第三の青春-じろさん本舗

地域おこしあり、遊歩あり、自然薯レシピあり、田舎暮らし奮戦記!じろさん本舗プレゼンツ

24年目の瞑目

2019年01月17日 | ■回想/阪神大震災
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瞑目。

 またまた、亥年がやってきました。
十二支の大トリで周期のラストを区切る亥年ですが、過去にもこの亥年は、関東大震災や伊勢湾台風、三宅島噴火など大きな災害にみまわれた年で、何らかの因果(ツケ)を最後にドッと払わされるような巡り合わせの年なんだろうかと思ってしまいます。たとえ、そんな因果であっても、結果に一区切りをつけ、新たな始まりに向けての準備を行う年でもあると考えられます。いや、そうでなくてはいけないでしょう。

 阪神大震災から12年目、それからの日月がどうであったのか? どう風化されていったのか? あらたな始まりに踏み出せていたのか? その検証にと始めたのが「回想/阪神大震災」でした。しかし、この追想記も一ヶ月も持たずに頓挫するという惨憺たるな結果になりました。おかげでブログも延々と空転し、立ち直すのに4ケ月余りかかってしまいました。

 表層の意識はどんどんと風化していくのと違って、体験痕は屈曲して心の裡で、ますます化石のように固まってしまいます。前回は、それを急いでに解凍したおかげで傷口が返ってひろがってしまいましたが、24年目の本年は、カタリシス(触媒)を使って、ショックの少ないやり方で「新たな回想/阪神大震災」を密かに計画・実行しています。無事、形になるようでしたら報告したいものと思います。

 本年も賀状など新年のご挨拶をいただきありがとうございました。その中で、震災を胎内で経験した青年が社会人として元気に働いている姿が見てとれる写ハガキが届きました。私も連れ合いも生き延びて、二人の娘に恵まれました。〝その日その日を大切に生きる〟偉そうな口ぶりで恐縮します。平凡ですが、それに尽きるとあらためて思い知る亥年の初めです。

★写真は震災時(1995〜1996年)に発行した「リ・セット」全6巻。12年振りに読み直しています。

【回想・阪神大震災ー21日間のメモ】
★震災後、走り書きのようにノートに書き留めていたメモが、21日目後の2月6日に途絶えていました。この時点で「何かが終わった」と思われます。何がどう終わって、何が始まって、今に至っているのか?
十二支が一巡りしたこの年の1月16日から、これを読み返しながら、12年間の足跡を顧みるためにブログで本メモから〝震災の21日間〟を省察してみました。

震災の前日から、

【追記 2020.1.16】
 明日は阪神淡路大震災から25周年、間接的ではありますがその年に父を失くし、自身の生活においても大きな転換期になった1995年は、節目の1・17に限らず、折々にその〝道しるべ〟を振り返っています。その道しるべはただ、しっかりと我が裡に刻まれているだけで、進むべき彼方を何も示すものではありません。「この生き方で良かったのか?」と問い質しながら、我が復興の一歩一歩を積み重ねていくしかありません。それこそが犠牲になられた方々への供養に他ならないものと信じております。

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●昨年、初めて挑戦したミステリー小説「つたなき遊歩」にも震災時の体験から移住までの経緯を下敷きにさせていただきました。

●第四の青春を託すべき〝歩き〟に特化した新しいブログ「遊歩のススメ」を作りました。ぜひ、お立ち寄りくださいませ。

●読本:遊歩のススメ
・遊歩とは何か? 
・幸せは歩きの距離に比例する?
・孤高の人・加藤文太郎を追いかけて・・・
・戸惑いの〝歩き〟の正体
・あるく・のぼる・あそぶ・まう・おどる・うたう・えんじる
・ウォーキングは健全なる狂気?
・遊歩のステージ(舞台)に立つ
・一人歩く時ほど孤独より遠い?
・自分の一歩、己の居場所(地図・コンパス・GPS)
●先人たちの遊歩
・そぞろ神のものにつきて心をくるわせるもの(松尾芭蕉)
・解くすべもない戸惑いを背負う行乞流転の歩き(種田山頭火)
・何時までも歩いていたいよう!(中原中也)
・世界と通じ合うための一歩一歩(アルチュール・ランボオ)










お知らせ

キンドル出版にて、
山端ぼう:著つたなき遊歩・ブラインドウォーカー」を出版いたしました。

遊歩大全をバイブルとして六甲山を巡り歩いた老いた遊歩人とブラインドサイト(盲視)という不思議な能力をもつ全盲の青年とが、巻き起こすミステリアスな物語です。六甲全山縦走から穂高縦走へ・・・
続きは・・・


〝歩く〟ことの意味をトコトン深掘りしました


〝遊歩〟にオススメな厳選ハイキング・グッズ10選
その1、ライト編(LED革命、スマホはOK?)
その2、トイレ編(ポンチョ?携帯トイレ?)

