中略)

を入れて縁を切らないという意味合いがある。


■盆踊り・・・明治時代初期、政府に禁止されたこともあった

夏の風物詩である盆踊りは、本来、お盆の時期にこの世に戻ってきた先祖や故人の霊を踊りによって供養し、あの世へ送り返すのが主眼である。

ところが、徐々にお祭りや娯楽の要素が加わるようになり、旧暦の七月一五日だけに行われていた盆踊りは、江戸時代には一〇月まで延長して連日、夜通し踊り明かすほどの熱狂的な人気を集めるようになった。

そして、死者の供養の場は、踊りに参加した男女の出会いの場へと変貌を遂げ、ざこ寝をした男女が乱交を行う風習まで生まれた。

明治時代初期、鎖国に終止符を打って世界との交流が広がるようになると、盆踊りは「風紀を乱し、世界に恥をさらす風習」として、明治政府によって全国各地で禁止された。その結果、

(以下省略)


■花火大会(花火)・・・戦のための火薬を、故人の鎮魂のために利用

火薬はもともと、戦国時代の一六世紀中頃に火縄銃が日本に伝来したとき、弾の発射薬として利用されていた。しかし、乱世が幕を閉じ、戦(いくさ)のない江戸時代になると、火薬は人々を楽しませる花火として平和的に活用されるようになった。

日本の花火には、この世を去った人々の魂を供養する意味合いがある。たとえば、日本を代表する花火大会「隅田川花火」は、享保一七年(一七三二)に江戸で凶作による飢饉とコレラが大流行して多数の死者が出たため、翌年の享保一八年(一七三三)に江戸幕府第八代将軍・徳川吉宗が亡くなった方々の霊を慰め、悪病を退散させる目的で、旧暦五月二八日から八月二八日の両国(隅田川)の川開きに花火の打ち上げを許可したのが由来である。当時、江戸の町中では、花火は火事の原因になるとして禁止されていた。

こうして先立った人々、先祖への鎮魂の想いが込められているため、

(以下省略)


■お月見・・・月見だんごは盗まれるほど縁起がいい?

お月見の際に軒先や玄関などにお供えした月見だんごは、盗まれるほど縁起がよいとされていた。月見だんごがなくなっても、お月様が持って行ってくださったと考えられ、逆におめでたいと歓迎されたのである。

近所の子どもたちがお供えされた月見だんごを竹や木の長い棒で突いて盗み食いし、数多く盗んだほうが縁起がいいとする「お月見どろぼう」という風習まであった。

さらには、

(中略)

とする慣習まで存在した。


■体育の日・・・一〇月一〇日が「体育の日」になったわけは?

「体育の日」は、昭和三九年(一九六四)の東京五輪の開会式が行われた一〇月一〇を記念して、二年後の昭和四一年に制定された国民の祝日。「国民がスポーツに親しみ、健康な心身をつちかう」ことを趣旨としている。ハッピーマンデー制度の導入により、現在は一〇月の第二月曜日が体育の日となっている。

一九六四年の東京五輪は第一八回夏季オリンピック大会だが、日本を襲う七、八月の猛暑の最中での開催は、選手の体調が憂慮されることから回避された。そこで夏の厳しい暑さが去り、秋雨前線の活動が弱まって晴天に恵まれる確率が高い日として、一〇月一〇日が開会式に選ばれたという。当日は、朝まで前夜の雨が残ったが、開会式が始まるころには、雲が晴れて青空が広がった。

夏季オリンピックでは、本来は秋・冬のスポーツであるマラソンやサッカーなども行われる。選手たちが本来の能力を十分に発揮できるように、可能な限り日程を調整し、環境を整えることは当然のことである。

現在は、夏季オリンピックの日程を七、八月から他の月に移行することは難しいといわれる。

(中略)

が理由のようだ。

一九六四年の東京五輪は、オリンピック史上初のテレビ衛星放送が実現した大会。テレビがまだ世界的に普及しておらず、アメリカのテレビ局による放映権料のしがらみとも無縁の時代であったため、一〇月の開催が実現した。

