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天使に出会ってから

体と心の変化を見つめて書き留めておきたい

野毛の先達さん」

2005-06-29 20:24:05 | Weblog
野毛の水行堂の先達、竹生さんに会いたくて、訪ねて

「竹生さんいらっしゃいますか?」

「先達さん病気で入院してるんだよ」

「お見舞いにいけますか?」

「三ツ沢の市民病院だよ」

「わかりました」

後日、病院に訪ねて行った

「ああ、よく来てくれましたねえ、お寺で聞いたんですね、お掛けください、、」

「いかがですか、もう長いこと?」

「実は癌になってしまいまして、あちこち転移してしまってもう、手遅れらしいですよ」

「ええええ、そんなあ」

僕はあのころはまだ死に対しての考え方が今とは違っていたのでショックだった

先達さんは、スタジオを開くときに、お祓いと、繁盛祈願をしていただいていた、

そのときも、お礼は受け取ろうとしなかったけれど

縁起物だからといって、受け取ってもらった、食事もやはり

「ざるで、」と、、

今回は僕も一緒にざるそばを注文した、大盛りで、、。

大晦日には、水行堂にいって、熊手をかって、先達に挨拶をするのが恒例になっていた、

「いつでもここにいらして、座って見てください、心が落ち着きますよ、、」


何度か僕はバイクで走り回った帰りに少しだけ座りに行ったことがあった

そのとき今で言ううつ病の女の子に何度か会ったことがあった、

先達さんは、「心が病んでいる人に頑張れと言ったらよくないと言

うことを彼女を通じて学びましたよ。」

「ではなんと声をかけるのですか?」と尋ねた

「これ!という答えはわからないのですが、頑張ってるね、と言うのが、いいようです」

この言葉は後で僕が教えていたうつ病に近い生徒さんに対して役にたった

忙しくなって、お寺に訪ねていくことが、なくなった、


先達さんからはもっといろいろな事を学びたいと思っていたので、、



そしてしばらくして、先達さんは,亡くなった。

その後いろいろな民間の怪しげな治療を受けて

修行の山に通っている、大先達だと言う人の治療を受けたけれど

格好はいかにも修行してます~。って雰囲気を出しているが

人を見下したような立ち居振る舞い、、

やはり、竹生さんと比べてしまうと、格好だけで、中身がなかった

本物はひっそりと、必ずいる、僕も本物になるために頑張る

ちょっと、ひとやすみ

2005-06-28 00:09:24 | Weblog
ジングル自慢

僕の言うこと以外は基本的に聞こうと言う気がない、

ジングルを家に連れてきたから、古本屋さんで犬のしつけの本を
あるだけ買ってきてためした、

まだ僕が杖をついて歩けるころは、僕の左がわについて同じペースで歩いてくれた

でも今は妻が散歩につれていくのだけれど、妻をひっぱりまわしている、

公園で車椅子でジングルとまわっているときは、「つけ」と言えばリード無しでも一緒に歩くけれど、

妻が言っても聞かない、ひっぱりまわす、、、、。

外でおいでと言うと、走ってきて車椅子の僕の膝の上に乗ってくる

うれしい、



思わぬ展開、、、。

2005-06-27 00:18:31 | Weblog
父の葬儀の日、僕は外泊許可をもらって斎場に前の日から、泊り込んでいた、父の死に顔は、だんだん眠っているように変化していった

