金生遺跡を世界遺産 世界標準時の天文台にしよう会

縄文時代は二倍年暦、半年一年暦だったのか


2.22.05.25 追加 補足しました
その後の金生遺跡の調査と縄文時代の暦の検討から次の様子が見えてきました。
縄文時代早期には太陽暦は二至二分には到達していたものと考えられるので
シュメールの暦はこの春分 冬至から91日 を暦の起点とするものと考える。
その後縄文時代前期には八節の暦に進展、立春を暦の起点としていたと考える
暦作りは起点が春分から立春に 45日早まったものと考える。

金生遺跡・大配石から、立春と立秋を観測していた施設が分かり、半年一年暦の起点として立春、立秋を観測していたのだろうとの推定が可能となった。
また太陰暦についても二至に基づく半年 6回の月の相の周期の暦が作られていたものと推定できるので、こうした縄文時代早期の暦の知識がシュメールに伝わっていたものと考える。

縄文時代の暦は、縄文時代中期には太陽暦と太陰暦とは朔旦立春観測により正確にシンクロさせられることを知り、内陸では太陽暦を、海辺では太陰暦を使用して、太陽暦で日にちは数えて、併用していたものと推察している。これはシュメールの暦とエジプトの暦の状況が参考になる。

 

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九州の倭人が 
引用します---  『魏志倭人伝』の裴松之(はい しょうし)注には「『魏略』(ぎりゃく)に曰く、その俗正歳四節を知らず。ただ春耕秋収を計って年紀と為す」と記されており、古代の倭人が一年を耕作期(春・夏)と収穫期(秋・冬)の二つに分けて数えていた可能性が窺える。そのことを踏まえれば『魏志倭人伝』の記述にある倭人が「百年、あるいは八、九十年」まで生きたという古代人としては異常な長寿についても説明がつく。
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 もしそのようなことが本当であったのなら、縄文人、弥生人とでは、列島内ではどのような関係となっていたのだろうか。
その後の歴史を通じても、半年一年暦に関係するような齟齬について聞いたことは無いように思う。卑弥呼から魏への遣使派遣の際にも、渡来人と原住民との間で何の問題も無くあるということは、暦に関して双方ともに等し並の認識にあったと言うことと考えて良いと考える。
同様に、そこまでの縄文人と弥生人の間にも、暦の問題は起きていなかったようなので、ということは周までの歴史において、日本列島側とチャイナ側で同一認識の下にあったと見て良いのだろうか。
そうしたとき、暦の成立に関しては、どちらのイニシャチーブで行われたものだろうか。
縄文時代に関しては文明レベルは、縄文人が文化的先進国だったのだろう、金生遺跡に見るように、八節の暦がチャイナに先行して成立していたので、その後チャイナ側がバビロニア文化の影響を受け、縄文人を超えて進化して、周より後には一倍年暦に変り、春秋戦国には先に歴史時代にはいったものと考えてはどうだろうか。

引用ーーーーーー
つまり、古代において、弥生人による縄文人の征服や支配は、起こらなかったのです。もし、大陸から来た弥生人が縄文人を駆逐し、わずかに蝦夷と熊襲にだけ残ったのだとしたら、 日本列島にこれほどDとCのY染色体が存在するわけはありません。
むしろ、弥生人は、 長い時間をかけて、縄文社会に徐々に平和的に溶け込んだのです。ですから、弥生人の中国由来の文化が、縄文文化を抹殺してしまうということも、起こらなかったのです。
また、言語の面から考えても、日本語はD・C系統のSOV型の言語であり、江南(長江流域)から渡来した初期弥生人(O1b2)や、華北から朝鮮経由で渡来した後期弥生人(O2)などO系統の人々の言語体系であるSVO型文法とは、はっきり異なります。ですから、縄文の言語が、日本語のルーツであることは明らかです。


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