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13年間の阪神大震災に瞑目

2008年01月16日 | ■回想/阪神大震災

亥年の節目に当たって、震災体験の自らの風化を確かめようと「震災の回想記」を始めたのが、ちょうど一年前となります。地震前夜から12年のタイムラグでもって当時の体験に沿いながら追想しましたが、一ヶ月も持たずに頓挫してしまいました。
予想をこえた過酷な結果になりました。おかげでブログも延々と空白が続き、立ち直すのに4ケ月余りかかってしまいました。表層の意識はどんどんと風化していくのと違って、屈曲した体験痕は「PSD」状態で、冷凍のマンモスの化石の如くますます頑に固まってしまったようです。急いでに解凍したおかげで傷口が返ってひろがってしまったようです。

10年以上、あれこれの想いを敢えて見過ごしつつ、もろもろの傷跡も癒えたように過ごしてきたのが、実は一種の錯覚だったのでしょう。そのことが解ったことだけでも大きな収穫でした。

震災関連の検索中に、自分の名をキーワードに加えると「"震災後"にみる"原"社会の模索」という論文が出てきて、震災後の私にも言及している箇所があり驚きました。冷静に言い当てられていますので紹介しておきます。もろもろの傷跡の経緯が端的にまとめてくれていました。

 震災後発行された主な雑誌は二つある。そのうちの一つは、J氏『Re-set』だ。快適さや物の豊かさがいかに自然の前で意味をなさないかを確認したところで、人や社会が快適さや物の豊かさを追い求め続けることは間違いない。しかし、それらを得るために大きなリスクを背負っていること、不便さや物が豊かでない部分にも人間の拠り所を探って行く努力をすることが重要だ。そのことを確認した後、この雑誌は、仲間づくり(ボランティアはいらない)、仕事づくり(緊急ユニット、ネットワーク)、地域社会の模索など新しい形での働き方を提案していたが、出版責任者自らの会社員としての復興への関わりの中でそれは埋没し、具体的に提案にこたえる形での反響もあまりないまま、結局J氏の個人誌となって終わってしまった。このことは、共同事業や組合事業の難しさを物語っている。

自分自身では決して、単に埋没させてはいないつもりです。かの地とはなれてはいますが、此の地で地域振興の芽を探って育てつつあります。個人誌に終わったものも何やらの形で再生する時がくるやも知れません。これは震災に関わらず生き長らえている者の努めの一つだと思います。
昨年度も多くの震災孤独死(60名)が報じられました。13年前の震災犠牲者と併せ、そして復興の中で埋没せざるを得なかった多くの想い・希望に対してつつしんで瞑目いたします。

■写真は、
修羅場の中で「世の中、捨てたものではない」との実感が私たち神戸っ子の中にあります。あの時の「ありがとう…」の気持ちを原点に、都市として様々な「観る価値」をご案内できたら本望ですし、それを目標にサイト構築して行きたいと励んでいます。管理人ブログ挨拶文より抜粋)”

震災当時の知人が、想いをこめて昨秋にオープした地域情報・観光案内サイト「まるっぽ神戸」のトップページです。


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戸惑いの風景4〔No.22〕

2007年02月10日 | ■回想/阪神大震災
時間が止まったままの風景。市の都市計画、住民たちの
気持ち、折合わない事情をそのまま象徴している風景。
(JR新長田南駅前/4月2日撮影/J)

戸惑いの風景がひろがっていく。地震による第一次的な疲弊はピークに差し掛かっている。平穏さを取り戻すと反比例して身も心も重い疲労に耐えかね悲鳴を上げそうになる。この巨大な復興の嵐の中で生きていくのには、かつて発揮したことのないような大きな「優しさ」が必要なのだろう。何をやっていく上でも、思いや気持ちの中に精一杯漲らせることの大切さを痛感する。許すことが難しいように、無為に優しくあるのもそう簡単ではない。
(引き続き昨日の続き/第二号のレポート)


●被災地・被災者というレッテルを貼ったあなた達に問う。

母はガレキを怖がって外を歩けない。
部屋の中に一人でいると不安で涙が出る。
もう不安がることはないから、のんびりと親父と避難先で静養していたらと勧めても気持ちはこわばったままだ。
明治生まれの父は以前にも増して無口になって動かない。兄二人も家を失い、誰が、どこで両親たちと暮らすのか、兄弟たちとの相談は口論のようになって堂々巡りとなる。親たちをタライ回しにするつもりはないが、それを聞いていた母が「もう止めて!」と突然に泣き出す。こんなに激しく泣く母を見たのは初めてだった。
 家族全員の生命があっただけでこれ以上の幸せはないはずだ、という説得はもう通じない。人生のあらゆる不安を胸の内に押しとどめていた堰を失ってしまっている。これは地震と関係ないことだ。ただ地震がそれを加速させたにすぎない。

「体験者一人ひとりが、しっかり足元を見つめるしかない」という願いも言葉も虚しくなる。ただただ泣きじゃくる母をひしっと抱きしめるしかなかった。思えば私から母を抱きしめることは初めての経験であった。
 この母親の有様からは、空襲の中や戦後の焼け跡の中を、幼子4人を抱えて奮闘した母の姿を想像することができない。
「こんどの地震の方がずっと怖い。あの頃の若さも元気もないから…」
 返す言葉もない。年寄りや弱者に被いかぶさる精神的圧迫を少しでも軽くするには、より一層の思いやりと優しさを以ってするしかないのだろう。言葉は美しいが、これも容易なことではない。これからこの悪環境の中で、いや環境がどうのこうのではなくて、精一杯、私たちがどれだけ優しくなれるのかだけが厳しく問われるのだろう。

