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周南市は誰のために道の駅を作るのか?

2013年03月08日 | ・周南市・道の駅を考える
▲上左の画像は、2013年3月7日付の日刊・新周南、の記事
 右は市の道の駅推進室ホームページより

●まさか、このような情けないタイトルの記事を書く羽目になるとは思いませんでした。

3月4日付けで、周南市議会に「西部道の駅に関わる施策事業計画案に対し見直しの陳情書」が関係者らの連名で提出されました。
4年以上も前より、地元振興の起爆剤になるようにと実証店舗「ゆーとぴや」の運営や加工品の開発に携わってきたメンバー達の前に「コンビニ導入、JA運営管理」という市の案が突然飛び込んで来たのが昨暮れ。

 「冗談じゃない。たださえ狭い計画のうえ、3分の1の面積をコンビニへ譲るって」
 「これで、地域の特色が本当に生かせるのか!」

「防犯・防災の為とか」「買物難民救済とか」いう名目らしいのだが、建設予定地(戸田)の前には、既にコンビニがあって、消防署も新築されており、24時間営業のコンビニを導入する真意が全くつかめない。ここまで道の駅づくりに邁進して来た出荷者たちの想いを踏みにじるような仕打ちに地元はつよく反対の意思表示。この総意を見て市の道の駅推進課長も「コンビニ導入」の一文を削ると公言して一件落着。と思いきや、今3月議会に提出された市の案には、全く住民の意見を取り入れるどころか「コンビニ導入、JA運営管理」で押し通す腹づもり。

周南市(やJAさん)と敵対してケンカをするつもりは毛頭、無かったけれどこれはおかしいでしょう。「周南市は7億もの血税を投入して、一私業のコンビニやJAの店を作ってあげるの?」
という声が渦巻く中、6日の市議会傍聴へ行ってきました。

この問題を取り上げた長谷川議員の質問に「8回にわたる協議会でこの件(コンビニ、JA)は了解をいただいている」としゃあしゃあとした市の経済産業部長の答弁。これはアカンな、二枚舌というか、ねつ造まがいの発言。(市のホームページに掲載されている運営体制検討協議会の議事録は市の都合の良い表現で書き直されている)

●立派なコンビニ付の高価なトイレという「ハコモノ」

このブログでは地域のデザインをデリバリするのが目的で、こういう行政の仕打ちを究明するような目的のものでは決してありません。しかし、これからの時代、地域経済の成長も既存のシステムだけを頼らず、地域の個々の人々の連携を紡ぐことがとても大切なことです。個々のスモールビジネスの積み重ねが地域成長産業への布石の一つでもあります。
特に、周南市では重工業というビッグビジネスに頼ってきたこともあり、小さな市民の力を結集させていこうという行政能力に欠けているのでしょう。
議会答弁を聞いた限りでは、市長を含めて従来の型にはまった行政集団のようにも感じました。地域の人たちが明日へ向けて立ち上がろうとしているのに、それを行政が押し均してしまう。それは、7億という血税で、立派な高価なトイレ付コンビニという「ハコモノ」を産み出す箱モノ行政の延長。これで「オール周南の力!」と言えるだろうか。

数万台もの通行量がある立地で、道の駅を建設すれば、それ相応の施設をもっと廉価な予算で建てても、数億の売上げを得るのは難しくない。他の道の駅を参照すれば分かることです。それなのに何故、わざわざ小さな販売施設で、なおかつその中にコンビニ迄押し込んでしまうような案が浮上して来たのかは、行く行く明らかになることと思います。

これに関しての事実関係や経過は、折々詳細に説明していくとして、陳情書の項目だけを下に列挙しておきます。

(1)本来の当駅建設趣旨と地元民意が反映されない管理運営組織の構成計画の見直し。
(2)店舗施設の3分の一をコンビニに明け渡す計画案の見直し。
(3)コストが高すぎる上に、利用し難い施設計画の見直し。
(4)道の駅の主役とも言える青果の扱いをJAに一任するという計画の見直し。
(5)公募民営と言いつつ営業時間を市が24時間と規定する経営条件の拘束と、意図的な業者選定の見直し。


