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じょ~い小川の自由の鏡

「ステーキ漂流記」のじょ~い小川の別ブログ

『ドッグヴィル』(2003年)その4 受容

2016-09-02 00:08:04 | 映画:ヨーロッパ映画


この「受け入れる」というのがテーマの1つであるが、ラース・フォン・トリアーの作品のほとんどが他所から来た誰かを受け入れるケースになる。テレビドラマ「キングダム」(1994年・1997年)なんかもいい例で、デンマークの病院での怪奇現象が見所の1つだが、病院にスウェーデンの医師ヘルマがやって来て、デンマークの新しい職場(病院)に馴染めないくだりがドラマの核になっている。


後の『マンダレイ』(2005年)も『ニンフォマニアック』(2014年)も主人公が他所からやって来て受け入れることでストーリーが進むが、『ドッグヴィル』の場合、よりこの「受け入れる」という要素が大きい。


何もなければ、ドッグヴィルの人々は根は悪人ではないし、むしろ善き人でありたいと思っている人たちだから、おそらく平穏な暮らしになったであろう。だが、そこに警察が彼女を探しに来たり、「お尋ね者」(一部でっち上げ)のチラシを貼りに来たりする。すると、町の人々のグレースに対する気持ちが揺らいで、欲望が抑えられずグレースにちょっとしたイタズラをしたり、特定の男性(トム)が彼女の家に出入りする所を見て疚しく思う。4章から6章における町の人の心の移り変わりが細かくて見事である。



さらにもうひと捻り加わるのは、この状況でグレースが頼りにしなきゃならない人が弱いという点もある。トムはグレースが悪い状況になっても基本的には傍観することしか出来ない。結局は彼も「ドッグヴィル」の町の人なので、追い詰められると保身に走る。町の人寄りの行動に出る。トム、わりと風見鶏野郎である。

一応、ストーリーの経緯からトムとグレースは恋仲にはなるが、「なにがなんでも絶対に彼女を守る!」というラブロマンス的な動きは残念なぐらい出来ず、逆に自らの町における保身的な行動をし、結果グレースがより悪い方向に行く。

ヒロインを守らなきゃいけない男が頼りなく、しかも町の人との関係も例の無駄な集会をやってたりすることで決して良くないというのが痛い所である。もう一人トム以外にも運送業のベンという協力者がいるが、この男も町での立場、社会的地位もそうだが、倫理観や欲望という点でも弱い。



この作品の1つの特徴として、誰一人として社会的地位や精神的に強い、明るい人物がいない、ということが見られる。だいたいが僻み、コンプレックス、愚鈍、傲慢、引きこもりなど負の集合体、というか吹きだまりのような町である。感覚的にはマクシム・ゴーリキーの戯曲『どん底』(1901年、1902年)に近い感覚もあるが、『どん底』ほど町も経済的に酷くはないので微妙に違う。この中途半端さも『ドッグヴィル』らしいと言えよう。感覚的には『怒りの葡萄』(1939年)のカリフォルニアの集落が近い。


『ドッグヴィル』(2003年) その3 暫定リーダー トム・エディソン

2016-09-02 00:04:29 | 映画:ヨーロッパ映画


さらに、『ドッグヴィル』での人物相関は単に「グレース対町の人たち」という図式だけでない。そこにもうワンクッション、グレースを「ドッグヴィル」に受け入れる中心となったポール・ベタニー演じるトム・エディソンの存在がある。彼と町の人たち、彼とグレース、町の人たちとグレースの関係である。


トムは医者トム・エディソン・シニアの息子で作家志望。それらしき物は書いてるけど、書いた物はまだ世の中には出してないため作家ではなく作家志望。しかも、働きもせず、医者を辞めた親の年金で暮らしている、いわばニート。「ドッグヴィル」に青年団や青年商工会はないが、年相応(アラサー)であるということと「ドッグヴィル」では一番ましな家屋をもつ医者トム・エディソン・シニアの息子とあり、さらには幼なじみのヘンソン家のエンジニア志望の浪人ビルは愚鈍だし、一世代以上年上のチャックは都会から来たよそ者だからリーダーになるわけにもいかず、とりあえずトムが「ドッグヴィル」の暫定リーダー的な存在になる。定期的に町の人たち相手に伝導所で「道徳再武装」の集会を開き、牧師並に説教をしている。