二〇二〇年の東京五輪は、七月二四日の開会式を皮切りに八月九日の閉会式まで、真夏の猛暑のなかで開催される。


■ハロウィン・・・飾るのはカボチャでなく、もともとはカブだった

ハロウィンの飾りとして店頭や街中でよく見られるのが、オレンジ色のカボチャを顔に似せて彫り、中身をくり抜いて、内側からロウソクで火を灯す「ジャック・オー・ランタン」。悪霊や魔女を寄せつけないために飾りつけられる。

その由来は

(中略)

じつは、カボチャがランタンとして使われるようになったのは、一九世紀にハロウィンの風習が移民によってヨーロッパからアメリカに持ち込まれて以降のこと。本来、ヨーロッパではカブを利用してランタンをつくっていた。現在でも英国やアイルランドの一部の地域ではカブを使っている。

しかし、カボチャのほうがカブよりも加工しやすく見栄えもよいため、ハロウィン用のカボチャのランタンはヨーロッパでも親しまれるようになった。さらに、世界各地にも普及して、ハロウィンを象徴する飾り物となった。



「横浜謎解き散歩」(KADOKAWA 新人物文庫)。本ブログにない横浜の秘密・謎を満載!

2021-08-31 07:19:06 | 
江戸時代の幕末、安政6年(1859年)にアメリカからの開国の要求に応じて、日本は長年続いた鎖国に終止符を打つ決断をした。開港した横浜では、世界各国の人々が貿易のために船で訪れるようになっただけではなく、外国人居留地が設けられ、海外の人々が生活の拠点とし、貿易や商売をすることが認められることになった。

横浜・山下および山手の2つの外国人居留地で暮らしを営むようになった世界の人々は、より快適な生活を送るため、さまざまな自国の文化を横浜に持ち込んだ。好奇心旺盛な横浜の人々はそうした海外の文化を積極的に日々の暮らしに取り入れた。横浜はそうした歴史の背景があるため、異国情緒が漂い、日本の発祥となっている文化にあふれている。

自著「横浜謎解き散歩」(KADOKAWA 新人物文庫/監修:小市和雄)は、厳選した横浜の歴史雑学文庫。

本ブログ「横浜の秘密」では紹介していない“横浜の秘密や謎”が盛りだくさんである。本ブログと併せてお読みいただければ、きっと、横浜の奥の深さがわかり、横浜をもっと好きになったり、横浜がもっと楽しくなったり、横浜に足を運んでみたくなったりすることだろう。

2002年にはサッカー・ワールドカップの、2019年はラグビー・ワールドカップの決勝戦の舞台として世界的に耳目を集め、2021年に2020年東京五輪が開催されて野球・ソフトボールの歴史的決戦のメインステージとしても、さらに脚光を浴びた横浜。「横浜謎解き散歩」を手にすれば、その知られざる生い立ち、歴史、文化、素顔などなど、一歩踏み込んだ横浜に心動かされるはずだ。



横浜謎解き散歩(KADOKAWA 新人物文庫)

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【内容・目次】

第1章 横浜ってどんなとこ?

■開国が生んだ異国情緒と宿場の面影
■横浜という土地柄が生んだ多彩な人材
■ハマっ子を熱狂させる野球とサッカー
■横浜の新たな挑戦、みなとみらい21と八景島

第2章 開港・歴史編

■横浜市は誕生当初、いまの約八〇分の一の広さだった?
■日米和親条約の交渉場所は、鎌倉か浦賀の可能性もあった?
■八景島に「ペリー艦隊碇泊地記念碑」が建つわけは?
■日米和親条約の締結時に、力士が活躍した?
■開港する予定だったのは、「横浜」ではなく「神奈川」?
■横浜には開港後、二つの外国人居留地があった?
■居留地の外国人は、開港場から約四〇キロメートル以上は外出禁止?
■人気スポット・元町ができた意外な経緯とは?
■居留地の外国人は、特別パスポートで箱根や熱海にも出かけた?
■外国人居留地を見回る「どんどこ廻り」は日本初のパトロール?
■「港の見える丘公園」に、英仏軍が一二年近く駐屯していた?
■中華街を守る「加賀町警察署」は、「居留地警察署」だった?
■横浜天主堂の鐘は火災警報に使われた?
■「ぺけ」「ちゃぶ台」は、外国人との交流から誕生した言葉?
■横浜の開港は七月一日なのに、開港記念日が六月二日のわけは?

