横浜の秘密

知らなかった横浜がいっぱい ~鈴木祐蔵ブログ~

崎陽軒のシウマイ娘は、元祖キャンペーンガール。

2016-05-30 10:47:19 | 横浜の食・グルメ
横浜名物として幅広く親しまれている食が「崎陽軒のシウマイ」。いまでこそ高い人気と知名度を誇っているが、当初から順風満帆というわけではなかった。

明治41年(1908年)、横浜駅(※初代横浜駅=現在のJR桜木町駅)構内の食料・雑貨の売店として創業した「崎陽軒」。発足したばかりのころは「シウマイ」は開発されておらず、目玉商品がなかった。駅弁は販売していたが、当時の東海道線の下り列車では始発の東京駅で駅弁の購入を済ませる人が多く、反対の上り列車では横浜駅から終点の東京駅まで約30分なのでゆったりと駅弁を味わう時間的余裕がない。その結果、横浜駅では駅弁の売れ行きもかんばしくなかったのである。

会社の存続に危機意識を抱いた崎陽軒の初代社長・野並茂吉は、当時の横浜駅構内ホームでの店舗販売という恵まれているとは言い難い条件を、逆転の発想で克服する。

昭和に入り、当時は南京町と呼ばれていた横浜中華街で、突き出しに出された点心のひとつ「焼売(しゅうまい)」に着目。ただし、大きな問題点が壁として立ちはだかった。「しゅうまい」はつくりたての温かいうちに食べるとおいしいが、冷めるとおいしさが損なわれてしまうのだ。

横浜駅で販売するにあたり、つくった後、駅まで運ぶ時間、店頭に並べて売れるまでの時間などを計算すると、「しゅうまい」は冷めておいしさが失われてしまい、人々に受け入れられない。そこを逆手にとり、つくってから時間がたって冷めてしまってもおいしい「しゅうまい」をつくろうと考えたのである。横浜中華街(南京町)の点心職人・呉遇孫(ご ぐうそん)をスカウトし、約一年間、研究と試作を繰り返した結果、崎陽軒独自の「冷めてもおいしいシウマイ」は完成した。

豚肉とホタテ貝柱を混ぜ合わせる独自の調理法を編み出して誕生した「冷めてもおいしいシウマイ」は、昭和3年(1928年)、「横浜駅崎陽軒のシウマイ」(12個入り・一折り50銭)として、横浜駅(※現在の三代目横浜駅)で販売がスタートした。

しかし、販売が開始されてすぐに人気を集めたわけではなかった。飛躍のきっかけは、第二次世界大戦後の昭和25年(1950年)、「シウマイ娘」をPRのために導入したことにある。

鉄道での駅弁などの飲食料品の販売といえば、現在では駅構内の売店か車内で売るスタイルが定着している。しかし、かつては駅のホームに立った販売員が、かごや箱に入れた飲食料品を列車の車窓を通して乗客に販売するという方法が一般的であった。

そこで、横浜駅のホームに「シウマイ」の販売員として投入されたのが「シウマイ娘」である。鮮やかな赤いチャイナドレス風の制服に「シウマイ」と書かれたミス・コンステスト受賞者風のたすきを掛け、手かごに入れたシウマイを「シウマイはいかがですか?」と呼びかけながら車窓で売り歩くのだ。

崎陽軒の「シウマイ娘」は世の中の注目を集め、「同じシウマイを買うなら、シウマイ娘から」とアイドル的な人気を博すようになった。登場から2年後の昭和27年(1952年)には、獅子文六による毎日新聞の連載小説「やっさもっさ」で横浜を舞台にしたシウマイ娘・花咲千代子と野球選手・赤松太郎の恋愛物語が描かれ、評判を集めた。翌年の昭和28年(1953年)になると、この小説は松竹大船により映画化までされた。野球選手役は佐田啓二、シウマイ娘役は桂木洋子という当時の映画界のスターコンビが務めている。

全国的に知名度が高まった「シウマイ娘」は、当時の女性のあこがれの職業ともなり、崎陽軒の「シウマイ」の売り上げアップに大きく貢献した。いわば現在の企業のキャンペーンガール的な役割も担っていたのである。

日本初のキャンペーンガールは、昭和41年(1966年)、資生堂が夏のキャンペーンのために起用した前田美波里である。その16年前の昭和25年(1950年)にデビューを果たした崎陽軒の「シウマイ娘」は、まさにキャンペーンガールの先駆けともいえる存在であった。


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ハマスタのある横浜公園は、「日本最古の公園」ではなく「日本人が利用できる日本最古の公園」。

