2025年大阪万博
モニュメントの提案を行いました。
金生遺跡・大配石での太陽暦観測施設のランドスケープ
アナレンマ解析結果
日の出
立秋 笠無山 立春 茅ヶ岳(金ヶ岳)
日の入り
冬至 甲斐駒ヶ岳
太陽運行のシミュレーションの結果から、金生遺跡の立地は太陽暦観測が出来る希有な立地であることが明確に示されました。
大配石 太陽暦観測装置 石棒の配置位置で正確に太陽暦 二十四節気の暦の暦日 立春、立冬を観測している。冬至は前後10日間、日の出も日の入りも移動しないので・・・。
縄文時代に、何故このような立地を探して太陽暦観測施設を建造していたのか、
調査の結果、現代の太陽暦と変わりない正確な太陽暦 二十四節気の暦を観測していることが分りました。このような太陽暦を作る必要性は農耕以外に考えられ無いと考えます。
その起源を考えるとき、始まりは鮭の遡上回帰漁の時期を予測する必要性にあるのだろうと思います。
それを示すものは2波状突起口縁の土器と考えます。
その後 4波状突起口縁の土器が作られていたことから、半年4文節の暦を作り、四季と季節の始まり、立春、立夏、立秋、立冬を区分する暦が作られていたものと思います。
農耕には立春からの暦が必要となると思うので、ここまでが縄文時代早期に完成していたものと考えます。そうだとすれば、縄文時代の草創期には既に植物栽培を開始していたと考えます。貝塚の形成も始まるので、太陰暦も造られていた、半年間に6朔望なので、ここにある6波状突起口縁の土器はそれを示している。
土器の始まりは無文土器からで、その次に造られた土器は豆粒文土器と言われています。
土器の始まりは植物の種の採集のためだろうと考えますから、無文土器の時期にはマメ類の採集を始めていて、豆粒文土器の時期にはマメ類の栽培を開始していたものと考えます。
旧石器時代の大型動物が居なくなり、中型小型の動物を狩猟の対象にするため、弓矢の開発を開始したものと思いますが、弓の弦や石鏃の開発には長い時間が掛かり、既にそれ以前に植物の利用が開始されていたものと考えます。
豆粒文土器の次に造られた隆起線文土器系は弓矢猟の開始を示していると思います。この時期弓矢猟が列島全域で行われるようになり、土器は列島全域に行き渡り大幅に増加したといわれています。
その後爪形文や様々な縄文を経て撚糸文土器が造られているので、弓の弦の開発から撚り糸の開発に繋がり、釣り糸が完成して魚釣り漁が開始されたと考えます。その後網による漁も開発され、それは羽状縄文土器の時期と考えます。
縄文時代の生業の開発とそれに関係する文化は縄文時代早期から前期初めまでに完成していたと考えます。
図はお借りしました