一時だが地震は、この社会の秩序を壊した。その混乱の中で体験者の多くは「生・死」をはじめとして細々した生活の端くれにおいても、さまざま根源的なものと出会うことができた。大きな犠牲をはらうことになったが、このおかげで今までの私たちの生活にあった嘘と誠、社会のもつ虚と実を垣間見ることができた。このことは凄い出来事だと思う。
 創刊号でのマスコミ、各機関へのお願いは当然ながら無視された。「被災」という言い回しからは、いつまで経っても人的、物的損傷しか語れない。あえて言うなら、この出来事は人の生き方と社会の在り方を顧みる「受難」だと言った方がふさわしい。

「被災地」「被災者」などと言うレッテルしか貼ることしかできなかったあなた達、いままでの社会の枠を越えて動くことができなかったあなた達に問いたい。あなた達は一体、私たちの「何」を見ることができたのですか? 


創刊号一万部のうちさばけたのは4千部足らず(売れた数ではない撒いた数)残り6千部は目の前にある。押し入れに収まる嵩ではない。どうしようと思案する。優しく考えようとしてもつい苛立ってしまう。第二号は4千部に減らしました。

(続く)

十二支が巡り、亥がまたやってきました。しばらくはスローライフ自然薯や遊歩のブログは休憩して、震災関連の回想ブログになります。重い話で恐縮します。自然薯の植え付け頃には土臭い話に戻れると思います。


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戸惑いの風景3〔No.21〕

2007年02月09日 | ■回想/阪神大震災
チキンジョージはどうなったか?と編集部によく問い合わせがきた。写真はガレキの中で再開したライブの様子。(4月6日/撮影者は不明)

勤務時間内に編集部を訪れる人が増え出している。電話やFAXも入ってくる。就労時間外に編集をするというケジメがあっても、二足のわらじはどう見ても公私混同であることに違いない。快く黙認してくれる同僚だけではない、当然ながら批難も受ける。辞表は提出したが受け取ってもらえないで懐で眠っている。「R誌」の方は既に300人近い年間購読者からその購読料を先に頂いている。
地震以降の中期展望が定まったのか社長から、両者の思惑を成立させてくれる妙案が出た。というより命令に近いものだったが、有難かった。社長にとっても英断であったのだろう。
私たち編集スタッフ一同で一営業所を立ち上げることになった。これからの情報社会を見据えた先見の明にあふれた事業に私たちも協力することとなった。暗黙の了解で編集部もそこに居候する事になった。状況は大きく一歩進んだかと思われた。
(引き続き以下/第二号の編集レポートから抜粋)


●まだセンテンスが成立しえない。

 地震以来、何が嬉しいことだと言っても、この暖かさに勝るものはない。春の訪れに心を動かすことはこれまでにも幾度かあった。でも、今はそんな季節感ではない単にこの物理的な暖かさ…、温度としての温かさに身体の芯から救われる思いをしている。
 市外に足を伸ばし、何度かいただいた風呂、いくら湯を沸かしても、どれほど長時間浸かっていようが、身体の芯まで温まることはなかった。その固まった芯がやっと最近この穏やかな気候の中で緩んできている。

 この二ヶ月余をどうレポートすればよいのか、特にこの一ヶ月ばかりのことをどう報告すればよいのか正直戸惑っている。
 時折、創刊号を読み直すが、よくぞこんなものをこの時期に作れたものだと、自分自身でも呆毛にとられる。地震直後の異常なテンションが産み落としたものとしか言いようがない。事実多くの人が多少の好意を含めて「冗談だろう?」と言ってくれた。また相応の批判もいただいた。けれど、辛いのは「一体、何を、どう、誰にアピールしたいのか分からない本だ」としごく冷静に評されること。そうゆうご意見をいただく方々の外野席での立姿が、私たちからいかに遠いものか。
 その批評も多くは「みんなに読んでもらい、この小誌がいくらかは売れるように」との好意を含んだ上でのアドバイスであることは承知している。「せっかく作ったんだから、もっとコンセプトをしっかり打ち出そう!」これらの忠告が雑誌つくりには欠かせないことだとは重々承知している。
 しかし「何」とは何なのか「どう」とはどうなのか「誰」とはダレなのか。そんなことが地震直後に明確に了解できていたならば、決してこの小誌は産まれてはいなかったことだけは断言できる。
「食料」を「車に満載」して「職員」が「運ぶ」
「消防隊」が「水」を「放水」して「消す」
こんなセンテンスすらも成り立たない時に、あの直後の「思い」や「叫び」を「誰」に「どう」「アピール」する為の編集を冷静に組み立てようなんてことができただろうか。決して言い訳しようとするつもりではない。「思い」や「叫び」をただ無念と涙で包んで飲み込むざるを得なかった人々がいた中で、幸いにして「R誌」というささやかな場を与えられたに過ぎない。
 「地震ジャーナル」という刺激的な発信方法をとってしまったが、実質は単に個人の「思い」をただ吐露する場でしかない。そういうやり方でないと、少なくともこの一年は持ち堪えないだろう。私たちのキャパはとても小さいこともあるし、「誰」とか「どう」とかを見定められる状況ではないのだ。そういう意味で私たちの足元はまだ揺れ続いている。

●内的ガレキをどうするのか?

