第三の青春-じろさん本舗

地域デザイン、エコツーリズム、山芋四方山話
田舎暮らし奮戦記! じろさん本舗プレゼンツ

あの雲がおとした雨にぬれてゐる 〔山頭火〕

2006年11月11日 | ■遊歩資料アーカイブ

久しぶりの雨。これで少しは畑も湿るのかな?と言う程度。

この前の日記に「修験」で検索中に遊歩にばったり出会った方(日光院さん)からコメントをいただきましたが、私のイメージする遊歩は山修験にかなり近いかもしれません。
神戸で暮らしていた頃、「六甲山における密教的風景」というテーマで四度ばかし実践遊歩を行ったことがあります。役の行者が飛来した峰岩、幻の密教伽藍の探索、行場の古道を求めて、空海の足跡など山岳信仰の勉強をしたのを思い起こします。
日光院さんのプログを拝見して、また修験道を勉強したいなと感じました。それもデスクトップでなく実践的にです。山修験の重要性はこれからの時代ますます高まってくるものと思います。
日本人としての生き方をもう一度考え直すときには必ず不可欠なものと思います。

 あの雲がおとした雨にぬれてゐる 〔山頭火〕

大峰山ではよく雨にたたかれました。雨の山道はついついしずくこぼれる足下ばかりを見てしまうけれど・・・

■遊歩調査関連記事
 遊歩資料館アーカイブ(2010年収録)に目次があります。









お知らせ

キンドル出版にて、
山端ぼう:著つたなき遊歩・ブラインドウォーカー」を出版いたしました。

遊歩大全をバイブルとして六甲山を巡り歩いた老いた遊歩人とブラインドサイト(盲視)という不思議な能力をもつ全盲の青年とが、巻き起こすミステリアスな物語です。六甲全山縦走から穂高縦走へ・・・
続きは・・・


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遊歩は動的な「禅」? 無心の歩き

2006年11月06日 | ■遊歩資料アーカイブ

トラクターの騒音をものとぜず、追っても追っても逃げない。田を鋤くのを邪魔しようとする赤とんぼ、行く秋を惜しんでいるように思えました。何かあっという間に冬になる予感です。

 【遊歩のススメ】No.03

■遊歩は動的な「禅」?
いにしえ、密教行者、修験者が自然(宇宙)の神秘を自らの身体に体得すべく、ひたすら山野を、峰々を、岩場を歩き巡りました。
「瞑想」と共に重要とされたこの行は「抖そう行」と呼ばれたらしいのですが、自然の摂理、宇宙の哲理を頭だけで勉強するのではなく、険しい山林を自分の足で歩き回り、身体全体で自然や宇宙を掴みとろうとしたようです。比叡山の千日回峰、吉野山の奥駆けなどは代表的な「歩き」による修行です。
後の禅宗では、「歩き」より「座禅」という瞑想的な方法での修行が中心になりました。禅を勉強したわけでないので、的外れかも知れませんが、「渓声山色」自然の中を歩かなくても、我が身をして自然と悟れば、己が何処にあろうが、渓谷の音を聞き、山の色を見ることができるといいます。
この禅的修行の代表的な境地が「無心」とするならば、慌ただしい都会で、日々生活に追われている私たち凡人にはなかなか手の届かない境地だといえます。やはり、私たちに合ったそれなりのフィールドが先ず必要となるのでしょう。

私自身においても「一人歩き」では、往々にして「無心」を体験することがあります。疲れに喘いでいたり、ルートを必死で探していたり、風景に圧倒されたり、「無心」というより、「無我」「夢中」にちかいのでしょうが、ほどんど自分が真っ白になって、自然のフィールドで踊っているような、踊らされてるような、心地のよい状態になることがあります。考えごとをしているようで、何も考えていない。何も考えていないようで、充実している。自然に対して素直で、柔軟な自分になっている時、それも「無心」の一つというなら、遊歩は立派な「動的な禅」とも言えます。


 ひとりいる時こそ もっとも孤独から遠くへだたった世界である 〔ギボン〕

若い頃、本当に解っていたのか いなかったのか、ともかくこの言葉が救ってくれました。

■遊歩調査関連記事
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冒険って?(内なる未踏の地)

2006年11月02日 | ■遊歩資料アーカイブ

ここ数日は、すっかり朝夕が冷え込むようになりました。それまで一見穏やかそうな秋でしたが、気温の変化はすごいです。日中は半そで、朝はフリースという感じ。この20度近い気温の差についていけずに、ついに風邪を召してしまった。情けない!
プランターの自然薯の葉もすっかり黄色くなってきました。明日は一家で芋掘りに出かける予定です。