これに関しての詳細な陳情の補足説明を加えたものも追って公表していきますので、皆さん、特に周南市民の方々はよく考えていただきたいと思います。こんな所で行政のお尻を叩かなくてはいけないとはホント情けない事態ですが・・・。(次に続く)


●周南ツーリズム:関連ログ/
 004:シビックプライドを支える山々
 003. 周南エコツーリズム基盤整備と宣言
 002. エコツーリズムの起点
 001. 従来型のイベントを打破できるか!「ゆの浴衣まつり」
 000. 道の駅・パブリックコメントに参加して…

●道の駅:関連ログ/
 個人ブランド米 コレクションで売れるか!
 「地域通貨 Buchi」こども達が地域経済を押し上げる?
 新産業のイノベーション基地「ワッショイ周南」
 周南の未来を切り拓く道の駅
 周南デザイン最終稿「新たなる道標」
 周南デザイン4、周南アイデンティティを生み出す「道の駅」を創ろう!
 周南デザイン3、シビック プライド in 周南?
 周南デザイン2、イメージとスペース
 周南デザイン1、プライドとブランド
 周南市西部道の駅・見直し検討会?
 周南市PR映画・第一部が完成
 「道の駅」ワークショップ公開発表!
 周南市の東西に「道の駅」設置!


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続きは・・・


こうべイクメン大賞-その顛末

2011年07月26日 | ■日記など

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山口県へ移住するまで勤めていた前職場の後輩営業マンが「イクメン落語」なるものを始めたとという。「落語」をやってるてことも聞いていないのに、イクメンをネタにしているオリジナル落語? だれが聞くの? と眉に唾しながらこのニュースを聞き流していました。
ちょうどその頃、私の方はツイッターに手を染め始めた頃で、一人では使い勝手がよく分からない。連携しあう相手を探していた時だったので、彼にツイッターの練習台をお願いした。アカウントを作ってもらいフォロワーになってもらった。するとこちらがもたもた苦戦している内に、彼はフォロワーをどんどん獲得していくではありませんか。どうやらイクメンや落語関連のツイッター仲間に広まっていったらしい。
そこでの情報で、彼の地道な活動ぶりをはじめて知ることになりました。
少ないプライベート時間の中で、落語を学び、地域の小さなイベントや講習会で腕を磨き、ユーユーブで発表し、地元メディアも注目、知る人ぞ知る元姫路市民という芸名で「イクメン落語」なるジャンルを立ち上げ、ファンを増やしている。
あげくに「なんと!」イクメン本まで出版してしまった。
このイクメンパパ、落語がおもろいかどうか別にして、真摯に頭を下げたくなるような「ほんと、おもろい奴です」ぜひ興味ある方は下記でご覧下さい。
 
 ●元姫路市民の舞台を見たい方はユーチューブへ
 http://www.youtube.com/watch?v=BqXeg28StoA
 ●単行本「ハッピーアドバイスが聞けない育児パパへ 」
 http://www.amazon.co.jp/dp/490379637X/ref=mem_taf_books_s
 ●イクメン奮闘記(CO-OP版)
 http://piu.coop-kobe.net/ikumen/
 ●出張落語の受付は
 http://www.geocities.jp/motohimejishimin/rakugo.html

この6月、その彼からの育児に関してエピソードが欲しいという頼みがあって、数行書き込んで送った先が、なんとまあ、第三回こうべイクメン大賞、No.038に認定されてしまいました。そして先日、イクメン認定書と記念品が贈られてきました。事務局の方々ありがとうございます!
(上の写真がその認定記念のかわいいミニTシャツです。iPadサイズ位です。裏にはエピソードがプリントされています)
私自身は、積極的に育児に関与している「イクメン」という意識はほどんどありませんが、田舎暮らしを決めた要因の一つは、子供らともっと一緒にもっと過ごしたいという願望でしたので、子供らとの時間はよく取れている方だと思います。