第3章 交通編

■日本大通りは、大火災を防ぐためにつくられた?
■街路樹を日本で初めて植えたのは、馬車道だった?
■関内と伊勢佐木町を結ぶ「吉田橋」が、「カネの橋」と呼ばれたのはなぜ?
■「象の鼻」はなぜ横浜港につくられた?
■開港時につくられた、横浜港と東海道を結ぶ「横浜道」とは?
■祝祭日に日の丸を掲げる慣習は、日本初の鉄道が起源?
■初代横浜駅は、いまの桜木町駅だった?
■横浜駅、じつは三代目?
■日本のレンタサイクルの発祥地は元町だった?
■京浜急行・横浜駅~戸部駅間にある謎のプラットホームの正体は?
■JR鶴見線に財閥や実業家にちなんだ駅名が多いのはなぜ?
■JR鶴見線・海芝浦駅は、東芝勤務の人しか改札の外に出られない?
■東海道の「権太坂」と箱根駅伝の「権太坂」は、場所が異なる?
■「開かずの踏切」に激怒した吉田茂の「ワンマン道路」とは?
■「こどもの国線」はかつて軍用路線だった?
■清水谷戸トンネルは、日本の現役最古の鉄道トンネル?
■長津田と荏田は、東海道の裏街道の宿場町だった?
■六浦から鎌倉へ物資を運んだ「朝比奈切通し」とは?

第4章 地名・地理編

■住所に地番をつける慣習は、横浜の外国人居留地で始まった?
■山下町と山手町の番地は、かつての外国人居留地の地番と同じ?
■山下町にあるのになぜ「加賀町警察署」「薩摩町中区役所前」?
■「関内」というの町名はないのに、駅とエリアがあるのはなぜ?
■「伊勢佐木町」の町名は、街を整備した三人の名前と屋号が由来?
■「高島町」の由来となった高島嘉右衛門とはどんな人物?
■源頼朝の命名の「屛風ヶ浦」は、本当はどこからどこまで?
■横浜がかつて相模国と武蔵国に分かれていたことを示すスポットとは?
■「金沢八景」の発祥地は、金沢文庫に近い能見堂だった?

第5章 食・料理編

■西洋人が通訳として連れてきた中国人が、横浜中華街の始まり?
■「中華街」は戦後、横浜生まれの造語?
■中華街ははじめ、グルメの街ではなかった?
■中華街の道はなぜ海岸線に対して斜めなのか?
■馬車道に開業した日本人初のアイスクリーム店の苦労とは?
■牛鍋屋の日本初開業をめぐり、創業者が離婚の危機に?
■横浜生まれの「サンマーメン」、その名の由来は?
■キャベツなどの西洋野菜が横浜で初めて栽培された?
■ホテルニューグランドは、ナポリタン発祥の地?
■不二家伊勢佐木町店では戦前にコーラが飲めた?
■横浜駅が始発駅でなかったことが、崎陽軒のシウマイを生んだ?
■綱島は、戦前まで岡山と並ぶ桃の名産地だった?
■横浜でつくられた日本初のハムが、「鎌倉ハム」と呼ばれるわけは?

