金生遺跡を世界遺産 世界標準時の天文台にしよう会

縄文時代10,000年の新しい時代区分 案

2023.01.11 投稿初稿

現在の縄文時代の区切りは、土器の模様の変遷をただ追っているだけで、

文化的要素からの区切りで無いので、これを新しく文化的要素による区切りに見直してみる。これにより縄文時代を俯瞰することができるので、理解し易くなるのでは無いかと思う、どうでしょう。

 

 

1.「生業開発の時代」

  無文土器が造られた時から羽状縄文土器、諸磯式土器の時期まで

 


 文化的内容は、雑穀農耕の成立まで。マメ類の採集からマメ類、ヒエ類の穀類の栽培を始めて、
栽培種が成立して農耕が開始するまでの時期
狩猟については弓を開発して弓の弦の開発を中心として、魚釣りの開発、漁網 網漁の開発など、狩猟、漁撈の生業成立まで。土器には主として縄紋の模様が付けられていた時代
また、太陽暦と太陰暦の開発の時代でも有る
これは鮭の遡上回帰漁、海の干満を予測できるようになり、巨大な貝塚を造る潮干狩りが出来るようになった。
マメ類や雑穀類の栽培のために季節を知るための暦を造った時代である。

 

2.農耕開始の時代

勝坂式土器

 

                         2023.01.29 追加


 諸磯式土器、勝坂式土器頃の時期には、穀類、マメ類の栽培種が成立することで、農耕を開始したことから、それまでの狩猟採集の、生業開発に伴う歴史を主として記録してきた縄文模様を排して、大胆な浮彫とも云えるような土器が造られる時代になる。畑文土器なのか

 


集落の配置も変わり、狩猟の石鏃はすたり、農耕用の石器が大幅に増加していた。
土偶なども立体的像が造られる

 

 

3.二十四節気の暦成立の時代

3波状突起口縁の土器


3波状突起口縁の土器が造られ始めた時期 縄文時代中期中頃に当たる時期
 それまで太陽暦と太陰暦の使用地域があり、人々の交流には障害があったが、太陽と月という天体の暦の周期を15日区分の暦として、シンクロさせることが出来るようになり、暦の違いにより発生する不都合を解消した。

 

 

 

 

 

 二十四節気の暦成立

 暦をシンクロさせるために毎年立春と立秋を観測して時計合わせをしていた
金生遺跡は列島の標準時天文台として大配石で太陽暦観測と月の朔望観測を行っていたものと考える。この時期に造られた各地のストーンサークルは、集落民のカレンダー合わせの祭のために造られていたものでは無いか。
 さらに暦の違うそれぞれの地域の作業を一週間7日とするカレンダーと、5日とするカレンダーにより地域特性に応じた作業が進められることになった。
海辺の集落は、潮の干満を作業区分に取り入れた7日一区切りの作業カレンダー
内陸の地域では、七十二候のカレンダーによる農耕作業の取り進め、5日区切りのカレンダー

 

 


4.その後の区分については、ここまでとする。
 水田稲作民族の渡来により、地域分散文字無しの縄文文化は、失われていった。

図はお借りしました

引用ーーーーーーーーーーーーーー

 縄文時代の始まりについては「石器の確立を以って縄文と成す」のか「土器の出現を以って縄文と成す」のか意見が分かれますし、縄文時代の終りも「弥生式土器の出現を以って縄文の終わりと成す」のか「水稲農耕を基礎とする生活をもって縄文の終わりと成す」のか不明瞭である。
 既に藤森栄一氏の縄文農耕論は今では常識的にほぼ認知されているし米の存在については縄文土器への籾の圧痕や、後期に焼かれた土器胎土や土壌からプラントオパール(稲等の葉の中のガラス質の結晶体が分解せずに残ったもの)が発見されるなど年代定義の設定が難しい現状にある。
 基本的に縄文の時代設定が土器型式区分であることに少し無理がある、本来時代区分は、歴史学的な根拠を持った文化内容や特色による区分を基本とすべきなのですが、不明が多い縄文時代延々と作り続けられた土器の特徴等による編年が年代の基準柱となるのは妥当なのかもしれません。いずれにせよ土器の変遷と生活文化の変遷のズレは、修正不可ですから縄文時代編年の歪として今後も永く尾を引くでしょう。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