 物的な回復が進むにつれ「心のケア」が方々で叫ばれている。
 物的なダメージはさまざまであったけれど、精神的なダメージ「内的なガレキ」とでも言えるか、これは物的なものとは比べようもないほど多様で複雑きわまりない。ますますこれから増加し続けるだろう。
 地震ショックとに加え、それ以降に派生した多くの問題の中で増していく精神的苦痛、圧迫、混乱、それらに「誰」が「どう」明かりをさし示していくのか私にはなかなか見えてこない。
 今、それを見つめる上で大事なことは、それらのほとんどが地震以前からの問題であったり、私たちの生活にもともと内在していた課題であるということだ。以前なら、それらを先延ばしにしたり、見過ごしたりできていたものが、この生活の激変で、一挙に噴き出しているのだ。これらは言うならば、
地震とはさほど関係ないことなのだ。

 「年老いた親」それを突然失った人たちの「思い」を代弁することは私にはできないし、しかし、幸いにも失わずにすんだ私たちにも「これから親たちとどう暮らしていくのか?」と目の前に突き付けられている。生き残った者たちの贅沢な問題だ。(この項続く)


片方では闘いの狼煙を上げながら、一方ではもう昔を振り返って弱音とも愚痴ともつかないことを書いている。これも戸惑いの風景そのものだが・・・。

(続く)

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戸惑いの風景2〔No.20〕

2007年02月08日 | ■回想/阪神大震災
若い編集スタッフが書き上げた「Kobe Man」
(第二号より)

地震から2カ月ほど過ぎ神戸にも春がやってきた。春霞といえば態はいいが、実際は街中いたる所でひっきりなしに行っている解体の塵とホコリだ。善くも悪くも神戸は巨大な力が躍動し始めている。
そして、これ又、いたるところで「戸惑いの風景」が広がり始めている。私の心象にひろがる戸惑う風景からは一本の狼煙が立ち上げっていた。(以下/第二号の編集レポートから抜粋)


【本当の闘いは今からはじまる!】

 つぶれるかも、と思った会社が何とか息を吹き返している。仮設だったが社屋も建った。給料もいただいている。仕事は馬鹿みたいに忙しい。JRも動いた。目の前にはテント村があると言ってもすっかり見慣れて違和感はない。ライフラインはほぼ回復した。
 私個人の周辺はこんな風だ。なにかと不便はあるが、さし迫っての問題ではない。ときおり訪ねる避難所もあの頃の緊迫感は薄れ、避難というより、そこで生活しているという感じで落ちついているようにうかがえる。言ってもきりがないから口に出さないのか家を失った知人たちからも、やりきれない話があまり聞かなくなった。困った人は大勢いるのだが、何故か目立たない。
 私自身の生活と言えば、薬、ライト、非常食を詰めたデーバックをもう背負ってはいない。運動靴も革靴に、フリースの防寒具がワイシャツに代わって、遅刻を気にして小走りで駅へと走ったり、サリンのことが気になってつい新聞を買ってしまう。「昨日には戻らない!」と叫んでいた私が懐かしく思えたりする。「何だ立派に戻っているじゃないか」

 これは揶揄して言っているのではない。私自身の正直な感想だ。しかし、生活の表層が平穏に戻りつつあると言っても、すんなりとそんな日々のくつろいだ時の流れに身を委ねきれない。そうできればどんなに楽だろう。でも何かが後ろ髪をつかみ引き戻そうとしている。これらは比較的ダメージの軽かった人のもつ、今の感覚に近いだろうと勝手に想像する。
 その中で「昨日には戻らない」とはっきり意識している人たちを別にして、ほとんどはこのまま元に戻ってよいものか」とおぼろげな引っかかりやこだわりを感じているように思われる。
 一つにはそんな選択すら許されない大きなダメージを受けている人たちへの配慮があるだろう。私たちだけが戻ってよいのだろうか、という後ろめたさ。どんどん拡がっていく格差は、ダメージの大小に関係なくあの時に持ちえた体験の共有感に大きな亀裂を生じさせている。
 もう一つは、戻り着く先の社会の不確かさ。言いかえれば、それは1.17までの自身の生活に対しての不確かさなのか。それに対してのおぼろげな疑念をゆっくり解きほぐすヒマもなく、再び、強烈に社会の波に巻き込まれていくことの恐れだろうか。
  