2016-05-23 10:28:01 | 日本の発祥
横浜といえば、全国に名を馳せる公園がいくつもある。山下公園、港の見える丘公園などは、その代表であろう。

プロ野球球団の横浜DeNAベイスターズが本拠地としている横浜スタジアム(通称:ハマスタ)が建つ「横浜公園」も、日本史に残る歴史を背負った横浜の代表的な公園だ。

「横浜謎解き散歩」(KADOKAWA 新人物文庫/監修:小市和雄)の著者ということで、今年4月14日、テレビ朝日の夕方の報道番組「スーパーJチャンネル」内の「春の横浜謎解き散歩」と題した特集コーナーに出演させていただいた際、訪れた場所のひとつが「横浜公園」である。


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JR関内駅南口の改札を出て左手に数メートル進み、駅舎を出る。目の前にそびえる横浜市役所の前から右手に50メートルほど進むと、横断歩道をはさんでハマスタと横浜公園が目に飛び込んでくる。さらに、ハマスタを横目に公園内を日本大通り方面に向かって歩いていくと、3つ並んだベンチのそばに「公園由来碑」が建っている。公園由来碑は、昭和4年(1929年)3月、当時の第10代横浜市長・有吉忠一(ありよしちゅういち)が、関東大震災(大正12年(1923年)9月1日)の復興事業の一環として横浜公園を整備した際に設けたもの。碑の名称は記されていないが、有吉忠一という人物名が碑文の最後で確認できるはずだ。

碑文を読むと1行目に「我国最古の公園」と記されている。この一文を目にした方なら誰もが「横浜公園は、日本最古の公園」と読み取るはずだ。しかし、これは誤りである。

江戸時代末期の安政6年6月2日(新暦:1859年7月1日)、前年に日本とアメリカとの間で結ばれた日米修好通商条約にもとづいて、横浜は開港した。その後、山下居留地と山手居留地という横浜にあった2つの外国人居留地の人々による強い要望により、横浜に「公園」がつくられることになった。

「横浜公園」は、外国人居留民の声に応えて誕生した公園のひとつである。明治9年(1876年)2月、「外国人も日本人も利用できる日本初の公園」として開園。外国人(彼)も日本人(我)も利用できるため、「彼我(ひが)公園」の異名も授けられた。

ところが、外国人居留民の要求により、じつは「横浜公園」がオープンする6年前の明治3年5月6日(新暦:1870年6月4日)、横浜の山手に「山手公園」が開園している。日本のテニス発祥地としても名高いこちらの「山手公園」こそが「日本最古の公園」なのだ。しかし、山手公園を利用できたのは当初、外国人に限定されていた。日本人は山手公園で憩いのひとときを過ごすことも、テニスなどのスポーツを楽しむことも、できなかったのである。

明治時代初期、公園というものは日本人にはまったくなじみのない施設であった。その点「横浜公園」は、外国人だけでなく日本人も利用できるという意味で画期的なものであった。日本人の日常生活に歴史上初めて公園が加わったのである。そういうわけで「横浜公園」は、公園由来碑に記されているように「我国最古の公園」ではなく、「日本人が利用できる日本最古の公園」と表現するのが正しい。

それでは、なぜ、横浜公園の公園由来碑に「我国最古の公園」という誤った情報を記してしまったのだろうか?

考えられるのは、日本最古の公園である「山手公園」は一般の日本人の利用が禁止されていたため、当時、本当に「公園」と定義できるのか疑問が生じ、外国人だけでなく日本人も利用できる「横浜公園」を「日本最古の公園」と結論づけてしまった可能性があるということだ。

また、「山手公園」が「横浜公園」の6年前にオープンしたという時代考証を行わなかった可能性も否定できない。

ただし、いずれにしろ推察の域を出ない。

横浜公園を訪れたら、あるいは横浜DeNAベイスターズや高校野球の試合観戦でハマスタに足を運んだら、「公園由来碑」にも目を向けて歴史の謎に思いを馳せ、思索を巡らせてみてはいかがだろう。

馬車道は生チョコの発祥地ではない。

2016-05-14 01:12:51 | 横浜の食・グルメ
日本で初めて産声をあげたものがいろいろとある馬車道。しかし、なかには日本の発祥地だとカン違いされているものもある。

馬車道に「シルスマリア」という洋菓子店が店舗を構えており、「生チョコ発祥の店」と書かれたひときわ大きな看板を掲げている。散策している際などに目に飛び込んできやすい看板なので、あたかも馬車道が生チョコ発祥の地であるかのように錯覚しやすい。

確かに「シルスマリア」は「生チョコ発祥の店」。1988年、世界で初めて「生チョコ」を世に送り出した。ところが、馬車道が生チョコの発祥地ではないのだ。

じつは、「シルスマリア」は神奈川県平塚市に店舗を構えて誕生。世界初の「生チョコ」は、平塚店の工房で職人の手により生み出されたものである。「生チョコの発祥地は、神奈川県平塚市」ということになる。(※2019年12月現在、本店は馬車道店に)

