
この「受け入れる」というのがテーマの1つであるが、ラース・フォン・トリアーの作品のほとんどが他所から来た誰かを受け入れるケースになる。テレビドラマ「キングダム」(1994年・1997年)なんかもいい例で、デンマークの病院での怪奇現象が見所の1つだが、病院にスウェーデンの医師ヘルマがやって来て、デンマークの新しい職場(病院)に馴染めないくだりがドラマの核になっている。
後の『マンダレイ』(2005年)も『ニンフォマニアック』(2014年)も主人公が他所からやって来て受け入れることでストーリーが進むが、『ドッグヴィル』の場合、よりこの「受け入れる」という要素が大きい。
何もなければ、ドッグヴィルの人々は根は悪人ではないし、むしろ善き人でありたいと思っている人たちだから、おそらく平穏な暮らしになったであろう。だが、そこに警察が彼女を探しに来たり、「お尋ね者」(一部でっち上げ)のチラシを貼りに来たりする。すると、町の人々のグレースに対する気持ちが揺らいで、欲望が抑えられずグレースにちょっとしたイタズラをしたり、特定の男性(トム)が彼女の家に出入りする所を見て疚しく思う。4章から6章における町の人の心の移り変わりが細かくて見事である。
さらにもうひと捻り加わるのは、この状況でグレースが頼りにしなきゃならない人が弱いという点もある。トムはグレースが悪い状況になっても基本的には傍観することしか出来ない。結局は彼も「ドッグヴィル」の町の人なので、追い詰められると保身に走る。町の人寄りの行動に出る。トム、わりと風見鶏野郎である。
一応、ストーリーの経緯からトムとグレースは恋仲にはなるが、「なにがなんでも絶対に彼女を守る!」というラブロマンス的な動きは残念なぐらい出来ず、逆に自らの町における保身的な行動をし、結果グレースがより悪い方向に行く。
ヒロインを守らなきゃいけない男が頼りなく、しかも町の人との関係も例の無駄な集会をやってたりすることで決して良くないというのが痛い所である。もう一人トム以外にも運送業のベンという協力者がいるが、この男も町での立場、社会的地位もそうだが、倫理観や欲望という点でも弱い。
この作品の1つの特徴として、誰一人として社会的地位や精神的に強い、明るい人物がいない、ということが見られる。だいたいが僻み、コンプレックス、愚鈍、傲慢、引きこもりなど負の集合体、というか吹きだまりのような町である。感覚的にはマクシム・ゴーリキーの戯曲『どん底』(1901年、1902年)に近い感覚もあるが、『どん底』ほど町も経済的に酷くはないので微妙に違う。この中途半端さも『ドッグヴィル』らしいと言えよう。感覚的には『怒りの葡萄』(1939年)のカリフォルニアの集落が近い。