娘らへのメッセージにも書きましたが・・・
「父ちゃんは歳やから、お前たちとは長い間一緒に生きられへん。そやからな~、父ちゃんとはちゃんと付き合っとかんと後悔するぞ!』といつも脅している。確かに、凛々しい父親の背中を見せられるのは、後何年ほどだろうとよく指を折ってしまう。
苦い恋愛を一つも経験もをした大人の彼女達の悩みをしっかり聞いてやるチャンスはあるのだろうか?
それは、神のみぞ知る事だが、ともあれ未来をうがつ過ぎると脚下を見失いがちになります。今、身の前にいる子供らとヒシッと向き合って、無理なく自然に、楽しく過ごすことが何よりも肝要だと思います。(粋なオチが無くて申し訳ない)

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遊歩の舞台としての六甲山とは

2010年09月19日 | ■遊歩資料アーカイブ
●これは六甲遊歩会にての記録資料のアーカイブページです。
(1984-1994年の間に編集されたもので、ブログの日付けは収録日に過ぎません)
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■遊歩の舞台としての六甲山とは(1984-1994年のまとめ)
■平凡な?裏山…六甲山
 六甲山系は、日本各地のどこにでもあるごく普通の山塊です。日本アルプスなど内陸地帯にある山系に比べれば、標高、スケールなどでは到底およばない小規模で、しかもかなり観光化された山域です。ドライブウェイを始め、ケーブル(3系統)、ロープウェイ(3系統)などによる山上へのアクセスも整備され、植物園、牧場、スキー場、ホテル、レストラン、ゴルフ場(日本最古)住宅地、別荘群、郵便局、小学校などの行政施設も整った都市機能も有しています。
 東西約30km~南北約10km、100余りのピークがあり、931.3mの最高峰をもつこの山塊は、数十万年前から始まった準平原の隆起でできあがったと言われています。火山活動や氷河作用をあまり受けていないので、単独峰や尖鋒が少なく、山上は大きな平たん部分をもっています。
 1000メートルに満たない標高ですが、南山麓は急な斜面が多く、アプローチがほとんど海抜20~50mといった地点から始まることを考えれば、内陸地の1500~2000m級に準じる実標高差をもっているともいえます。気象的には瀬戸内海の温暖な気候域に含まれ、さほど厳しさ・険しさはなく、降雪時のみ積雪する程度で冬期の登山も特に問題ありません。




■遊歩の最大条件

 さて、我が裏山もこのような紹介であれば、何も遊歩においてもさほど際立つ特色があるとは言えないステージですが、「遊歩」がより遊歩のステージとして鮮明に浮き上がる重要な条件で、他の山域にはあまり類のない条件が六甲山にあります。
 それは山麓に拡がる「巨大な都市圏」というものの存在です。東西南北から圧倒的な都市化の波を受け、また山頂もドライブウェイ沿いに観光化が戦前より進んでおり、自然の保全という点では、ほとんど六甲山系は満身創痍といえます。この点では日本各地の都市近郊の山系は大なり小なり似たようなものです。しかし、山麓に数百万という人口(ほとんどが都市生活者)を抱え、都市化の脅威を受けつつも、なおかつこの山系が 独自の秩序…父親のような凛々しい威風と母親のような優しい慈愛を持ちつづけている のは不思議と言うほかありません。
 「六甲山に一体、本来の自然がどれだけ残っているのか?」と問われることがあります。答えに窮する場合が多いのですが、未開のジャングルや未踏の深山のような状態を自然というなら、そういう自然は残念ながら、このエリアにはほとんど無いと言えるでしょう。 植生の多くは明治以降の植林事業によるし、沢のほとんどが都市を守る名目で進んでいる堰堤(砂防ダム)100年計画で、無傷な谷はなく、都市化のあおりで猿、鹿などの野生の動物も消え去り、保護されているイノシシ(というより猟の危険から都会人を守るためか)は野生を忘れ料金所で餌をねだっています。
 「六甲山は巨大な公園だよ」と断言する人もいたりする。それも確かに立派な言い草なのだけれども、もっと大切なことは自分の内に向かって「自然とは何か?」という問いかけを続けることと思います。 ヒマラヤやアマゾンでこれが自然だと頭を垂れる人もいれば、そこでも文明だけを妄信して自然を受容できない人もいる。アウトドアと称しながら、室内道具を満載して学校の校庭のようなグラウンドでキャンプ張る。これでは日常のドアから少しも足を踏み出していない。アウトドアの振りをしたインドアと言わざるを得ません。要は、自然とは何かを問う前に、自身の中に自然を感じる感性がどれだけあるか、その問題の方が重要なのです。 高層マンションの鉄筋の部屋の中で飾られた一輪の花にであっても、それから自然を感じることができる人ならば、その部屋には自然があり、カルキ臭い水道水であっても、その源流を知る者、沢を登り詰め岩の間からわずかに滴る水を一度でもノドに通したことがある者にとっては、自然の何であるかを、また不自然の何であるかを 十分に知ることができるし、その他、風であれ雨であれ然り。わが内にある自然が問題なのです。
 話は少し逸れましたが(詳しくは「自然とは何か?環境問題と六甲山」の項目を読んで下さい)自然と不自然が圧倒的にせめぎあっている状態がこのエリアにあらゆる場所で感じられるのです。 (つづく)