父の横で寝た、

葬儀の打ち合わせが始まった、父は背が高かったので、棺おけが規格外だといわれ、追加料金10万円、その他もろもろいろいろお金がかかるものだと実感した、、。

僕が死んだ時は、この経済活動には参加したくないなあと思った

目の前で安らかに永遠の眠りについている父がこんな祭壇のランクを上げるとか、

打ち合わせで、ビデオを作るとか、何人ぐらいの人が来るから、

会葬御礼をいくらぐらいのものにしたらいいかなどの話を聞いても「どうでもいいよ、そんなこと」って言うのが聞えたようなきがした

母は僕のことをいつまでも子供だと思ってるので、最後のお礼の挨拶を、父の友人に頼もうとした、

僕は母がそれでよければいいと思った

でも伯父さんが「やはり挨拶は親族がやらないと、、おまえがやれ」と僕に言った

僕はやれと言われればやるけれど、きっと的外れな演説になってしまいそうだったので

葬儀社の人にお手本の原稿をもらってそれを読もうと思った

渡された原稿は、僕には不似合いの、当たり障りの無いものだった

それを、さもそれっぽく、「故人も喜んでいることと、思います」なんて僕には言えそうになかった

スピーチは何度か経験していた、原稿は作るのだけれど、それをそのまま読んだことは一度もなかった

場の空気を読むという言葉が流行っているけれど

僕はその場になると、用意したものと違う内容や言葉が浮かんできてしまう、、

だから、父のときもそうすることにした

「最初の挨拶は決まり文句だから、守るけれど後は思ったこと言うけどいいよね」と母に言っておいた。

挨拶は無事に終わった、とくべつとっぴなことは浮かんでこなかった

葬儀が終わった夜、病院に戻らず、うちにもどった

母はまだ気が張っているようで、バタバタと動き回っていた

妹が「話があるんだけど、」

「どうしようか迷ってなかなかいいだせなかったけど私妊娠してるの」

ええええ、妹は独身の医者、、

男には全く無縁の生活だと思っていた

「相手は離婚調停中だけれど、私は彼と結婚するつもりはない、結婚して、男の人の面倒見るなんて生活はしたくないから」

妹らしいなあ

「仕事は続けていくつもりだから子供生んだら、ママに面倒を見てもらうことになるから、ママがダメと言うならおろすしかないと思ってる」

うわ、すごい展開になてきたー。

相手はパチンコ屋さんのオーナーゴルフ場で知り合ったらしい

母は「パパの生まれ変わりよね、産みなさい、面倒見るから」

僕は父が生きている間にこのことを伝えていたらどうなったのだろうと考えた、

感動のテレビドラマだったら、このことを聞いて病気から生還したなんてことになるのだろうけれど

きっと現実はもっと厳しく悲しいのだと思う、、。

生まれくる孫を抱くことが出来ない未練を残して死ぬよりも

伝えないでおこうと妹は思ったのだろう、


父と一緒に入院した3ヶ月の終わりの日

2005-06-26 12:04:48 | Weblog
僕の父は肺がんで病院で亡くなった

僕は9階、父は天国に一番近い病棟、最上階の癌病棟に入院していた

12階のナースが

「田中さんお父さんの様態が悪くなりました

12階にいらっしゃって下さい、お母様には知らせましたから、」

僕が12階に上がっていった時にはもう父の意識はなかった

足は左右に力なく180度開かれ、呼吸器はつけられ。心蔵だけが動いていた、

僕は父の左右のむくんでパンパンに腫れ上がった足を左右交互に両手で優しく包み込んだ

なぜそうしたのかはわからなかったけれど、そうしたかった、

母と妹が駆けつけきた、目が真っ赤になっていた

ナースと先生は、心臓が止まっているかどうかを確かめにちょくちょく覗きに来ていた、

もうどうすることもできないのはわかっていた

それより僕は父はもう既に死んでいると認識した、、。

心臓がだんだんよわくなってきて

朝8時43分止まった

先生が腕時計でを見て「8時43分ご臨終です」と言った

母と妹はそこで泣き崩れた

僕はなぜか涙がでなかった、、

「やっと開放されたんだね、お疲れ様」と心で思った。



僕は9階、父は天国に一番近い病棟、最上階の癌病棟に入院していた

僕は毎朝、朝食が終わったら、父の病棟へ登っていった、

そして毎日父の写真を撮り続けた

まわりの人達もほとんどが、自分の命が終わる予定の日を知らされている人達だった、

よく本人に告知するかどうかで悩んでいると聞いたけれど

現実は、大学病院に入院すると、そんなドラマチックなことはない

実際、、僕に対する告知も淡々と事務的に行なわれた、、、。

父のカンファレンスでもまだ厚生省で許可が下りていない新薬を使うかどうかの話がメインで、もし

この薬が効けば治るかもしれない、、
この話がメイン、当然効かなかったら、あと3ヶ月と簡単に説明される、まあ合意のもとの人体実験、、。

でも本人や家族は1%の可能性にすがる、

父は僕が入院中に、二回治研薬を変えられた、

(治研薬とはよく考えられた言葉だ、治療の研究の薬、、。)