 【遊歩のススメ】No.02

■冒険とは?
宇宙に飛び出す以外にもう冒険は成立しないと考えられたのも、もう過去の話となりました。今では観光旅行で宇宙へ行ける時代です。

あらゆる極致に人は足を踏み入れました。地上においてほぼ「未踏の地」が失われた現代では、冒険のあり方も変わらずにはいません。よりスポーツ化され、極寒時のアタックとか、無酸素登頂とか、単独横断とか、無帰港渡航とか、なにかしら条件付加が必要になってきました。その内に裸体で登頂とか、竹馬で横断とか、少しマンガチックな光景になりそうです。
最近ではテレビで「チョモランマからの生中継」とかいうことも珍しくはありません。スポーツがそうであったように、猛々しいチャレンジ精神や自らの全存在をかけた行為としてあった冒険が、いとも簡単に「ビジネス」に置き換えられてしまいました。かつては冒険家(登山家)だけが踏みしめていた極限の地も、資金や近代装備さえあればなんら困難はありません。むしろ、大都会の闇のような暗部に足を踏み入れる方が困難かと思います。

これからの「冒険」とはもっと内的な部分で語られ、行われることだろうと想像します。
遊歩のひとつの断面には「冒険」はかかせない条件です。険しさを冒す、あえてリスクを背負う、冒険家でなくても誰でもこういう欲求にかられることがあります。その欲求が何処から沸き上ってくるのか?リスクとは何か? 現代社会の中に満ち溢れている個人的リスクから、もっともっと大きな領域で背負っているリスク、人類が何万年も背負ってきたリスクを考えてみるのも一つの冒険の、そして、遊歩のヒントかもしれません。



 道がなくなり落葉しようとしてゐる 〔山頭火〕

遍歴と言うより冒険に近かったのかな? ふとそんな風に感じました。


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十六夜と遊歩

2006年10月08日 | ■遊歩資料アーカイブ

十五夜の月は真ん丸じゃない、7日が本当の満月だと人から言われて昨夜、十六夜を観月した。
意外と山頭火には月の句が多い。夜中にも、とぼとぼ歩いていることが常だった?のだろうか。その中で、


 ほつと月がある東京に来てゐる
 うしろから月のかげする水をわたる


この二つはぴったり体感したことがある。前の方はずいぶんと昔、勇んで一人でお上りをした若い頃。
後の方は天然のホタルを探し求めて、六甲の沢を歩き回っていた頃の体験。まだまだ遊歩がままならない時分、一人歩きは昼でも心細い。ましてや、しじまに取り囲まれる夜の一人歩きはそれはとても過酷なものだった。
それが何年かすると、けもの達の目が光る薮をこいだり、暗黒の滝を登ったりして、吉野山の奥掛けの修験者のような気分になったりしている。明々とした昼の小径にはない楽しみが、暗闇のほうぼうにあるゾと春夏秋冬、夜の山々を徘徊するようになった時期がある。

沢の飛び石に足をかけた時、己の影が流れに揺れているの見て「ん?」初めて気がつく。振り返って見上げる「あれ、もうあんなに満月が高くなっている」


 うしろから月のかげする水をわたる 〔山頭火〕


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登山(アルピニズム)と遊歩

2006年10月07日 | ■遊歩資料アーカイブ

いつの間にかあっという間に咲いて、いつの間にかにいなくなってしまう。
稲刈りの季節、畑の周辺にはいつものように彼岸花が咲いています。ちょっと不吉なイメージが漂うこの花になぜか馴染めません。
スローライフ奮戦記はさておき、少しずつ「遊歩のススメ」も掲載していこうと思います。

 【遊歩のススメ】No.01

スポーツ登山というものが近代ヨーロッパ市民層に芽生えるまでは、古くは宗教的な儀式・修行か、または交易や獲物を求めて険しい山に登ることしか登山の目的はなかったと思われます。『アルピニズム』も近代の産物です。かつて、登山はスポーツというより『冒険』そのもので、より高く、より険しいピーク、未踏の頂きを目指すようになりました。その為に高度な技術や厳しい訓練、ルール、チームワークなどを習得しなければなりません。
『アルピニズム』はあくまでも頂上をきわめることを目標としがちで、その目的に向かって技術や方法が集約される場合が多くなります。「歩き」と「フィールド」の関係でいえば、圧倒的に「フィールド」の方が苛酷な状況になっており、その場合「歩く」という行為は「登る」(または下る)という言葉に置き換えられ、その一歩一歩が頂上を獲得するための手段となりがちで、制約された「歩き」に縛られることが多くなります。
遊歩では山頂や目標地点に辿り着くことだけが目的ではなく、「歩き」の一歩一歩がどれだけ自分らしくあるか、自由であるか、という問いかけを大事にします。極論すれば、今、踏み出した一歩そのものが全目的だとも言えます。


散歩、レジャー、スポーツ、登山、そして冒険、遍歴、宗教、はたまたアートへも!「遊歩」はどんどんと姿を移し(映し)ていきます。ご期待下さい。

 歩きつづける彼岸花咲きつづける 〔山頭火〕


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