「(中略)闇雲に戻っていくだけなら、この地震は単なる空白に過ぎないではないか」という創刊号で訴えた私の体験もどんどんと風化が進み、再生のための復興という願いそのものにも「空白」がうまれつつある。
 しかし、私においては、私自身の空白との戦いが、本当の闘いだと肝に銘じている。「R誌」編集部の会社からの独立は充分に可能であった。それまでの生活を清算するにはその方が都合が良かった。しかし、現状は会社に残留する方向に進んでいる。この間いろんな苦悩が編集スタッフに被いかぶさった。辞表と封の切っていない給料袋をずっと懐にしながら、編集作業を模索し続けた。それは、水や電気や電話のなかった頃の編集より辛いものがある。しかし、そんなしがらみをスパっとふっ切る気にはなれなかった。それを断ち切れば楽なことには違いないが、それは1.17を単なるトピックとすることに他ならない。私の人生を踏まえた通過点ではなくてはいけない。しがらみを曳きずって行くことの大切さを若いスタッフもバックアップしてくれた。
 「変えて行きましょうよ、この会社を。ここで辞めたら僕は単なる被災者になります」
結局、私たちは二足のわらじという一番しんどい選択をしてしまった。ここ三ヶ月間全くオフがない。ここ何週間はほどんど眠る時間がない。外部の人からは滑稽な選択と見えるかもしれない。でも、この二足のわらじが見事に一足の履物になるまで私たちの闘いの一つは終わらない。
 この地には大小様々な闘いが渦巻いている。私たちの闘いはちっぽけだが、これを積み上げていくよりしかたがない。巨大な復興の求心力に丸ごと飲み込まれないために・・・。

(続く)

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最後のメモ〔No.19〕

2007年02月07日 | ■回想/阪神大震災
何か灯りが見えないか必死に車窓から眼をこらす。
まるで自分の心の底を覗き込むように・・・。
(ビジュアル新規作成)

この日でメモが終わっている。何故だかその訳は思い出せない。
おそらく、何かが終わったことは確かなことなのだろう。

【1995.2.6/震災21日目】


○会社/
地震見舞いの礼状と封筒を作成。
離職証が出来たと後輩へ電話する。

○実家/
3~4本電話。FAXで入稿もあった。
次兄宅へ猫の餌やりにいく。
Sへ電話。FAXが送信できない。
Mとやっと連絡がとれる。
神戸駅よりJRに乗る。車窓は恐ろしいほど暗かった。

★注:阪神大震災復旧の過程とういうページで調べたら、まだ2月6日段階では神戸駅の復旧がなっていなかった。おそらく「兵庫駅」の思い違いだと思われます。

兵庫~新長田~鷹取~須磨の間、車窓からは何一つ見えなかった。その暗さ、背筋から寒くなりそうな静寂の暗さだけは忘れることはありません。

(続く)

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戸惑いの風景2〔No.18〕

2007年02月05日 | ■回想/阪神大震災
何時見ても心が抉られる景色だった。
(長田区 3月12日/M・S氏の写真を拝借します)

創刊号を抱えて、日々あちこちを訪ね歩いている。三月に入って、何処へ行っても地震直後の風景とは異質な風景が広がっているのに気が付かざるを得ないのだった。
以下は第二号のテーマとなった写真特集「戸惑いの風景」のコメントから抜粋しました。

 ビルの谷間のきれいに整理された更地を見て、ここは一体どんな惨状であったのか、必死に思い出そうとする。見たはずのない場所であっても一所懸命に想像する。この習癖は風化への抵抗なのだろうか。
直後のままのガレキの中を歩いていると安心するという人もいる。焼け跡の取り残された傾斜のビルを「シンボル」のように眺める人もいる。ガレキを見ると恐ろしくて、足がすくみ歩けないという人もいる。

復興に直走るこの街では、加速度的に動き始めた時間、まだ、1・17で止まったままの時間、そして進んではすぐ立ち止まってしまう時間、遠くへ戻ろうとする時間、揺らめき戸惑う時間、様々な時間が方々を向いて流れている。
数多くの個々の体験があったように、そこを出発点として流れ出した時間も数知れない多様さで絡み合っている。
今、このリズムの違い、感覚のズレ、定まらない視点に多くの体験者らが戸惑い、悩んでいる。
*  *  *

いくつかの建物が解体された。いくらかの整地に仮設の建物が建ち始めた。既存の街で何万、何十万という建物を一度に建て直し、補修するのは、荒野に新都市を建設するよりはるかに難しい。
少しづつ整備されていると言っても、あの時からこの目に見える風景はさして変わっていない。
ただ、その風景を見つめる視線が大きく変わっていこうとしている。その違いが、あの時に持ち得た共有感に亀裂をうみつつある。

戸惑う風景は、
内からも外からも引き裂かれていくような気がしてならない。


【1995.2.4/震災19日目】


○会社/
とにかく寒気がする。
抵抗力が落ちているのか。
6~7名だけが出社。
創刊号のレイアウトが固まる。

○垂水/
連れ合いが帰ってきた。
久々の手料理。とにかく美味い。
銭湯へ。男湯は15分程の行列で入れた。女湯は長そう。
溜まった洗濯を片付けてくれた。
地震後、初めて全部を着替えた。

【1995.2.5/震災20日目】

朝が起きれない。
○会社/
原稿書きに専念する。ガイド版のゲラが出来る。
創刊号の目次もできる。
表紙もWが作った。

○垂水/
今日も手作り料理。うれしい。
連れ合いは明日また、避難先の実家へ帰る。
一緒に避難している祖母の世話もあるから。

(続く)

