横浜の秘密

知らなかった横浜がいっぱい ~鈴木祐蔵ブログ~

「みなとみらい21」は「赤い靴シティ」になっていたかもしれない。

2016-05-09 10:15:51 | 横浜の地名
横浜のハーバーサイドという開放感のなか、歴史と未来が共存した独特の空間が形成され、多数の支持を集める日本最大級の人気観光エリア「みなとみらい21」。

赤レンガ倉庫を代表とする横浜港ゆかりの歴史的遺産を活かした施設とランドマークタワーを筆頭とする未来的デザインの建築物が、調和を保ちながら美しく配置されており、平日・休日を問わずに多数の人々が全国各地から訪れ、グルメ、ショッピング、映画、遊園地、散策などを思い思いに満喫している。

かつての「みなとみらい21」エリアには、三菱重工業横浜造船所など重厚長大な港湾施設群が整備され、日本の貿易そして横浜の発展を支えてきた歴史がある。しかし、時代の変遷により、港湾施設群がその両隣にある横浜駅周辺エリアと関内・中華街・元町・山手エリアを分断し、逆に横浜中心部の活力をそいでしまうという状況を招いていた。

そこで、昭和40年(1965年)に当時の飛鳥田一雄横浜市長が掲げた「横浜6大事業」のひとつ「横浜都心部の強化(横浜市都心臨海部総合整備計画)」を、1980年代に実行に移すことが決定。昭和55年(1980年)に三菱重工業横浜造船所の中区本牧および金沢区への移転が決まり、昭和58年(1983年)には移転が完了。その跡地を埋め立てて整備し、「みなとみらい21」エリアが誕生した。

「みなとみらい21」はエリア名として普及しているが、もともとは昭和56年(1981年)8月にこのエリアの再開発事業への市民の理解と関心を高めるために、「再開発事業のネーミング」として一般公募が行われ、2292点もの応募作のなかから選ばれたもの。しかし、じつは「みなとみらい21」は最終候補作として選出すらされておらず、最有力の候補案は「赤い靴シティ」だった。

横浜市役所の担当者が荒ら選びしたという第一次選考では、「赤い靴シティ」、「アクアコスモ」、「アクアシティ」、「エメラルドシティ」、「コスモポート」、「コスモポリス」、「サニーマリン」、「シーガルタウン」、「シーサイドシティ」、「シーサイドタウン」、「ニューポートタウン」、「ベイシティ」などがピックアップされた。じつは、この時点で「みなとみらい21」は落選していたのである。

一度は葬り去られたネーミング(再開発事業名)「みなとみらい21」が復活を遂げたのはなぜか?ネーミングの選考委員9名のひとりで「アンクルトリス」などのデザインで知られる横浜市在住のイラストレーター・柳原良平氏の眼力が、状況を一変させたという。カタカナ名が並ぶ候補案を見て「マンションの名前みたいだ」と違和感をもち、他の選考委員が目に留めなかった落選案「みなとみらい21」を再発掘して、強く推薦したということだ。

最終的に候補案は「赤い靴シティ」と「みなとみらい21」の2点に絞られ、選考委員による投票の結果「みなとみらい21」が再開発事業名に決定した。

事業名として選出された「みなとみらい21」だが、いまでは「エリア名」、「町名」、「横浜高速鉄道の路線名」、「駅名」などにも使われ、活躍の場を広げている。


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横浜は、なぜ横浜という地名なのか?

2016-04-22 16:58:25 | 横浜の地名
日本では、おそらく多くの人が知っていると思われる都市「横浜」。でも、どうして「横浜」という地名なのかと問われれば、大半の人が首をひねって答えに窮してしまうのではないだろうか。

文字通り、「横の浜」、「横に浜」と考えてみる。地図を広げてみても、海沿いに足を運んでみても、陸地に沿ってその横に海が広がってはいるが、そんな風景は横浜に限らず日本全国いたるところで目にすることができる。

おまけに、横浜には現在、「浜」といえる場所がほとんど存在しない。横浜市の最南端に位置する金沢区の「海の公園」、同じく金沢区にあり、金沢八景のひとつ「野島夕照(のじまのせきしょう)」で知られる野島の野島海岸にしか「砂浜」は見られないのだ。ちなみに「海の公園」は横浜唯一の海水浴場、「野島海岸」は横浜に残されたたったひとつの自然海岸である。横浜の中心部になく、最南端にだけある「砂浜」を理由に、「横浜」と命名するわけがない。

ある程度の年輪を重ねた方であれば、昭和30~40年代までの横浜市内の沿岸部には、本牧、根岸、磯子、杉田、富岡、乙艫(おっとも。現在の表記は乙舳)、野島など、中区から磯子区、金沢区にかけて「砂浜」がある数々の自然海岸ならびに海水浴場が存在していたことをご存じであろう。しかし、戦後の高度経済成長期に日本の経済発展を促進するため、横浜市の海沿いは工場や企業の集約エリアとして活用することになり、それらの美しい海岸や砂浜のほとんどが埋め立てられてしまった。

ならば、いまは失われてしまったが、古来より存在し、人々に癒しや恵み、楽しみをもたらしてきたそれら多くの自然海岸が「横浜」の地名の由来となったのではないかと想像することもできる。ところが、それも地名とは無関係なのだ。

いまでこそ「横浜(横浜市)」は、北は青葉区から南は金沢区までの全18区からなり、面積435.23㎢(※平成28年<2016年>3月1日現在)もの広さを誇る大都市へと発展している。しかし、安政6年6月2日(※太陽暦:1859年7月1日)の開港より以前は、現在の中区山手のふもとから山下・関内エリアに位置する、武蔵国久良岐郡(むさしのくに くらきぐん)の小規模な寒村「横浜村」にすぎなかった。開港後は外国人居留地もある日本有数の港町として発展を遂げた横浜だが、明治22年(1899年)4月1日に市制が施行されて「横浜市」となった際でも、いまの中区・西区・南区の一部を有していたにすぎず、面積はわずか5.4㎢と現在の約80分の1の広さであった。横浜の開港以前はもとより、横浜市の誕生時点においても、本牧、根岸、磯子、杉田、富岡、乙艫(乙舳)、野島などの自然海岸は横浜には属していなかったからである。

それでは、開港以前の「横浜(横浜村)」は、どのような地形であったのだろうか。

現在の横浜の中心地である中区の関内・伊勢佐木町から南区のお三の宮日枝神社にいたる一帯は、江戸時代に埋め立てられるまで、釣鐘型の浅い入海となっていた。「横浜(横浜村)」は、山手のふもとの丘陵からその入海の先端までふたをするように西側の野毛方面に半島状に突き出た、細長い砂州によって形成された小さな村であった。いまの地理にあてはめると、横浜高速鉄道みなとみらい線の元町・中華街駅の近辺から西側に向かって日本大通り駅を過ぎ、馬車道駅が位置するあたりまでが、その砂州にあたる。

横浜村を形作っていたその細長い砂州は「洲干嶋」、「洲乾嶋」、「宗閑嶋」などとも称され、読んで字のごとく、乾いた砂地のまさに「浜」であった。そのため、入海の入口に向かって「横」に「浜」が半島のように延びていた地形そのものが、「横浜」という地名の由来になったと考えられている。


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