その度に副作用で辛そうだった、頭はダチョウの頭のようになった、
はたから見ていて一番辛そうだったのが、口内炎だった、水も飲めないほどに痛がっていてた、

母はそれを見ていてある日僕と妹に

「おとうさんが辛いっていったらもううちにつれて帰っていいかな?」

その時までは僕はなんとか父にがんばて欲しいと思っていた

父を一番愛してる母が自分の元から父がいなくなってしまう辛さよりも、

もう父を苦しみから解放してあげようと思ったことに僕は気が付いた、


てっちゃん

2005-06-24 23:04:29 | Weblog
ある日僕のベッドの横にてっちゃんが入院してきた、

テンカンの後遺症で、子供になってしまったらしい

初日てっちゃんは眠れないらしく、何かをバタン,バタンうるさい、

「うるさいよ、しずかにしてくれよ」と言った

しばらくは静かになった、、、

しばらくしてまた、バタンバタン

「うるさいって!」

静かになる、、、

またバタン、バタン

「いいかげんにしろ!」と言いながら枕もとの電気をつけてカーテンを開けた

てっちゃんは涙を流していた、、。

「泣くなら、静かに、ないてくれよ」僕はわけのわからないことをいていた。

声をかけたのがよくなかった、僕の横にある椅子に座ってずっと僕を見ている、

「ねないの?」

「ねむれん」、、、、

しょうがない付き合うか、、

「ちょっとついておいで」

部屋から出てディルームと言う,テレビが置いてある面会用の部屋に一緒にいった、、。

友人のトシちゃんも誘うかと思ったけれど、眠っていたので、やめた、、

「足どうしたの?、けが?」

「怪我じゃなくって、どうしてこうなったかわからないから、調べにきたんだよ」

「。。。。。」

「てつおさんはどうしてここにいるの?」

「てっちゃん」

「わかった、てっちゃんだよね」

「。。。。。」

朝まで二人で外を見ていた、、、。

てっちゃんは、昼間の明るい時はとても元気になる

「ろーっこおおろーしにーさそわーれーて」

ここまでしか知らないらしく延々と歌っている

まわりのひとたちは、気持ち悪がるか、ばかにするかどちらたかった

てっちゃんはばかにされても気にならないのだと僕は思っていた

周りの人達も、てっちゃんをばかにしても、本人は傷つかない者だと思って、

退屈な病院生活を紛らわすために遠くからてっちゃんをばかにしている

僕はバカにされるのが嫌なので、てっちゃんとはまじめに接した

ある日てっちゃんが「飲んで」って缶コーヒーを持ってきてくれた

「ありがとう」

「ろーこーおろーしにー」といって徘徊をはじめた

てっちゃんが缶コーヒーをまたもってきてくれた

「オレにもくれよ」とほかの人がバカにしたようにいっている

「お前にはぜったいあげない、ションベン飲ましてやろうか」と

大きな声でにらみつけて怒鳴った

傷ついていたというより、もっとほかの感情を持っているんだなあと思った

その人は黙ってしまった。

やはり、何をするかわからないって思っているんだろうなあ

ほんとうに行動に移しそうな迫力があったし

「上等だやれるもんならやってみろ」といったらきっと

やっただろうなあ

またある日,てっちゃんがコーヒーを持ってきた

そのコーヒーにはマジックで名前が書いてあった

、、、、、

てっちゃんは、共同の冷蔵庫からかってに誰かのコーヒーを失敬してきていたらしい

罪悪感はあったのかどうかはわからないけれど

僕は、とりあえず、名前がかいてあるやつは、もってきちゃだめだと言った

それからは、コーヒーを持ってこなくなった、

みんな名前を書いて、いれるようになったからだ、。