3日前「今改めて『豊かさとは何か』」と題して96歳の経済学者、
暉峻淑子(テルオカイツコ)のインタビュー記事について書いた。そして、
バブルの絶頂期、1989年出版の「豊かさとは何か」(70刷の後絶版)
を図書館から借り、サワリを紹介した。
福祉、教育、環境、労働などについて、客員教授として一年間滞在
した西ドイツの状況と日本を比べ「真の豊かさ」の違いにを詳述して、
最終の第6章で「豊かさとは何か」を模索する。
ある日、森を通って仕事に出かけた時、休暇を取った中年の男性が、
籐椅子に寝転んでじっとしているのを見かける。夕方通りかかっても
同じようにしている。
何となくおかしくて「何をしているのか」と声をかけると彼は言う。
仕事など一生懸命何に向かっている時は周りのものは目に入らない。
こうして何もしていないと、小鳥の声、風のそよぎなどがきこえ見えて
来る。受け身で自分をカラにして受け取ることもまた豊かなことだ。
自分の現役時代を振り返ると、まさにその通りで周りは見えなかった。
退職後は街道や川沿いを「頭をカラにして」歩くが、同じようなことを
現役時代に出来る「労働の余裕」が当時も西ドイツにはあったのだろう。
「豊かさとは何か」の第一章の小見出しの一つ、「表面だけの豊かさ
ー余裕と思いやりの喪失」は当時も今も実に象徴的である。
次回はこの本の出版から三十数年後の暉峻淑子の「怒り」を、インタ
ビュー記事からまとめてみよう。
昨日の日の出散歩の帰り道、路端の花たち