徒然なる写真日記

趣味に関する事や、日々の中での出来事を脈絡もなく貼り付けていく絵日記帳ブログです

宇都宮戦跡巡り~ 14師団司令部跡 旧偕行社跡 他

2016-07-17 00:31:37 | 自衛隊基地祭他ミリタリー関連

旧陸軍第14師団編成とその跡地




●明治四十二年の陸軍特別大演習
 明治四十一年 (一九〇八) 十一月、第十四師団が宇都宮に移駐した一年後の同四十二年十一月六日から九日までの四日間、
宇都宮を中心に県北地区において、陸軍特別大演習が行われた。
 明治天皇はこの大演習を統監されるため、十一月五日、宇都宮大本営(栃木県庁)に都祁された。県庁には高さ八mの大本営門
が作られ、市内は奉迎一色に染まった。
 この大演習には第十四師団のほか、仙台の第二師団、池川の第七師団、弘前の第八師団、高田の第十三師団ほか、
総員四万八〇〇〇人が参加した。  これにはイギリスはじめ外国の高級武官が陪観に訪れた。
 大演習は、実戦さながらの光景が繰り広げられた。十一月六日午前五時半開戦に突入。
北軍と南軍に分かれて交戦状態に入った。北軍の主力は青葉部隊と呼ばれた仙台の第二師団、南軍は地元宇都宮の
第十四師団を中心に編制された。開戦の朝、明治天皇は大本営の栃木県庁をご出発し、宇都宮駅から列車で黒磯駅へ。
ここから乗馬で那須町高久の愛宕山上へ向かわれ、両軍の演習を統監された。天皇は七日に矢板市泉へ、
八日雨天で休養、九日高根沢町宝積寺へ出向かれて統裁された。



明治四十一年 (一九〇八)、第十四師団の設置に伴い、師団司令部が河内郡国本村(現国立栃木病院)に設けられた。

師団司令部


師団司令部の営門がまだ国立病院内に残っている。今回は見学できなかったが、西の通りにあるレンガの門柱はバスの中より確認できた



師団司令部に隣接して師団附属の陸軍病院として宇都宮衛戌病院が設置された。その後、宇都宮第一陸軍病院となり、
大戦終結後の昭和二十年 (一九四五) 十二月一日、厚生省に移管され国立栃木病院として発足した。翌二十一年
に宇都宮第二陸軍病院の後身である国立宇都宮病院を、同二十五年 (一九五〇)に日本医療団宇都宮中央病院を
それぞれ餅合し、今日では北開東最大の国立病院として、高度な医療を行っている。



軍道から桜通りへ R119日光街道
軍道の桜並木
 明治四十一年 (一九〇八) 十一月、第十四師団が宇都宮へ移駐すると,野砲兵第二十連隊角から
第十四師団司令部を結ぶ道路が開通した。これが軍道 (現桜通り) である。
 軍道は野原を整地して幅一〇間(一八・六m)の道路を開いたので、「十間道路」ともいわれた。
延長約二キロメートルの軍道両側には、人家がほとんどなかったので殺風景そのものであった。
そこで河内郡長 梅村寛逸・宇都宮市長 本名鐐吉らが相図って、新道の両側に桜の苗木五〇〇〇本を植え
桜並木にしたという。


「軍道の桜並木」も、昭和二十年(一九四五)七月十二日、深夜の空襲によって痛めつけられ、
さらに同三十五、六年ころにはすっかり老木となり、これに加えて交通量が増加したので、道路拡張計画
にともない、同三十人年(一九六三)、皮肉にも自衛隊の手によって桜並木は伐採された。
今ではただ「桜通り」の名と路傍の「桜並木ここにありき」の碑によって、往時を偲ぶだけとなった。

大正時代の桜並木



宇都宮偕行社(かいこうしゃ)
         
 宇都宮偕行社は、第十四師団の創設にともない、現在の桜通り(旧軍道)に面した足利銀行
本店付近(銀行本店北側からプラザインくろかみ/桜美公園一帯) の地にあった。
 偕行社は、第十四師団の外郭御用団体であったので、第十四師団偕行社とか宇都宮偕行社と
呼ばれ、白亜の建物であった。
 本来、偕行社は、陸軍将校・同相当官の親睦および軍事研究を目的として設立された団体で
あったが、次第に親睦と共済組合的な性格が強くなり、住宅・宿舎の施設、物品販売などを行
うようになった。第二次世界大戦後の軍解体まで存続した。




県の施設のくろかみ荘はすでになくなっており、桜美公園のみ。
偕行社は軍の将校のクラブで、馬に乗ってやってきて馬をつないでおく馬場が北側にあったという


偕行社跡地に残る桜の古木


跡地に残る記念碑






最新の画像もっと見る

コメントを投稿