●これは六甲遊歩会にての記録資料のアーカイブページです。
(1984-1994年の間に編集されたもので、ブログの日付けは収録日に過ぎません)
 遊歩資料館アーカイブ(2010年収録)に目次があります。

〝遊歩〟にオススメな厳選ハイキング・グッズ、ライト編(LED革命、スマホはOK?)
〝遊歩〟にオススメな厳選ハイキング・グッズ、トイレ編(ポンチョ?携帯トイレ?)
●読本:遊歩のススメ
・遊歩とは何か? 
・幸せは歩きの距離に比例する?
・孤高の人・加藤文太郎を追いかけて・・・
・戸惑いの〝歩き〟の正体
・あるく・のぼる・あそぶ・まう・おどる・うたう・えんじる
・ウォーキングは健全なる狂気?
・遊歩のステージ(舞台)に立つ
・一人歩く時ほど孤独より遠い?
・自分の一歩、己の居場所(地図・コンパス・GPS)
●先人たちの遊歩
・そぞろ神のものにつきて心をくるわせるもの(松尾芭蕉)
・解くすべもない戸惑いを背負う行乞流転の歩き(種田山頭火)
・何時までも歩いていたいよう!(中原中也)
・世界と通じ合うための一歩一歩(アルチュール・ランボオ)








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自然とは何か?(六甲山はウィルダネスか)

2010年09月12日 | ■遊歩資料アーカイブ
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■自然とは何か



 六甲山が抱えている現実的な環境問題はここでは紹介いたしません。この遊歩会とは別な形で取り組まなければいけないでしょう。 「私たちが六甲山に入ることで六甲山を傷つけている」という前提を胸に刻みながら、ここでは遊歩と自然との関わり合いを紹介したいと思います。 まずは、「神秘のフィールド/ウィルダネス」を紹介したばかりに、多くのバックパッカーを引き入れてしまったことに関して、C.フレッチャーが次のように語っています。



 バックパッカーの数が次第に増え、自然そのものの存在が危機に瀕しているとすれば、私のやった仕事(ガイドの著作など)は、そうした侵略を促進させる役割を果たしているのではないかと思えてきて、(遊歩大全の)改訂版を出すことに躊躇を感じていたのだ。 そのとき、ある人が言ってくれた。「問題はウィルダネスに入り込む人の数の多さにあるのではなく、本当の生活、最も正しい生き方を知らずにいる人間の多さにあるのだ。われわれには、このような本がもっともっと必要なのだ。」私はこの好意あふれる気持ちが正当なものかどうか確かめることもせず、ひたすら嬉しくなって、すべてを受け入れてしまったわけである。             (C.フレッチャー著「遊歩大全」より)