第6章 文化・娯楽・スポーツ編

■日本初の電報・電話サービスが東京~横浜間で始まったときの騒動とは?
■山手の妙香寺は、「君が代」発祥の地?
■横浜市歌の作詞者は、文豪・森鷗外?
■「山下公園」は、関東大震災のガレキでつくられた?
■谷崎潤一郎も書き記した、幻の絶景スポット「元町百段」とは?
■山下・本牧・磯子・富岡にも、かつて海水浴場があった?
■「野島」に残された横浜唯一の自然海岸と数々の歴史遺産とは?
■「海の公園」にある横浜唯一の海水浴場は、千葉県生まれ?
■日本初の女学校「フェリス女学院」は、当初、男女共学だった?
■映画の「封切り」という言葉は、伊勢佐木町のオデヲン座が発祥?
■「ズーラシア」は、野毛山動物園を廃止してつくる予定だった?
■綱島はかつて「東京の奥座敷」と称された、有名な温泉街だった?
■富岡(横浜市金沢区)は直木三十五ゆかりの地?
■「根岸競馬場」は、生麦事件をきっかけに生まれた。
■日本初の洋式公園「山手公園」は、日本のテニス発祥地?
■日本初の「野球の試合」は、横浜公園で行われていない?
■外国人居留地の陸上競技大会が、日本の運動会の起源?
■伊勢佐木町の「ウェルカム・ゲート」と東京五輪との関係は?
■日本サッカーの守り神になった「師岡熊野神社」とは?

第7章 建物・施設編

■山手の横浜外国人墓地は、横須賀にできる可能性もあった?
■外国の公館が神奈川区のお寺に置かれたわけは?
■開港当初、成仏寺がキリスト教宣教師の宿舎になった?
■本覚寺は、なぜ日本のペンキ発祥の地と呼ばれる?
■浦島太郎の伝説が伝わる慶運寺とは?
■北条政子と井土ヶ谷の「乗蓮寺」の関係は?
■日本初の公衆トイレは、外国人のクレームから設置された?
■一日で全部めぐると願いがかなうという「横浜三塔」とは?
■日本初のホテル「横浜ホテル」には日本初の施設がいっぱい!
■「横浜天主堂」のマリア像が白く塗られたわけは?
■「横浜マリンタワー」の外観がかつて赤と白だったわけは?
■慶応義塾大学日吉キャンパスにある戦争遺跡とは?


西洋理髪発祥之地記念碑「ザンギリ」は、なぜ山下公園に建っている?

2016-06-10 22:03:51 | 日本の発祥
安政6年(1859年)に開港した横浜には、外国人が永住し、会社やお店を構えて貿易や商売をすることができる外国人居留地が設けられた。居留地で仕事や生活を営んだ外国人たちは、より快適に暮らすために慣れ親しんでいる自国の文化を数多く横浜に持ち込んだ。一方で、好奇心旺盛な横浜の人々は、自分たちの暮らしに欧米文化を積極的に取り入れた。その結果、横浜には日本での発祥となったものが多いのだが、「西洋理髪」もそのひとつである。

江戸時代といえば、時代劇などを見てもわかるように男性はちょんまげか総髪、女性は日本髪が一般的であった。いずれも長く伸ばした髪を結うスタイルである。一方、西洋人は髪を結うほどには伸ばさずに短く切って整えていた。大多数の日本人はみずからの髪型にこだわりと誇りをもっていたが、なかには西洋人のヘアスタイルに関心を示す者もいた。

開港後、当時はちょんまげを結っていた日本人の結髪師たちは、横浜港に停泊した外国船に仕事道具のカミソリを手に出入りし、船の乗組員の顔のひげ剃りをする商売をするようになった。それだけでは飽き足らず、日本人の間で西洋風のヘアスタイルが広まることを見越して、船内の西洋理髪師からハサミの使い方など理容技術を習得する者が現れたのである。

ただし、日本初の西洋理髪店(理容室=ヘアー・ドレッシング・サロン)は、日本人ではなく外国人が開業。元治元年1月下旬ごろ(新暦:1864年3月初めごろ)、外国人居留地(山下居留地)70番に建てられた日本初のホテル「横浜ホテル」内でヨーロッパ人理容師ファーガスンがオープンした。場所は、現在の山下町70番地、大桟橋通りと本町通りが交差する一角にあたる。

日本人で初の西洋理髪店を開いたのは、それから約5年後の明治2年(1869年)、外国船で西洋理髪の技術を身につけた小倉虎吉であった。外国人居留地(山下居留地)148番に店舗を構えたと伝えられている。場所は、現在の山下町148番地、横浜中華街の中華街大通り沿いにある老舗中華料理店・同發本館のあたりだという。当時はまだ中国人たちが仕事や生活の場とする横浜中華街は形成されていなかった。

