米沢市 洛中洛外図屏風
室町時代の京都の繁栄を示すのによく洛中洛外図が用いられます。
(試験にも出るようですね)
米沢市所蔵の洛中洛外図はその代表的な作例です。永禄8年(1565)年に狩野永徳によって作られたと考えらえていますが、歴史家の研究ではそれよりも20年以上前の景観だというのです。
ですからこの屏風が織田信長から上杉謙信に送られたというのですが、その理由をめぐって、さまざまな推測がなされています。
なぜそんなことになるのでしょう?
風景図は作者がその場にいて見たものを描く、というのは近代的な写生の感覚です。でも、昔の絵師は注文によって描いていたので、注文主の思惑を反映しなければいけません。
注文主は京都の昔の景観を絵師に描かせて、何かを伝えようとしたのだと思います。
それはなんだったのでしょう?
絵は上杉家に代々伝わりました。たしかに織田信長が源氏物語絵とこの絵を上杉謙信に送ったようです。
でも織田信長が送ったのは天正4年(1576)のようで、制作にかかわっていない可能性があります。ですから上杉家のためだということだけはわかります。
なぜ上杉家はこの屏風が欲しかったのでしょう?
さまざまな背景が考えられて、いま議論の最中です。
・将軍家と上杉家の関係
・上杉謙信の出世や歌道の成就
・京へのあこがれ
などさまざまですが、私たちは幅があるとはいえ16世紀の京都のようすをこの絵でうかがうことが出来ます。
この屏風は京都の一年の行事を描いていたり、寺や貴族の屋敷のようすを描いています。
そんなようすは、中国の清明上河図という画巻にもみられます。清明上河図は宋の時代(10~14世紀)から描かれましたが、ほぼ同時代の明時代によく描かれたようです。
もしかすると狩野派は中国の絵を見て、この絵の構想を考えたかもしれません。それは町の賑わいを緻密な描写で描くことです。米沢市の洛中洛外図はおよそ3000人の人物が描かれているそうです。
今の私たちは、渋谷のスクランブル交差点に外国人観光客が見入るような感じでしょうか?
画像お借りしました
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます