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じょ~い小川の自由の鏡

「ステーキ漂流記」のじょ~い小川の別ブログ

『ドッグヴィル』(2003年)その9 キャスト

2016-09-02 00:26:52 | 映画:ヨーロッパ映画



なんと言っても、この作品は主演がニコール・キッドマンであったことが、あらゆる意味で大きい。監督との確執がクランクイン前、クランクイン後、クランクアップ後もあり、2016年現在ニコール・キッドマンはラース・フォン・トリアーの作品に出ていない。

後に『ニンフォマニアック』での出演の噂はあったが実現していない。勿論、単純にスケジュールが合わないという表の口実はあるが、やはり『ドッグヴィル』以前と『ドッグヴィル』撮影によって起こったラースとニコールの確執が未だにあるのであろう。同様の理由で『ダンサー・イン・ザ・ダーク』のビョークともラースは仕事をしていない。ビョークとはあり得ないだろうが、ニコール・キッドマンにはまだ作られていない「アメリカ三部作」最終章『ワシントン』での出演の可能性はなくはない。


ともかく、ニコール・キッドマンとしてはこの時35、6歳なので女性として観るのもピークだったハズだが、その11年後に『ペーパー・ボーイ/真夏の引力』(2014年)で女性として観れるヒロインに復活し、『グレース・オブ・モナコ 公妃の切り札』(2014年)でも見事にグレース・ケリーになりきっている。いずれにせよ、トム・クルーズと離婚してキース・アーバンと結婚するまでのニコール・キッドマンの真の全盛期のど真ん中の作品の1つが『ドッグヴィル』になる。


ギャングに追われている謎の美女としてはこれ以上ないぐらいぴったりで、「ドッグヴィル」といううらぶれた町の一輪の花になっている。そりゃ、クロエ・セヴィニーみたいな微妙な女性とパトリシア・クラークソンみたいなおばちゃんしかいない町に『ムーラン・ルージュ』(2001年)そのものの様な輝きの女性が来ちゃったら、男はみんなそっちに行くよ。

これん読んでいるみんなの学校のクラスや職場にミスユニバース2016や『マジック・マイク』(2014年)のチャニング・テイタムみたいなのが来たら、そいつが毎日注目の的になるでしょ?




これ、この作品の最大のポイントである。






さらに言うと、そのニコール・キッドマン一人の格に子どもを除いたドッグヴィルの住人役の俳優・女優15人を足しても到底敵わない。


その中に“元祖ハリウッドビューティー”ローレン・バコールもいるが、ベテラン過ぎて若干別枠気味。本来、ローレン・バコールの経歴からしたら格自体はあるから、今の日本映画界の樹木希林みたいな扱いをしてもおかしくないがそれとはやらず、完全に町の偏屈婆さんとして配置している。彼女を長老として使えばニコール対ローレンというあらゆる角度から見られる図式が出来たが、それはやらず、作品として集中させた落ち着いた配置になった。



ポール・ベタニーとクロエ・セヴィニーがネームバリューはあるがキャリア的には浅い俳優・女優、ステラン・スカルスガルドとパトリシア・クラークソンは中堅。大相撲で言えば、ニコール・キッドマンの一人横綱に小結のポール・ベタニーと前頭筆頭東パトリシア・クラークソン、西ステラン・スカルスガルド、前頭5枚目のクロエ・セヴィニーみたいな感じである。


これにギャング役に『ゴッドファーザー』(1972年)のソニー役だったジェームズ・カーンにウド・キアが加わる。キャスティング的に再集結不可能で、「アメリカ三部作」の2作目に出てるのはクロエ・セヴィニーとローレン・バコールのみである。


パトリシア・クラークソンは家族の急病で降板したカトリン・カートリッジの代打だが、同じ時期に『エイプリルの七面鳥』(2003年)にも出演している。この二つは何のつながりもないが、『ドッグヴィル』の主演のニコール・キッドマンと『エイプリルの七面鳥』の主演ケイティ・ホームズは共にトム・クルーズの元妻で、パトリシア・クラークソンは偶然にもトム・クルーズの過去の女と未来の女と近い時期に共演したことになる。それだけと言われればそれまでだが、その奇遇性にロマンを抱けば少しはまた違って見えるかもしれない、ということ。


ステラン・スカルスガルドは『奇跡の海』や『ニンフォマニアック』でも重要な役を演じているが、彼が主役として最も光った『キス★キス★バン★バン』(2002年)での敵役がポール・ベタニーで、この二人の共演も味わい深い。また、当初予定されていたヴェラ役がカトリン・カートリッジだったら、チャックとヴェラの夫婦が『奇跡の海』繋がりになっただけに残念である。

『ドッグヴィル』(2003年)その8 犬

2016-09-02 00:23:23 | 映画:ヨーロッパ映画


そして、やはり「犬」というのも1つのキーワードになっている。

ウィキペディアで「侮蔑」という言葉を調べると、「動物による例え」で「犬」について書いてある。いくつか引用して挙げると、英語dogには「嫌なやつ、裏切り者、信用ならないやつ」、犬のメタファーとして「役立たず、劣っていて、それでいて自分の利益のために権力者にすりよる」などと挙げられている。まさしく、主人公トムや「ドッグヴィル」の町の人々を表している。


そもそも「ドッグヴィル」という町の名前事態が蔑称とも言え、グレースの町の人に対する傲慢さも分からなくもない。そう考えると、「ドッグヴィル」が『どん底』のコミュニティーに近いというのも内容は違えど当たらずとも遠からずである。

この『ドッグヴィル』での「犬」の使い方はそれだけでなく、小出しにちょこちょこ使い、見る者に刷り込みをしている。プロローグで「ドッグヴィル」にいる犬・モーゼスに与えた骨を見て、チャックが骨に肉が少しついていることを嘆きながら「こんな時代にもったいない。番犬には腹を空かせとけ!」とぼやいている。それに対して妻のヴェラが「番犬って、このドッグヴィルに盗む物があるのか?」と皮肉っている。たったこれだけの会話で町全体の困窮ぶりが分かる味わい深いやり取りである。

さらには、グレースがトムに見つかる切っ掛けもモーゼスに吠えられたことだったり、グレースが虐げられる時も犬の首輪の様な物をはめられたり、何かと「犬」が付いて回る。トム以外の町の男連中もぼやいたり、吠えたり、欲望を満たしたり、とやっぱり犬っぽい。



日本で犬の映画というと犬そのものが活躍したり、感動させたりし、それはそれで1つのムーブメントとして成り立っているが、本来、「犬」を比喩・メタファーとして使うとやはりうらぶれ感やマイナス臭がするもので、『ドッグヴィル』はまさしく後者の使い方で徹底した。直訳すれば「犬の村」とか「犬の集落」と呼ばれているが、『アモーレス・ペロス』(2000年)みたいに本当に犬がいっぱいいるわけではなく、あらゆる意味で使ったのは深い。

『ドッグヴィル』(2003年)その7 欲望

2016-09-02 00:20:17 | 映画:ヨーロッパ映画


これにさらに加えると男性陣の「欲望」がこの映画では付いて回る。そこでもトムが一番分かりやすい。伝導所での集会も己のマスターベーション的な集会で他の町の人々には嫌な気分にさせてるし、トムがヘンソン家に行く理由もビルとのゲームじゃなくて、ビルの姉の胸にある地平線を見たさに毎日来るという色目目的で、それもあからさまにやっている。


チャックがこの町にやって来たのは『怒りの葡萄』や『家族』(1970年)の様な田舎楽園願望で、来てみたらなんとか果樹園の仕事にありつき、妻ヴェラを相手に欲望の捌け口にして7人の子どもを作っている。もっとも「ドッグヴィル」には娯楽らしい娯楽がないから、することといったら「子作り」しかないでしょ。そこが田舎らしい。

チャックが経営している果樹園の林檎も欲望の象徴で、チャックがグレースに林檎の栽培論をやたら語りたがるのもちょっとしたセクハラとも言えなくもない。


運送業のベンは弱気な反面、禁酒法の時代に酒を飲み、売春宿に行く大胆な一面もある。要は欲に弱い。第8章でみんなでグレースを犯しまくる前にワケのわからない理由をつけてグレースをやる。この抑えのきかなさも彼の弱さを現している。


さらには子どものジェイソンも見事なマセガキで、常にグレースに抱っこをしてもらったり、挙げ句スパンキングによるソフトなSMも要求している。これはビルの姉にもせがんでいたようで、子どもながら見事な欲望である。

『ドッグヴィル』(2003年)その6 傲慢

2016-09-02 00:15:10 | 映画:ヨーロッパ映画


もう1つ、「受け入れる」、「寛容」以外にも『ドッグヴィル』にはキーワードがある。それが「傲慢」である。グレースは序盤のドッグヴィルに馴染もうとするシーンでボソッと「私は傲慢に育ったから」と言う。このシーンではなんとなく通り過ぎてしまいがちになるが、実はこの言葉こそがこの作品における人間性の負の部分を代表した言葉である。



この「傲慢」さが一番分かりやすく出ているのがトムが村人たちに対する態度である。彼が行う村の集会での説教の元だって根拠はない。だからこそ、これを聞く村人たちは集会は意味がないと思っている。


たがらこそ、村人たちはグレースに対して牙を向ける時は大なり小なり根拠を持っている。その根底の一番大きな物はグレースがギャングに追われているという事実である。これを元に多少強気に出る。根拠のあるこの動きこそ「自信」であり、グレース&トムとその他村人たちの構図はいわば「傲慢」対「自信」の構図でもある。


この「傲慢」もラースはテレビドラマ「キングダム」で既に取り入れている。スウェーデンからやって来た医師ヘルマがまさに「傲慢」の塊のような医師だった。今回の『ドッグヴィル』ではトムに関しては多少分かりやすいがグレースに関しては分かりにくい。終盤、グレースとある人物のやり取りでも「傲慢」という言葉がクローズアップされる。ここではお互いの意見・価値観の違いで「傲慢」という意見が出てくる。要は物の見方や態度に出てくるものなので、これについては映画の細部まで観て感じとる必要がある。

『ドッグヴィル』(2003年)その5 時代・舞台背景

2016-09-02 00:12:13 | 映画:ヨーロッパ映画


さらに、この「受容」に関しては現代の特にヨーロッパにおいては「移民問題」で、今この映画を見たら、受け取り方が変わるかもしれない。大陸としてアフリカから近く、アジアと陸続きになっているヨーロッパにおいて、移民や疫病というのは歴史的に昔からあった。ラースは初期に『エピデミック』で疫病を見せ、『ドッグヴィル』で他方から来た者の受け入れ、その後の社会を見せた。


けど、『ドッグヴィル』はヨーロッパの出来事でなく、1930年前後の大恐慌時代のアメリカを見せている。この時のアメリカの様子はロン・ハワード監督の『シンデレラマン』(2005年)やデ・パルマの『アンタッチャブル』(1987年)、その他『スティング』(1973年)、『怒りの葡萄』、『欲望のヴァージニア』(2014年)を見れば少しは分かるかもしれない。特にチャックは『怒りの葡萄』といくつかかぶって見えるし、グレースが追われているギャングはまさしく『アンタッチャブル』や『暗黒街の顔役』(1932年)に出てくる感じであろう。



しかしながら、「アメリカ三部作」にも関わらず、1作目の『ドッグヴィル』、2作目の『マンダレイ』とどちらも閉鎖的、いや大昔の日本の江戸時代の鎖国政策そのものだったりする。

「ドッグヴィル」の場合は選挙に登録料がかかるためにアメリカの民主主義を放棄したが、町のことに関しては伝導所でトムが中心となって行う多数決制で、意外にも『マンダレイ』でグレースが推し進めた多数決による「民主主義」と同じだったりする。

要はこの「民主主義」を以てアメリカということかもしれない。

この閉鎖的な物が鎖国と見てもいいが、どちらかと言うとピリッとした革新的なことを面倒がり、「うちらはうちらでやりますよ」というなあなあな感じはアメリカとか鎖国ではなく世界万国共通の「田舎」の描き方と見えなくない。


「ドッグヴィル」にある廃坑は元々銀鉱山であり、調べると、1850年前後にカリフォルニアで起こったゴールドラッシュから遅れる形でコロラド州でシルバーラッシュがあった事実があり、ドッグヴィルも元々はそれで賑わっていた町で、銀がなくなり廃坑になり廃れていった、ということである。

これと、近くで刑務所の建設が行われているが、これこそロッキー山脈にあるユナボマー他、アルカイダのテロリストが収容されている“ロッキー山脈のアルカトラズ”とも呼ばれる「スーパーマックス刑務所」であろう。