 太字部分の本当の生活、最も正しい生き方とは価値観の問題で、その中味の是非は云々できませんが、おそらく一般的なナチュラリスト的な言葉として考えておきましょう。私個人からは、一体何が「本当」何が「正しい」のかを断言するつもりは毛頭ありませんし、その勇気もありません。 今、言えることは、都会的な生活が間違いで、ナチュラリスト的な生活が正しいという単純な理屈は不毛だということです。私は、週末は自然の静寂の中に身をおいても、それ以外では都会の喧噪の中で暮らしています。どちらが是か非かの問題ではなく、その両極を自由に行き来できる自在さを「遊歩」に求めることが大切なことと考えています。 自然というものは、自然と呼ばれるエリアがあって、そこへ行けば必ず自然と出会えるというものではありません。逆に、カルキ臭い水道水、どんよりした空、埃っぽい風…都会的な環境の中であっても、自然を感じ、掴み取ることもできるのです。要は感性の問題です。そして、天才的なアーティストか悟りを開いた聖人でない限り、この感性はバーチャルな環境では決して磨かれることはありません。われわれ凡人は手足、肌、目、耳、口を使って自然の何であるかを実際に体感し、自らの「内にある自然」と出会っていく以外にはありません。



 ----なぜ人は、冷えたシャンペンの方が、マウンティン・クリークから流れ落ちるあの氷のように冷たい水よりも「リアル」なのだと考えるのか。なぜ、ほこりっぽいアスファルトの歩道の方が、あおタンポポのじゅうたんよりも「現実」なのだろうか。ボーイング747ジャンボジェットは、日の出と一体になって飛翔する純白のペリカンよりも「リアル」だと、なぜ言えるのだろうか。言葉を換えて、もう一度言おう。ウィルダネスの美、沈黙、孤独から生まれ出るものより、シティーライフから生じる行動、感情、価値観の方が、なぜ「リアル」なのだろうか。(中略) こうしたもの(文明的な物)こそ、動物と人間とを別の存在にさせてしまい、私たちの視野を狭いものにしてしまっている原因なのだ。私はこう結論したい。山の清水、砂漠の花、白い鳥の夜明けの飛翔、こうしたものこそ、いっそう激しさを増した現代生活の複雑さの根本にあるリアリティーであり、シャンペン、アスファルト歩道、ジャンボジェットは、その真のリアリティーの延長線上にあるものとして視野に捕らえてこそ、初めて意味を持ち得るのだと。            (C.フレッチャー著「遊歩大全」より) 



 広大な〝ウィルダネス〟と世俗化、公園化された〝六甲山〟とでは、事情はかなり異なりますが、六甲山域でも都会生活ではなかなか見いだせない「リアル」と数多く出会うことができます。
 神戸市内には六甲山の沢から、大阪湾へ流れ込む数本の小さな川があります。護岸されて環境的にも自然な河川といえない状態ですが、そんな流れを源頭へ向かってどんどん遡っていくと大変、面白い体験ができます。山中にさしかかると護岸もなくなり、自然の沢の有様に戻って、時には渓谷状になったりします。できる限り水際を歩いていきますと、生活ゴミが浮いていた淀んだ流れが、清流に変わり水中の生物などもたくさん現れ、変化し、所によってはそのまま飲めるようになります。砂防柵や堰堤に度々遮れますが、なんとかそれも乗り越えて遡っていきます。谷の核心部分ではその沢がまるで自己主張しているような特色ある滝がいくつか姿を見せくれます。その滝の飛沫を浴びながら、急場を巻きこんで乗り越えていきます。いくつかの支谷を過ぎやり、本流と思える沢の急斜面をつめると徐々に流れは細くなります。そして、いよいよ源頭に辿りつくと、岩の間からポタポタと湧き出る水滴を、または地中からしみ出る小さな湧き水を発見することでしょう。これは感動です。(感動せん奴も居るかも?)ここまでが、短い沢で半日、長い沢でもまる一日あれば六甲山では充分です。時間があれば沢の中で孤独なキャンプを楽しむのもいいかもしれません。6月中旬頃なら、もしかして天然のホタルなんかと出会うかもしれません。
 私は、自宅の蛇口から流れる水道水に「哀れさ」を感じると同時に「大いなる自然の営み」も同時に感じることができます。その「二つのリアリティ」を持ち得ることができます。それも、その水が何所でうまれ、何処から湧き出てきたのか、源流のあの水滴をこの目で見て、この手ですくい、この口で味わっているからです。そういう本来的な水と出会った感動があるからです。風や雨もしかり、木々や日ざしも然りです。
 禅から生まれた茶道の茶室には、よく一輪の花が飾られます。それだけで大自然の多くをそこに凝縮させている訳ですが、禅の達人でなくとも、遊歩を積み重ねた体験があれば、一輪の花から、一陣の風から、小さな木漏れ日から、「リアル」を感じ、心を動かすことができます。