横浜馬車道ビル1Fに店舗を構える馬車道店と、みなとみらい21エリアのMARK IS みなとみらい店、JR桜木町駅前に2017年12月オープンしたCIAL桜木町店、東京・南町田のグランベリーパークに2019年11月に新規開店した南町田グランベリーパーク店は、いずれも工房がない販売専門ショップ。そのため、平塚店の工房でつくられた生チョコや生ケーキ、焼き菓子をそれらの店舗まで運び、店頭で売っている。

馬車道やみなとみらい、桜木町、南町田で「生チョコ発祥の店」という大きな看板を見かけても、そこが「生チョコ発祥の地」だと決してカン違いしてはいけない。


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馬車道は日本人によるアイスクリーム発祥地。ただし、5月9日が発祥の日というのは間違い。

2016-05-09 23:42:38 | 横浜の食・グルメ
「横浜謎解き散歩」(KADOKAWA 新人物文庫/監修:小市和雄)の著者ということで、先月の2016年4月14日、テレビ朝日の夕方の報道番組「スーパーJチャンネル」内の「春の横浜謎解き散歩」と題した特集コーナーに出演させていただいた。そのとき、訪れた場所のひとつが馬車道である。

馬車道はさまざまな発祥の地だが、「日本のアイスクリーム発祥地」としても名を馳せている。ただ、これは多少の間違いを含んでいる。正確に言えば、「日本人が初めてアイスクリームを製造して販売した場所」なのだ。なので「日本人によるアイスクリームの発祥地」という表現が正しい。カン違いしやすいのだが、日本で初めてアイスクリームをつくって売った場所ではないのだ。

日本で最初にアイスクリームを製造して販売したのは、アメリカ人のリチャード・リズレー。慶応元年5月(新暦:1865年6月)、横浜の外国人居留地102番(現・山下町102番地)でアイスクリーム・サロンを開店した。現在のように冷蔵庫も冷凍庫もなく、製氷用の機械も工場もない時代のため、中国の天津(てんしん)から輸入した天津氷を利用してアイスクリームを作り、販売した。ちなみに、日本初の製氷工場が横浜の外国人居留地にできたのは明治12年(1879年)のことである。

日本人で初めてアイスクリームを製造・販売したのは町田房造(まちだふさぞう)。リズレーが日本初のアイスクリームを作ってから約4年後の明治2年6月(新暦:1869年7月)、馬車道(現:中区常磐町(ときわちょう)5丁目)に「氷水店」を開業し、日本人に親しみのあった氷水といっしょにアイスクリームを「あいすくりん」と称して売り出した。町田房造は明治2年に中川嘉兵衛が切り出しに成功した函館氷を原材料に使い、日本人初のアイスクリームをつくったと思われる。

そういうわけで馬車道は、日本のアイスクリーム発祥地ではなく、日本人によるアイスクリーム発祥地なのである。

さらに近年、アイスクリームの発祥に関して、大きな誤解が流布している。テレビから新聞、雑誌、インターネットまで「5月9日は、日本のアイスクリーム発祥の日」という誤った情報を流しているケースがじつに多く見受けられるのだ。

じつは5月9日は、アイスクリーム発祥の日ではなく、「アイスクリームの日」である。東京五輪が開催された昭和39年(1964年)に、東京アイスクリーム協会(現・日本アイスクリーム協会)がゴールデンウイーク明けの5月9日を「アイスクリームの日」と制定。アイスクリームの販売促進のため、さまざまなイベントを行うと同時に、いろいろな施設へアイスクリームをプレゼントした。現在でも5月9日は「アイスクリームの日」として、馬車道などでイベントが実施されている。

ただし、日本初のアイスクリームがいまの山下町でつくられたのは慶応元年5月(新暦:1865年6月)で日付まで明らかになっていないし、日本人初のアイスクリームが馬車道で誕生したのは明治2年6月(新暦:1869年7月)である。「5月9日がアイスクリーム発祥の日ではない」ことは、これらの史実からも明らかである。

昭和51年(1976年)11月、日本アイスクリーム協会がアイスクリーム発祥記念として、馬車道に「太陽の母子像」を寄贈。ハダカの女性が幼児をあやしている様子のデザインが印象的な像である。彫刻家・本郷新(ほんごうしん)による作品で、アイスクリームの原料・ミルクから連想して、母乳で子供を育む母をイメージして制作されたという。設置された場所は、町田房造の「氷水店」があった場所の道をはさんで向かい側である。

「太陽の母子像」の碑文を読むと、次のように記されている。

「横浜沿革史に『明治二年六月馬車道常磐町五丁目ニ於テ町田房造ナルモノ氷水店ヲ開業ス・・・」と誌されています。日本のアイスクリームの誕生です。私たちはこれを記念し、このゆかりの地に、モニュメントを建て寄贈します。 昭和五十一年十一月三日 社団法人 日本アイスクリーム協会、同 神奈川支部」