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戸惑いの風景〔No.17〕

2007年02月03日 | ■回想/阪神大震災
R誌が突っ走り始めた頃、足下では無数のズレが
蔓延りはじめていた。(2月5日/編集部撮影)

印刷・製本を大阪なり明石なり、市外の業者に発注すれば簡単なことなのだが、何としても神戸で最後まで作り上げたい。その思いもあって発行がやや遅れたが、2月末になって創刊号がやっと誕生した。

刷り上がった1万冊の創刊号を目にして、まずはそのボリュームに圧倒されました。壮観でした。4畳半一部屋あっても収まりきれない。地震でただでさえ空きスペースがないのに、どこへ置いておくものか困る。そして、これがみんな売りさばけるのか?いや、高くても(頒価500円)これは売らなければいけない。自立への道だから、趣味でもボランティアでもないのだから。
もしも、売れなかったとしても、これを配付するだけでも大変な作業になる。
「本を創るのは簡単!問題はそれからだよ」という地元出版社のIさんの言葉を思い出した。

実際、ここからイバラの道が始まるのですが、この創刊号をとにかく少しでも多くの本屋に置いていただくために、手分けして駆け回り始めた。一方では次の第二号の取材や編集に取りかからなくてはいけない。そして、会社をどうするのか?プライベート生活をどう整頓していくのか? などなど難題を山と抱えつつ、「売るしかない」と60リットルのザックに詰め込んで、バイクにまたがり本屋を巡る。100冊も詰め込めば、2泊3日の山行を思い起こす重さになる。だが肩の痛さより、配本時の交渉のもどかしさが辛い。
自費出版本の持ち込みは、決済や管理が煩わしいので大体は断られる。しかし、内容が内容だけに、じっくり経緯を説明すると、そこそこの共感が芽生えて話がすすむ。大型書店でも「よし!やりましょう」と店長と合点するれば、快く預かってくれるところもあった。

ところが大阪は違った。有名K書店ではけんもほろろに断られた。「地震ジャーナル?」怪訝な顔つきを見て説明する気もなくなった。書店だけではなかった。大阪というもの自体が私たちを怪訝に見ていたようだ。大阪駅に下り立った時に、震災ルックにリュックを担いで立っている自分の周りの空気がまったく異質なことに戸惑った。「別世界に来てしまった。なんて空々しい処なのだ」ここは、私たちの中では既に消え去った空虚な都会そのものなのだろう。
それでもめげてはいられない。歩き回って、やっとA書店のSさんと出会うことができました「ごくろう様でした」と、人間らしい言葉に出会えホッと一息つきました。それもその筈、彼も尼崎で厳しい体験をされたとのこと。出版界と書店のこれからの有り様の貴重な考えもいただきました。(そのあたりの原稿も依頼いたしました)その頃すでに始まっていた書店の大型化が、小さな書店を淘汰し、街の文化的なあり方自体を変えていこうとしていることに大きな懸念を持たれていたのです。
実際、時代はそういう方向に加速し、一方ではネット書店の直販・再販が際立ち、下町の小さな本屋さんはすっかり姿を消してしまいました。

第二号の発行までに、一般書店、テント村、大学生協など京阪神に33か所の販売拠点を確保することが出来ました。
そして、号を重ねるにつれ、それは全国的に広がって最終的には90カ所になりました。広がることは有難いのですが、同時に、配本、回収、決済という作業の煩雑さに音を上げてしまうことになっていくのです。

【1995.2.2/震災17日目】

とにかく寒い朝。
○会社/
ぼちぼちと仕事の引き合いが。
コーヒーブレイクが多くなった。煙草が倍ほどに増えた。
激しい揺れ。(震度3だったが痛んだビルはよく揺れる。みんな飛び出す)
9時まで原稿を書く。

○実家/
水汲みの後、すき焼き弁当。
ワープロ打つ元気がない。
WよりFAX。資料と原稿をいただく。

【1995.2.3/震災18日目】

○会社/
カメラ、ロッカーなどを搬出。
向かいの避難所で福豆を配る。カイロ、下着なども。
後輩たちとオフィスで焼肉パーティーを。久々の新鮮なタンパク質。
ギターを弾く。懐かしのフォークソング大会で盛り上げる。

○自宅/
ラーメンとローソンのごはん。
テレビを見てしまう。
連れ合いに電話、帰神を要請する。

(続く)

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明日への胎動が始まる3〔No.16〕

2007年02月02日 | ■回想/阪神大震災
私たちの周囲に「昨日」へは、もう
帰らないと決めた人が集まり出した。
(U氏撮影/日時不明)

編集部は元気に旗揚げした。それから12年も経っているが、この雑誌の実名は匿名のブログという場でもあり、ここでは伏せておきたい。「R誌」と呼んででおこう。私が書いた文章以外は極力、引用しないように努力していますが、はみ出して借用した文なり写真があれば平に御容赦願いたい。