「引き裂かれた私」
 よく現代人は「引き裂かれている」と言われることがあります。この引き裂かれた状態とは、バーチャルな環境(生活)においての自分と本来的な自分(これが何かは難しいが)とのギャップをさすと思います。「自然」というテーマに絞れば、上手な言葉ではありませんが、「私たちが今、定義している自然」(頭で考えている自然)と「あるべき自然」(感性で実体験した自然)のギャップがあって、その「二つの自然」に引き裂かれている状態を感じてしまいます。
 俗化した六甲山なんかに本当の自然はあるのか? と毒づく方がたまに居ます。また、六甲山の自然を守れ!とか叫ばれる方も多いです。しかし、そう言う前に「豊かな自然、守るべき自然」とは何なのかを、まずは深く突きつめなければいけないと思います。その問いかけは「傷つき続ける六甲山」自体から発せられているように感じます。その問いかけに応えるためには、「私」がハッキリと感じえた「リアル」を積み重ねていくしかありません。これこそが「内なる六甲山」と言えるのではないでしょうか。 自らの内に六甲山を見い出すことが、内なる自然との出会いへと通じています。ここに至れば私たちの「二重の現実」をよく見渡すことができます。その上で環境問題や自然保護の課題を考えてみてください。そして、自分の生活も…。そこから先は貴方次第です。

●これは六甲遊歩会にての記録資料のアーカイブページです。
(1984-1994年の間に編集されたもので、ブログの日付けは収録日に過ぎません)
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〝遊歩〟にオススメな厳選ハイキング・グッズ、ライト編(LED革命、スマホはOK?)
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・おくのほそ道にみる芭蕉の〝遊歩〟とは(バックパッカー・松尾芭蕉)








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ありがたい十坪菜園

2008年07月22日 | ■日記など

わが十坪菜園の2ヶ月以上過ぎると、いろんな変化・出来事が起りました。それぞれ個性の違った生物ですし、それを目当ての生き物虫や動物たち(私らを含め)が右往左往する訳ですから、なかなか思った通りには運びません。(これも自然の戦いなんですね)

まずは、ジャガイモです。試しに一株抜くと、小粒ながら7~8個の新ジャガが。
「よし!あさっての日曜に収穫しよう!」と日曜の朝に唖然とする、30ほどの株が全部引き抜かれて、芋の姿はまったくありませんでした。おそらく狸の仕業と思われます。夜中センサーにかかって玄関灯の前を堂々と闊歩しているタヌキを二度ばかり目撃しております。
次の週末、下の娘が「とうちゃん!庭にサルがいるよ!」というのですが、おそらくイタチかリスかの見間違いだろうとかまわなかったら、今度は上の娘が「サルや!」というので表に出ると、素早く電信柱に登る小猿の手にトウモロコシが。(写真のバックの電信柱)まだ実ったばかしの小さなものですが「人様が丹誠込めて育てたものを」と逆上!人間の怖さを教えて二度と近づかないように石や木切れを投げてサルを威嚇するが、何やら小馬鹿にしたような表情で山に帰っていった。
早速、我が家のニューフェイス「クッキー」の犬小屋を移動させ見張りにあたらせるが、まだまだ小犬。どれだけ気張って番ができるか不明である。

梅雨前には、ラディシュや大根、チンゲンサイ、小松菜などを順調に収穫しました。サニーレタスも毎朝、食卓で山盛りいただきました。(ちょっと植え過ぎましたか)お好みではないとシュンギクは家族からは不評で私の弁当食材として頑張ってきましたが、これも食べ切れません。現在は、虫にやられたナス以外の、トマト、キュウリ、ピーマンは快調で、食べ切るのが大変です。そして、そろそろオクラと枝豆が収穫でしそうです。
あれこれ菜園から摘みとって食卓にのせる極上の喜びは、誠にもって有難いものです。

何が何やらみんな咲いてゐる 〔山頭火〕

という句がありましたが、何が何やらみんな私のために実をつけてくれているようで自然の恵みに深謝・合掌です。

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