この記載は始め頃でまだ実情が分っていなかった時のものである。誤りがあります。

 

曽利式、加曽利式土器と金生遺跡成立時期

 

金生遺跡の成立前頃、縄文時代中期後半(約4,900年前にはじまる)には、
曽利式土器が山梨県を中心に分布していたという。
  ---曽利式土器とは長野県富士見町にある曽利遺跡から出土した土器を基準にする---
曽利式土器は、
曽利Ⅰ・Ⅱ式までは、水煙文土器に代表されるような独自性の高い文様を発展させていた。
水煙土器

曽利Ⅲ~Ⅴにかけては、簡素な文様の土器に変化していた。
この変化は、加曽利E式と呼ばれる関東地方の土器文化が関わっているとされるようだ。
 ---加曽利E式土器(写真1)とは、千葉市にある加曽利貝塚をもとに設定された土器型式---
これは主に関東地方に分布していた。
加曽利式土器

曽利式の後半期には、山梨県内の遺跡でも数多く出土しているという。

関東に分布していた加曽利E式土器が徐々に山梨県内に広がり、
在地の土器が加曽利E式土器に類似した土器へ変わっていったという。
このような土器の変化は、人の移動があったということでしょう。

さらに、縄文時代後期(約4,500年前)には、
関東に分布の中心がある称名寺式土器の分布圏に山梨県は入っていたようで、
山梨に関東の文化がその後も入ってきていたという。
こうして関東地方の土器の文化に飲み込まれ行き、華やかな山梨の縄文土器文化は終焉していったのだという。

内陸の金生遺跡には海辺の関東の文化が入ってきていたことから、
太陽暦と太陰暦の交差点だったものと考える。


太陽暦と太陰暦をシンクロさせる事の出来る神秘数 3 を示す 3波状突起口縁の土器は堀之内式土器の時期に作られていた。立春観測がそのポイントとなることから、この頃に金生遺跡は成立していたものと考える。

写真はお借りしました

ーーーーーーーーーーーー
縄文時代中期後半(約4,900年前にはじまる)には、長野県富士見町にある曽利遺跡から出土した土器を基準に設定された曽利式土器が山梨県を中心に分布します。
曽利式土器は、曽利Ⅰ・Ⅱ式まで水煙文土器に代表されるような、独自性の高い文様を発展させています。ですが、曽利Ⅲ~Ⅴにかけては、簡素な文様の土器に変化していきます。
このような変化には、加曽利E式と呼ばれる関東地方の土器が関わっていると考えられています。

画像:酒呑場遺跡出土・深鉢形土器
写真1加曽利E式土器
北杜市酒呑場遺跡出土・深鉢形土器
画像を拡大(JPG:1,398KB)

画像:頭無遺跡出土・深鉢形土器
写真2終末期の曽利式土器
北杜市頭無遺跡出土・深鉢形土器
画像を拡大(JPG:1,860KB)

加曽利E式土器(写真1)とは、千葉市にある加曽利貝塚をもとに設定された土器型式で、主に関東地方に分布しています。曽利式の後半期には、山梨県内の遺跡でも数多く出土しています。
関東に分布していた加曽利E式土器が徐々に山梨県内に広がり、在地の土器が加曽利E式土器に類似した土器へ変わっていきます。このような土器の変化は、これまでの社会生活が移り変わっていく様子を反映していると考えられます。
画像:柳坪A遺跡出土・深鉢形土器
写真3北杜市柳坪A遺跡出土・深鉢形土器
画像を拡大(JPG:458KB)

 画像:大月遺跡出土・深鉢形土器
写真4大月市大月遺跡出土・深鉢形土器
画像を拡大(JPG:500KB)

曽利式の最終段階である曽利Ⅴ式(写真4)の時期では、曽利式土器が完全に終焉するのですが、
加曽利E式土器は継続します。これは、山梨県は加曽利E式土器の分布圏になってしまうことを意味しています。
さらに、縄文時代後期(約4,500年前)に入っても、関東に分布の中心がある称名寺式土器の分布圏に山梨県は入っており、山梨に居た人々が、関東の文化を受け入れていったと解釈されます。こうして華やかな山梨の縄文土器文化は終焉していくのです。


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