「横浜沿革史」とは当時の横浜に関する情報誌で、掲載された情報の精度の高さには定評があった。やはり、はっきりと明治二年六月と記されている。これは旧暦なので、新暦に直せば明治二年七月ということになる。このように「太陽の母子像」の碑文からも、日本のアイスクリームの発祥日が5月9日ではないことが証明できるのだ。

それでは、なぜ「5月9日は、日本のアイスクリーム発祥の日」という間違った情報が流され広まっているのか。それは「5月9日はアイスクリームの日」であることと「馬車道は、日本人初のアイスクリーム発祥地」である史実が混同され、正確な歴史を確認することなく、テレビ、新聞、雑誌、ネットなどで紹介し続けてしまっている結果であろう。

微力ながら、このブログで正しい情報をひとりでも多くの方に伝えられれば幸いである。


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※ちなみに、町田房造がつくった日本人初のアイスクリームの風味は、いまでも楽しむことができる。横浜のみなとみらい21エリアにある赤レンガ倉庫ニ号館1階のアイスクリーム店「YOKOHAMA BASHAMICHI ICE(ヨコハマバシャミチアイス)」では、牛乳、卵、砂糖と氷だけでつくったシャーベット状のシャリシャリした食感が特徴的な当時のアイスクリームの風味を再現して販売。明治2年6月にタイムスリップした感覚で、歴史のロマンまで味わえるはずだ。

「みなとみらい21」は「赤い靴シティ」になっていたかもしれない。

2016-05-09 10:15:51 | 横浜の地名
横浜のハーバーサイドという開放感のなか、歴史と未来が共存した独特の空間が形成され、多数の支持を集める日本最大級の人気観光エリア「みなとみらい21」。

赤レンガ倉庫を代表とする横浜港ゆかりの歴史的遺産を活かした施設とランドマークタワーを筆頭とする未来的デザインの建築物が、調和を保ちながら美しく配置されており、平日・休日を問わずに多数の人々が全国各地から訪れ、グルメ、ショッピング、映画、遊園地、散策などを思い思いに満喫している。

かつての「みなとみらい21」エリアには、三菱重工業横浜造船所など重厚長大な港湾施設群が整備され、日本の貿易そして横浜の発展を支えてきた歴史がある。しかし、時代の変遷により、港湾施設群がその両隣にある横浜駅周辺エリアと関内・中華街・元町・山手エリアを分断し、逆に横浜中心部の活力をそいでしまうという状況を招いていた。

そこで、昭和40年(1965年)に当時の飛鳥田一雄横浜市長が掲げた「横浜6大事業」のひとつ「横浜都心部の強化(横浜市都心臨海部総合整備計画)」を、1980年代に実行に移すことが決定。昭和55年(1980年)に三菱重工業横浜造船所の中区本牧および金沢区への移転が決まり、昭和58年(1983年)には移転が完了。その跡地を埋め立てて整備し、「みなとみらい21」エリアが誕生した。

「みなとみらい21」はエリア名として普及しているが、もともとは昭和56年(1981年)8月にこのエリアの再開発事業への市民の理解と関心を高めるために、「再開発事業のネーミング」として一般公募が行われ、2292点もの応募作のなかから選ばれたもの。しかし、じつは「みなとみらい21」は最終候補作として選出すらされておらず、最有力の候補案は「赤い靴シティ」だった。

横浜市役所の担当者が荒ら選びしたという第一次選考では、「赤い靴シティ」、「アクアコスモ」、「アクアシティ」、「エメラルドシティ」、「コスモポート」、「コスモポリス」、「サニーマリン」、「シーガルタウン」、「シーサイドシティ」、「シーサイドタウン」、「ニューポートタウン」、「ベイシティ」などがピックアップされた。じつは、この時点で「みなとみらい21」は落選していたのである。

一度は葬り去られたネーミング(再開発事業名)「みなとみらい21」が復活を遂げたのはなぜか?ネーミングの選考委員9名のひとりで「アンクルトリス」などのデザインで知られる横浜市在住のイラストレーター・柳原良平氏の眼力が、状況を一変させたという。カタカナ名が並ぶ候補案を見て「マンションの名前みたいだ」と違和感をもち、他の選考委員が目に留めなかった落選案「みなとみらい21」を再発掘して、強く推薦したということだ。

最終的に候補案は「赤い靴シティ」と「みなとみらい21」の2点に絞られ、選考委員による投票の結果「みなとみらい21」が再開発事業名に決定した。

事業名として選出された「みなとみらい21」だが、いまでは「エリア名」、「町名」、「横浜高速鉄道の路線名」、「駅名」などにも使われ、活躍の場を広げている。


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