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中学生 勉強が得意になる

しばらくは歴史に強くなるをテーマにやります

獅子は何の象徴?

2023-08-05 10:51:51 | 歴史が得意になる

唐獅子図屏風は現在は屏風ですが、もとは壁絵などだったと思われます。ふつうの屏風よりもずっと大きいサイズです。

その大きな画面いっぱいに、中国風の獅子(ライオン)が二頭、ゆったりと歩いています。

「おれたちになにも恐れるものはない」といった風情です。

このような絵はその前にもその後にも描かれませんでした。

作者は狩野永徳と画面の狩野探幽の極め(鑑定)が書いています。永徳以外考えられないというのが、多くの意見です。

永徳は、なにを考えて、このような絵を描いたのでしょう。

注文主はこの獅子のような気持ちの人物・・・というと永徳の時代では、豊臣秀吉以外には考えにくいと思います。

この屏風は毛利家に伝わりました。秀吉が毛利を攻めて、その和睦のために与えたと伝えられています。

でも、美術史家は永徳のもっとのちの作風だと考えています。秀吉は大坂城、京都の聚楽第と大きな城を作りました。大坂城はのちに焼かれてしまいました。聚楽第は後継者としていた豊臣秀次に与えたのですが、謀反を理由に秀次を処刑するとともに聚楽第を破壊しました。

一部は諸侯がもらい受けたとも聞きます。

もしかすると聚楽第の広間を飾ったものではないでしょうか。聚楽第は贅をつくした究極の建物であったようです。この世のすべてを手にした王者の気持ちを反映している気がします。

 


天守閣は天主閣?

2023-08-03 22:02:38 | 歴史が得意になる

織田信長 画像お借りしました

織田信長は琵琶湖湖畔の安土に高層の天守閣を持った安土城を築きます。

それまで3層ほどの城はあったのですが、5層6階にも及ぶ高層の建物ははじめてです。その後の多くの城を見ているので、私たちはそれほど違和感はありませんが、はじめてその姿を見た人々は大いに驚いたことでしょう。

桃山時代の武将の城の象徴と言える天守閣はいったい誰が、どのような経緯で発想したのでしょう?

一つは中国の高層の楼閣、塔です。

安土城の天守閣の内装には中国の人物像が描かれました。

「安土山ノ記」を書いた妙心寺の南化玄興(なんかげんこう)の詩には

「阿房殿と同じように高い」

というように秦の始皇帝の宮殿阿房宮に比べています。

ただ、屋内の仏教的、儒教的な画題の上に信長がいるとすると、それらの上に立つという考えもあります。

もう一つは西洋の建築の影響です。これはまったくわかりません。しかし、安土城を建設する時に城下に宣教師の施設の建設を織田信長は許しています。信長は宣教師から多くの情報を得ていました。

そして、安土城が完成して、狩野永徳にそこからの景観を描かせて、それを屏風にしたててローマに送りました。西洋に城をアピールしたかったのでしょうか。

天主とはキリスト教の神ゼウスをさします。

「てんしゅ」は、殿主、殿守、守殿などを書かれたようですが、意外に天守という言い方は江戸時代に入って、とくに幕末にかけて多く用いられるようになった。信長のころは天主と書かれることがあり、それはキリスト教の主を指すと考える向きもあります。

さまざまな考えを現実化した信長の頭の中をのぞいてみたいものです。


ザビエルがやって来た

2023-08-03 13:42:02 | 歴史が得意になる

 

1549年、ザビエルが鹿児島にたどり着きます。

アンジロウという青年にマラッカで出会って、その聡明さに関心を持ち、日本に来たとされます。アンジロウは罪を背負った人物でした。

鹿児島から平戸へ行き、布教を始めました。山口の路上で説法をしていると、一人の足の不自由な男が、ザビエルに近づきました。のちに布教師となるロレンソです。ロレンソは目も不自由でした。

ザビエルは京都に向かい、まもなく豊後から日本を離れて、戻ることはありませんでした。

ロレンソは多くの人々に熱心に布教をし、織田信長や豊臣秀吉にも出会いました。

しかし、1587年、豊臣秀吉は九州を平定するために博多に来て、突然、伴天連追放令を発します。身近に仕えていたキリシタン大名高山右近はただちに所領を没収され、追放されました。