普通なら、そこは町長や町の長老、それこそ伝導所の牧師がやらなきゃいけないポジションだけど、それらが「ドッグヴィル」にはいない。そう、この町最大の問題は「町長、長老といった村のボスが不在」ということ。さらには伝導所があるにも関わらず牧師がいない(来ない)ことにある。町長、長老になりうる人材の不足については、町全体に「細々とした生業(ガラス細工や果樹園、食料品店、運送業など)でなんとなく生活出来ているから、今のままでいいや」的なムードがムンムンで、外部から町長候補を呼ぶのも面倒だし、その費用・報酬も払えないから、町のリーダー的なことをやろうとしているニートのトムを立てて、伝導所での集会に町の人たちはいやいやながら付き合っている。



そう、一見「受け入れる」ことが苦手そうな町の人たちも昔馴染みのトムに対しては寛容的であり、受容というのも持ち得ている。実はトムがやろうとしている実験や改革の答えは既に出ている。トムによる伝導所の集会が出来ている時点で町の人たちはい結構いい奴である。根本的には善人である。


第3章でグレースが町の人に受け入れてもらうために「要らないけどとりあえずやってもらう仕事」というのも町の人たちにとってはトムの集会で慣れっこ。だから、結果は見えたも同然だが、そこの所、それ以降のグレース、トム、そのた町の人たちとの心理戦が見所である。映画全体に派手さやダイナミックさはなく、心理戦やちょっとした動作や心理が繊細な映画である。野球で言えば1点を争う投手戦のような様相である。

『ドッグヴィル』(2003) その2 内容 導入部

2016-09-02 00:00:38 | 映画:ヨーロッパ映画



1930年前後、大恐慌時代のアメリカ・コロラド州ロッキー山脈麓にある「ドッグヴィル」という名の人も商業もうらぶれた村、というか共同体・コミュニティーに謎の美女グレースが来る前の様子、来た直後、受け入れから、関係がゆるやかに壊れ、最悪な状態になるまでを繊細に描いている。要はこの謎の美女と村人たちとの関係性・心境の移り変わりを見るヒューマン・ドラマである。


新しい学校・職場・部活・サークル・コミュニティーなどに新参者として入り、馴染み、何かのきっかけで関係が壊れるというのは多かれ少なかれ、読んで頂いている皆様の身の回りにもあるだろうが、これをニコール・キッドマンを使って成立させている。


このニコール・キッドマンが演じるグレースも只の美女ではない。遠くから銃声が聞こえた後に突然ドッグヴィルに現れ、素性がいまいちわからない、しかもギャングに追われている美女というのもポイントである。つまり、「町に滞在させてくれ」という要望に「ギャングからの追手から匿わせてくれ」というリスク付いてくる。


考えてみて欲しい。夜、いきなり自分の家の戸を叩かれて、見知らぬ女性(男性)に「行き場がないから、そこに匿わせてくれ!」って言われるだけでも結構困るだろう。それでも、50%ぐらいの確率でパッと見て危なそうじゃなければ、とりあえずは自分の家(部屋)にあげるでしょう。2016年に公開されたイーライ・ロス監督作品『ノック・ノック』(2015年)の冒頭のシーンだってまさにそんな感じだ。


けど、『ドッグヴィル』のグレースのケースは、その上「ヤ○ザに追われてます!」って言ってるようなものだ。しかも、その直後に追ってきたヤ○ザがそこに訪ねに来る。これ、明らかにキナ臭い何かに巻き込まれる、と普通なら思うでしょ。というか、ヤ○ザが訪ねて来る時点で巻き込まれているし。正直、そんな人と関わりたくない、と普通は思う。受け入れるにあたって明らかなリスクがある。それが『ドッグヴィル』の第1章のグレースがドッグヴィルにやって来るシチュエーションである。これを「受け入れる」ことによって、グレースに「わけあり女にも関わらず受け入れてもらえた」という負い目と、そんな彼女を受け入れたという町の人たちの優位性といった相互の関係性が出来て、これが以降のストーリーの核として展開する。