明治4年8月9日(新暦:1871年9月23日)には「断髪令」が出され、明治政府がヘアスタイルの洋風化をさらに後押しした。新聞の影響力を利用して、木戸孝允が「半髪頭(=ちょんまげ)を叩いてみれば、因循姑息な音がする。総髪頭(=長髪)を叩いてみれば、王政復古の音がする。散切り頭(=西洋人風の髪型)を叩いてみれば、文明開化の音がする」という俗謡も掲載。ちょんまげや総髪はもう古くて時代遅れであり、洋風の髪型は新しい時代の先端を行っているというような意味であろう。この俗謡から、西洋人風のヘアスタイルは「散切り(ザンギリ)頭」と呼ばれ、文明開化の象徴にもなったのである。

ただし、断髪令は強制ではなく髪型を自由にしてよいという法令だったため、しばらくはちょんまげや総髪を死守する日本人が多かったという。先頭を切って断髪したのは、時代の流れに敏感な学生や学者、役人などだが、少数派であった。日本の日常生活では見慣れなかったこともあり、当初は奇異にも思われた西洋人風の髪型だが、明治6年(1873年)3月20日、明治天皇が断髪されたことで、日本人のちょんまげや総髪への執着は大きく減ったという。髪を結う手間が省けるという利便性もあり、徐々に断髪する日本人が増えていった。日本人のほとんどの断髪が済んだのは明治22年(1889年)ごろといわれる。

横浜の山下公園には、小倉虎吉が創業した日本人初の西洋理髪店を記念して、平成元年(1989年)11月、神奈川県理容環境衛生同業組合により「西洋理髪発祥之地」の記念碑「ザンギリ」が建てられた。高さ約2メートル、重さ約2トンの巨大な御影石を、ザンギリ頭と称された洋風の髪型をした男性の顔に彫り上げた白い石像は、イースター島のモアイ像を連想させる。

しかしながら、日本人初の西洋理髪店が開業した場所は、現在の横浜中華街である。どうして、山下公園に記念碑「ザンギリ」が建てられたのか?

しかも、日本人初の西洋理髪店がオープンした明治2年(1869年)には、山下公園はまだ存在していない。大正12年(1923年)9月1日に発生した関東大震災のガレキで横浜港沿いの海岸を埋め立て、昭和5年(1930年)2月28日に完成し、翌月3月15日に開園したのが山下公園である。関東大震災の復興事業の一環としてつくられた山下公園と日本人初の西洋理髪店との間には何の接点もないように思われる。
<※山下公園の誕生の経緯に関しては、自著「横浜謎解き散歩」(KADOKAWA 新人物文庫/監修:小市和雄)で「山下公園は、関東大震災のガレキでつくられた?」と題して詳しく記しているので参照していただけると幸いである。>


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山下公園がつくられる以前、その場所は港の海および海岸であり、岸壁にはフランス波止場あるいは東波止場と呼ばれた2つの突堤が文久4年(1864年)に設けられた。小倉虎吉など日本人の結髪師たちは、その突堤に横づけされた小舟に乗って沖合に停泊していた大型の外国船に出入りし、西洋理髪の技術をマスターしている。見方を変えれば、いまは山下公園となっている場所こそが、日本人による西洋理髪の原点になったとも考えられる。

また、現在の横浜中華街・中華街大通り沿いの同發本館のあたりに日本人初の西洋理髪発祥之地の記念碑を建てるとなると、中国の方々の許可を得る必要があるし、何よりも老舗中華料理店の前にそうしたスペースは確保することは困難であろう。

そう考えれば、「西洋理髪発祥之地」の記念碑「ザンギリ」が、山下公園に設けられているのも合点がいくが、いかがだろう?