その後もしだいにキリスト教徒は迫害され、棄教、改宗しなければ、拷問のうえ殺されてしまいました。

江戸時代に入って、島原や天草の農民が起こした一揆はキリシタン一揆ということで、幕府から10万以上の兵を動員して、4万人近い一揆軍を皆殺しにしました。

そして、幕府は鎖国という政策を選択するのです。

しかし、日本でわずかの期間に数十万というキリスト教信者が生まれたのはなぜだったのでしょう?そして、多くの信者は殉教という形で命を絶ったのです。

宣教師たちの報告書を見ても、日本人が教理を整然と理解し、聡明で、むやみに妄信するような人たちではなかった、あとは懺悔を好んだ、ということが伝えられます。

ザビエルの来日は、西洋文化を伝えたり、日本人の精神を変えたり、大きな変革を与えましたが、日本を閉鎖的な社会にした一因ともなってしまいました。

 


洛中洛外図はどんな景色?

2023-08-02 09:58:29 | 歴史が得意になる

米沢市 洛中洛外図屏風

室町時代の京都の繁栄を示すのによく洛中洛外図が用いられます。

(試験にも出るようですね)

米沢市所蔵の洛中洛外図はその代表的な作例です。永禄8年(1565)年に狩野永徳によって作られたと考えらえていますが、歴史家の研究ではそれよりも20年以上前の景観だというのです。

ですからこの屏風が織田信長から上杉謙信に送られたというのですが、その理由をめぐって、さまざまな推測がなされています。

なぜそんなことになるのでしょう?

風景図は作者がその場にいて見たものを描く、というのは近代的な写生の感覚です。でも、昔の絵師は注文によって描いていたので、注文主の思惑を反映しなければいけません。

注文主は京都の昔の景観を絵師に描かせて、何かを伝えようとしたのだと思います。

それはなんだったのでしょう?

絵は上杉家に代々伝わりました。たしかに織田信長が源氏物語絵とこの絵を上杉謙信に送ったようです。

でも織田信長が送ったのは天正4年(1576)のようで、制作にかかわっていない可能性があります。ですから上杉家のためだということだけはわかります。

なぜ上杉家はこの屏風が欲しかったのでしょう?

さまざまな背景が考えられて、いま議論の最中です。

・将軍家と上杉家の関係

・上杉謙信の出世や歌道の成就

・京へのあこがれ

などさまざまですが、私たちは幅があるとはいえ16世紀の京都のようすをこの絵でうかがうことが出来ます。

この屏風は京都の一年の行事を描いていたり、寺や貴族の屋敷のようすを描いています。

そんなようすは、中国の清明上河図という画巻にもみられます。清明上河図は宋の時代(10~14世紀)から描かれましたが、ほぼ同時代の明時代によく描かれたようです。

もしかすると狩野派は中国の絵を見て、この絵の構想を考えたかもしれません。それは町の賑わいを緻密な描写で描くことです。米沢市の洛中洛外図はおよそ3000人の人物が描かれているそうです。

今の私たちは、渋谷のスクランブル交差点に外国人観光客が見入るような感じでしょうか?

画像お借りしました


饅頭は禅寺から?

2023-08-01 08:51:25 | 歴史が得意になる

 

博多承天寺にある饅頭そば発祥の碑

饅頭の起こりは老舗和菓子店でも聖一国師(円爾・東福寺開山)や竜山徳見といった禅僧から伝授されたとします。

禅寺では食事は2回ですが、間に点心や茶の子といった間食を喫茶とともに許していました。

茶の子は果実を干したものなどでした。

この点心に饅頭や素麺が食べられていました。ただし、饅頭は中国ではもともと肉饅頭ですから、寺では野菜などをいれたものになります。

これが寺から武士の食事に取り入れられて、汁と一緒に食べられるようになりました。

羊羹(ようかん)ももとは羊の形をした粉の練り物を汁に入れたものでした。羊など動物をいけにえにすることをやめるために羊の形にしたといいます。

甘い小豆餡の饅頭は砂糖が普及する江戸時代に広まりました。

当時はほんとうに高級な菓子だったと思われます。

みそやしょうゆも鎌倉時代から禅寺でよく食べられたというように、禅寺の食事は現在まで日本人の食事に大きな影響があります。