「R誌」の原本1号から6号までを手にとって、12年振りに読みかえした。今でも込み上げる興奮で身震いがする。これは、とうてい私たちが作り上げた本ではないような気がする。こんな凄いパワーがあったはずがないだろう。
何かが、たまたま私たちに乗り移って、あれよあれよと私たちを操って創り上げたとしか思えない。
実際のところ、編集が始まって、印刷所から届いた創刊号1万冊を目の前にするまでの間、記憶が定かでなく、メモを見てもよく思い出されない。

とにかく創刊に向けて、五つのコンセプトを詰め込んだガイド版を手に、口コミ、手コミ、コネコミ、ポスター、チラシ、パソコン通信、マスメディアも利用しつつ西奔東走して、原稿や情報を募った。そして「R神戸」ではなく「R西宮」「R尼崎」「R大阪」「R東京」が生まれますよう心から訴えた。
特にインターネットの前身であったパソ通がその速さ、情報処理の軽快さで力を発揮した。私たちもこのR誌専用のHPを立ち上げ(HPと言ってもホームページではなく、NIFTYのホームパーティですが)より広く、より多くの情報交換を可能にしました。
人の輪はみるみる内に広がり、様々な情報や原稿が集まりはじめ、いろんな形の活動・共同事業の芽となるような提案や企画が持ち込まれるようになりました。たしかNIFTYで震災(情報)ボランティアフォーラムが立ち上がったのもこの頃だった覚えている。
パソ通大手3社(NIFTY、PC-VAN、People)をはじめ、インターネットのニュースグループを介してBBSが同じ会議室を参照できたいうことも起きた。閉じていたサーバがオープンに繋がっていく。時代がそういう時代であったのだが、震災の経験がインターネットを急速に現実化へと引っ張っていったことも事実だと思います。

救急車や消防車、自衛隊よりも早く現場へやってきたのは、マスコミのヘリでした。それも半端な数ではありません。飛ばせるヘリを総動員して各社合わせて何十機やってきたのでしょうか。私たちも下から見ていて、消化剤を撒くなり、物資を落とすなりできないものかと苛ついたものでした。
しかし、現実はこのヘリからの映像と情報をTVでモニターするしかなかったのが行政(国や地方)であり自衛隊でした。(何と情けないことですがテレビで状況判断していたのです)そういう意味では震災の第一次報道は大きな意味がありました。
この反省をもとに様々な施策が講じられましたが、インターネットもその目玉でその成長は今日を見れば想像を絶するものがあります。

話が逸れてしまいましたが、私たちへの共鳴者が増える中に、出版事業を営むKさんより全面支援の申し出がありました。ちょうどその日、解体工事のゴミが目に入り病院をさがしてウロウロしている時、たまたま避難所の看護室に眼科の先生がいるとのことで手当てしてもらった直後でした。のちに彼女が「R東京」を立ち上げることになるのですが、その経緯を第二号の「R東京」へ寄稿した文で紹介したい。


 「遊歩大全」のC・フレッチャーが自著で紹介したばかりに、神秘の地「ウィルダネス」は多くの人に踏み込まれ、環境汚染を産んでしまう。果たしてそれで良かったのだろうか?と彼は悩む。しかし、親しい友人の助言で彼は思いきることが出来るのだ。その助言とは・・「神秘の地」に足を踏みいれたものでしかウィルダネスの素晴らしさは分かり得ない。そして、それを実感したものだけが、本当にウィルダネスを守ることが出来るのだ・・・。

という引用文を以って「何かしたいが、神戸に行くと迷惑になるから」と神戸に足を踏み入れるのを躊躇している友人にメールを送った。「そんな馬鹿な!あなた自身のために神戸へ来るべきだ」と。
 〔中略〕
 外から何が出来るのか? 内からは外へ何を望むのか?戸惑いがひろがりつつある頃、東京のKさんより初めての電話をいただいた。おりしも眼を痛めてウロウロしている時だった。道路にしゃがみ込んで、ヒシヒシと伝わる温かい励ましの言葉に、感激なのか眼のゴミの痛みなのかとにかく目頭が熱くなった。
 それまでにも知らない方々から幾度か励ましのお言葉を数多くいただいた。その度に雑誌を抱え先行き不安な私たちは、大きな元気をいただいた。本当に感謝いたします。
 しかし、ついでにごう慢な本音を言わせていただくなら、
私たちのためにリセットボタンを押すのではなく、あなた自身のためにそのボタンを押していただきたい。
 それをKさんにも伝えた。その思いが通じて、数日後「R東京」の誕生を聞いた。第二号より編集にも参加していただけることとなった。こちらと同様「R東京」と言っても彼女の個人的な作業となる。大変なお荷物を背負わせてしまったようで申し訳ない。とにかく東京発信でけっこうですからと殆ど向こう任せにしてしまった。

東京と神戸のズレはしかたない。ステレオタイプで両方から違うトーンの音色が流れてくるかもしれない。しかし、それで各々が聞こえなかったこと、見えなかったことが、はっきり浮かび上がってくるかもしれない。

東京では3月に大きな事件が起きることとなる。

【1995.1.31/震災15日目】


とにかく寒い朝。
○会社/
電気が回復。社長の顔が元気だ。
多くの同僚がいた別館のワンフロアを2人で使う。
スタッフ会議、原稿の分担、資料の収集。
原稿がそろい始めた。