崎陽軒のシウマイ娘は、元祖キャンペーンガール。

2016-05-30 10:47:19 | 横浜の食・グルメ
横浜名物として幅広く親しまれている食が「崎陽軒のシウマイ」。いまでこそ高い人気と知名度を誇っているが、当初から順風満帆というわけではなかった。

明治41年(1908年)、横浜駅(※初代横浜駅=現在のJR桜木町駅)構内の食料・雑貨の売店として創業した「崎陽軒」。発足したばかりのころは「シウマイ」は開発されておらず、目玉商品がなかった。駅弁は販売していたが、当時の東海道線の下り列車では始発の東京駅で駅弁の購入を済ませる人が多く、反対の上り列車では横浜駅から終点の東京駅まで約30分なのでゆったりと駅弁を味わう時間的余裕がない。その結果、横浜駅では駅弁の売れ行きもかんばしくなかったのである。

会社の存続に危機意識を抱いた崎陽軒の初代社長・野並茂吉は、当時の横浜駅構内ホームでの店舗販売という恵まれているとは言い難い条件を、逆転の発想で克服する。

昭和に入り、当時は南京町と呼ばれていた横浜中華街で、突き出しに出された点心のひとつ「焼売(しゅうまい)」に着目。ただし、大きな問題点が壁として立ちはだかった。「しゅうまい」はつくりたての温かいうちに食べるとおいしいが、冷めるとおいしさが損なわれてしまうのだ。

横浜駅で販売するにあたり、つくった後、駅まで運ぶ時間、店頭に並べて売れるまでの時間などを計算すると、「しゅうまい」は冷めておいしさが失われてしまい、人々に受け入れられない。そこを逆手にとり、つくってから時間がたって冷めてしまってもおいしい「しゅうまい」をつくろうと考えたのである。横浜中華街(南京町)の点心職人・呉遇孫(ご ぐうそん)をスカウトし、約一年間、研究と試作を繰り返した結果、崎陽軒独自の「冷めてもおいしいシウマイ」は完成した。

豚肉とホタテ貝柱を混ぜ合わせる独自の調理法を編み出して誕生した「冷めてもおいしいシウマイ」は、昭和3年(1928年)、「横浜駅崎陽軒のシウマイ」(12個入り・一折り50銭)として、横浜駅(※現在の三代目横浜駅)で販売がスタートした。

しかし、販売が開始されてすぐに人気を集めたわけではなかった。飛躍のきっかけは、第二次世界大戦後の昭和25年(1950年)、「シウマイ娘」をPRのために導入したことにある。

鉄道での駅弁などの飲食料品の販売といえば、現在では駅構内の売店か車内で売るスタイルが定着している。しかし、かつては駅のホームに立った販売員が、かごや箱に入れた飲食料品を列車の車窓を通して乗客に販売するという方法が一般的であった。

そこで、横浜駅のホームに「シウマイ」の販売員として投入されたのが「シウマイ娘」である。鮮やかな赤いチャイナドレス風の制服に「シウマイ」と書かれたミス・コンステスト受賞者風のたすきを掛け、手かごに入れたシウマイを「シウマイはいかがですか?」と呼びかけながら車窓で売り歩くのだ。

崎陽軒の「シウマイ娘」は世の中の注目を集め、「同じシウマイを買うなら、シウマイ娘から」とアイドル的な人気を博すようになった。登場から2年後の昭和27年(1952年)には、獅子文六による毎日新聞の連載小説「やっさもっさ」で横浜を舞台にしたシウマイ娘・花咲千代子と野球選手・赤松太郎の恋愛物語が描かれ、評判を集めた。翌年の昭和28年(1953年)になると、この小説は松竹大船により映画化までされた。野球選手役は佐田啓二、シウマイ娘役は桂木洋子という当時の映画界のスターコンビが務めている。

全国的に知名度が高まった「シウマイ娘」は、当時の女性のあこがれの職業ともなり、崎陽軒の「シウマイ」の売り上げアップに大きく貢献した。いわば現在の企業のキャンペーンガール的な役割も担っていたのである。

日本初のキャンペーンガールは、昭和41年(1966年)、資生堂が夏のキャンペーンのために起用した前田美波里である。その16年前の昭和25年(1950年)にデビューを果たした崎陽軒の「シウマイ娘」は、まさにキャンペーンガールの先駆けともいえる存在であった。