『ドッグヴィル』(2003年) その1 序

2016-09-01 23:53:28 | 映画:ヨーロッパ映画


好きな映画のことを本腰いれて書きたい。

その原点は、ぼくにとってはラース・フォン・トリアーの『ドッグヴィル』(2003年)になる。一番好きな映画と訊かれたら、ボクは『ドッグヴィル』を挙げ、この映画について徹底的に書く。


“デンマークの鬼才”ラース・フォン・トリアー監督の長編7作目。前作までにヨーロッパ三部作(『エレメント・オブ・クライム』1984年、『エピデミック』1988年、『ヨーロッパ』1991年)、黄金の心三部作(『奇跡の海』1996年、『イディオッツ』1998年、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』2000年)を作り、しかも『ドッグヴィル』の直前作の『ダンサー・イン・ザ・ダーク』で2000年の第53回カンヌ国際映画祭の最高賞「パルム・ドール」を獲得し、監督ラース・フォン・トリアーの地位・名誉が不動のものとした。その次の一手が『ドッグヴィル』である。



まず、物語の中身よりも先に独特の映画の風景が目に入る。建物は壁や屋根がなく、陣地を白いチョークで描かれ、そこに椅子や机、ベッド等の家具が置かれている。風景的には舞台のセットの様な感じで、プロローグ+9章の物語が展開される。この白いチョークで引かれた町の風景はゲーム「サイレント・ヒル」がヒントになっているが、ラースはこの手法により人物に注意が集中出来るためとインタビューで述べている。

確かにボクが以下長くこの映画について書けるのはこの手法により人物の動きに注目出来ているからであろう。

中にはドアや畑など物がない物もあり、そこはパントマイムで見せる。パントマイムになるのはドアの明け閉めとグース畑を耕す所のみで比較的に最小限に留めている。


この『ドッグヴィル』(『マンダレイ』も同様)独自のセットを映画の風景として見ないと話にならない。これを舞台劇っぽいと言われたらそれまでである。

スタジオのセットでの撮影はラースのその直前までの作品群「黄金の心三部作」と大きく異なる。「黄金の心三部作」はほとんどがロケ撮影だったが、その手法から解放されたかの様に『ドッグヴィル』ではセットでの撮影をしている。これはセットだけではなく、照明の使い方や音楽、ジョン・ハートによるナレーションなど、「黄金の心三部作」とは違った手法で作っている。「黄金の心三部作」の頃、ラース・フォン・トリアーは「ドグマ95」を提唱し、この内『イディオッツ』は「ドグマ95」の作品として作り上げている。『奇跡の海』と『ダンサー・イン・ザ・ダーク』は「ドグマ95」ではないが、手持ちカメラによるロケーション撮影や一部の演出を除いてドグマ作品に近い作風の作品である。『ドッグヴィル』はまずそこから脱却を図った作品で、「ドグマ95」の「純潔の誓い」の殆どを破っている。

照明や光による効果も多用している。中でも盲目のジャックとのシーンにおける光と影の話は後にその両方で効果を見せ、光も影も上手く使っている。また、町全体を光らせた第2章と第9章で見せた照明で心情まで表現している。

ジョン・ハートによるナレーションはドッグヴィルの状況をナレーションするだけでなく、人物紹介、心理状況まで皮肉めいて話し、そこもこの映画の面白さの1つである。一般的にはキューブリックの『バリー・リンドン』(1975年)の手法になるが、日本映画で言えば深作欣二監督の『仁義なき戦い』(1973~1975年)5部作やテレビドラマ「スクール☆ウォーズ」(1985年)のナレーションが近い。恐らく、このナレーションがなければ映画の尺がかなりの長さに及び、最小限に留めたことは想像出来る。このため、俳優・女優の表情による演技やセリフがあるシーンでの心情の出し方も見事で、これに関してはニコール・キッドマンが演じるグレースよりも、ドッグヴィルの住人15人の方が上手い。

こうした意味でも、『ドッグヴィル』はラース・フォン・トリアーにとって新機軸になる。