○実家/
コンビニが回復しつつある。まだ御飯類、牛乳が少ない。
避難先の京都に電話がつく。罹災届などの連絡を。
Cから大量のFAX。編集案をいただく。
  〔略〕

【1995.2.1/震災16日目】


○会社/
パソコン通信のIDを申請。
会社より離職者への職場紹介の話が。
インタビューを開始する。

○避難所/
Dの娘が倒れる。ストレス性の貧血。
おにぎりとサケ缶をもらう。コーヒーを差し入れる。

○自宅/
シーフードカレーと野菜ジュース。
ワープロを打とうと思うが寒気で布団に入る。
深夜まで考えるが3行しか打てない。概要だけをメモ。
もう少し文章力があればと嘆く。
Cよりまた大量のFAX。
髭をそりたくなった。

(続く)

十二支が巡り、亥がまたやってきました。しばらくはスローライフ自然薯や遊歩のブログは休憩して、震災関連の回想ブログになります。重い話で恐縮します。自然薯の植え付け頃には土臭い話に戻れると思います。

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明日への胎動が始まる2〔No.15〕

2007年01月30日 | ■回想/阪神大震災
ボランティアとは?日本中の多くの人たちに問いかけた。
写真は日用品を供出した灘区の某組長宅に並ぶ人たち。
日時は不明だが地震後間もない頃と思う。

状況に振り回されるより、状況を創っていこう。もう一杯、材料は身の回りにゴロゴロと転がっている。
テンションも上がる一方だ。何でもありの何でもこい! とは言っても闇雲に突っ走っていく訳にはいかない。

千人居れば、千の試練がある。万在れば、万の想いがある。マスコミは、このエリアの人たちの個々の体験を「被災者」という言葉で括ってしまう。そして、惨事の総称として「阪神大震災」という冠をつけたがるが、そうではなく「阪神大震災」とは、幾万という個々の貴重な体験の総体と見つめなければいけない。私たちは、このことを肝に銘じた。

一、政治的・宗教的・営利的なものは御遠慮してもらう。
一、誰も批難しない、しいては反省をしよう。
一、行政批判や責任のなすり付けは他の機関に任せよう。
一、「被災地」「被災者」という言葉に決して甘んじない。この言葉も極力使わない。
一、エリア内にも地震を体験化でき得なかった人がいたように、このエリア外にも地震を体験化・共有化ができ得た人々がいたことを忘れないでおこう。

この五項目を、原則に「1995.1.17兵庫県南部地震」に関する写真・エッセー・レポート・絵画・イラスト・詩・情報・提案などを一斉に募集した。もう、後へは引けない。ついに「ガレキからの発信」が始まることになった。
事務所が不定なので、宛先・連絡先は「神戸中央郵便局」とし、電話は当時まだ普及していなかった携帯を使うことにした。いまでこそ携帯など珍しくもないが、神戸では震災を契機に携帯が普及したと思われます。

そして、同時に「人」を求めた。
気概としては、ボランティアは不要。資金は欲しいが、支援金や義援金は遠慮するというのもあった。
これは決してボランティアを否定したものではありませんでした。

 明日へ向かって歩き出した人
 昨日には戻らないと決め人
 心の活断層を見つけた人
 地震体験をしっかり自分のものにしようという人
 
こういう人たちを肩を組んで歩んでいきたい。ボランティアする方、される方という両極からしか視点を持てない人を排したのです。当然ながら、当時ボランティアと呼ばれた方々の中にも明確な指針を得られないまま徒労感にみまわれた人もいたでしょう。
どちらの側というのでなく、明日へ向かって歩き出そうという人と共に雑誌を創っていくことを心より願っていただけです。

この時期、ある若い僧に出会いました。腰の重い本山の対応に苛立って(確かに従来仏教団の動きは鈍かったかも)居ても立ってもおられず一人高野山を飛び出してきたと言うのですが「救う」という意識が強すぎて、やや閉口した記憶があります。
そういう救いは、実は復興が進んだもっと先(心のガレキが満杯になる頃)に必要になってくるのですが・・・

【1995.1.29/震災13日目】


○会社/
営業部の仕事は出来ても、工場が何一つメドがない。
明石移転は不可になった。傾いた別館を補習する方向で。

○実家/
両親と長兄一家が避難した京都から母親の愚痴が届く。
避難した先でもストレスが溜まっているよう。

○明石へ
友人の家まで足を伸ばす。明石は別世界だ。
神戸に勤務の彼の会社は給与4割カットで自宅待機。
  〔略〕

【1995.1.30/震災14日目】


○会社/
一時金支給。
離職、一時離職が相次ぐ、後輩同輩が去る。
  〔略〕

○六甲/
第一回編集会議。
「ネバー カンバック ツー イエスタデー」が決定する。

(続く)

十二支が巡り、亥がまたやってきました。しばらくはスローライフ自然薯や遊歩のブログは休憩して、震災関連の回想ブログになります。重い話で恐縮します。自然薯の植え付け頃には土臭い話に戻れると思います。

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