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ハマスタのある横浜公園は、「日本最古の公園」ではなく「日本人が利用できる日本最古の公園」。

2016-05-23 10:28:01 | 日本の発祥
横浜といえば、全国に名を馳せる公園がいくつもある。山下公園、港の見える丘公園などは、その代表であろう。

プロ野球球団の横浜DeNAベイスターズが本拠地としている横浜スタジアム(通称:ハマスタ)が建つ「横浜公園」も、日本史に残る歴史を背負った横浜の代表的な公園だ。

「横浜謎解き散歩」(KADOKAWA 新人物文庫/監修:小市和雄)の著者ということで、今年4月14日、テレビ朝日の夕方の報道番組「スーパーJチャンネル」内の「春の横浜謎解き散歩」と題した特集コーナーに出演させていただいた際、訪れた場所のひとつが「横浜公園」である。


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JR関内駅南口の改札を出て左手に数メートル進み、駅舎を出る。目の前にそびえる横浜市役所の前から右手に50メートルほど進むと、横断歩道をはさんでハマスタと横浜公園が目に飛び込んでくる。さらに、ハマスタを横目に公園内を日本大通り方面に向かって歩いていくと、3つ並んだベンチのそばに「公園由来碑」が建っている。公園由来碑は、昭和4年(1929年)3月、当時の第10代横浜市長・有吉忠一(ありよしちゅういち)が、関東大震災(大正12年(1923年)9月1日)の復興事業の一環として横浜公園を整備した際に設けたもの。碑の名称は記されていないが、有吉忠一という人物名が碑文の最後で確認できるはずだ。

碑文を読むと1行目に「我国最古の公園」と記されている。この一文を目にした方なら誰もが「横浜公園は、日本最古の公園」と読み取るはずだ。しかし、これは誤りである。

江戸時代末期の安政6年6月2日(新暦:1859年7月1日)、前年に日本とアメリカとの間で結ばれた日米修好通商条約にもとづいて、横浜は開港した。その後、山下居留地と山手居留地という横浜にあった2つの外国人居留地の人々による強い要望により、横浜に「公園」がつくられることになった。

「横浜公園」は、外国人居留民の声に応えて誕生した公園のひとつである。明治9年(1876年)2月、「外国人も日本人も利用できる日本初の公園」として開園。外国人(彼)も日本人(我)も利用できるため、「彼我(ひが)公園」の異名も授けられた。

ところが、外国人居留民の要求により、じつは「横浜公園」がオープンする6年前の明治3年5月6日(新暦:1870年6月4日)、横浜の山手に「山手公園」が開園している。日本のテニス発祥地としても名高いこちらの「山手公園」こそが「日本最古の公園」なのだ。しかし、山手公園を利用できたのは当初、外国人に限定されていた。日本人は山手公園で憩いのひとときを過ごすことも、テニスなどのスポーツを楽しむことも、できなかったのである。

明治時代初期、公園というものは日本人にはまったくなじみのない施設であった。その点「横浜公園」は、外国人だけでなく日本人も利用できるという意味で画期的なものであった。日本人の日常生活に歴史上初めて公園が加わったのである。そういうわけで「横浜公園」は、公園由来碑に記されているように「我国最古の公園」ではなく、「日本人が利用できる日本最古の公園」と表現するのが正しい。

それでは、なぜ、横浜公園の公園由来碑に「我国最古の公園」という誤った情報を記してしまったのだろうか?

考えられるのは、日本最古の公園である「山手公園」は一般の日本人の利用が禁止されていたため、当時、本当に「公園」と定義できるのか疑問が生じ、外国人だけでなく日本人も利用できる「横浜公園」を「日本最古の公園」と結論づけてしまった可能性があるということだ。

また、「山手公園」が「横浜公園」の6年前にオープンしたという時代考証を行わなかった可能性も否定できない。

ただし、いずれにしろ推察の域を出ない。

横浜公園を訪れたら、あるいは横浜DeNAベイスターズや高校野球の試合観戦でハマスタに足を運んだら、「公園由来碑」にも目を向けて歴史の謎に思いを馳せ、思索を巡らせてみてはいかがだろう。