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地福寺

滋賀県東近江市にある『曹洞宗地福寺』のページです。お問い合わせメールはjifukuji@e-omi.ne.jp

「誕生仏 」 地福寺報 ~花まつり号~

2012-04-25 | 法話(地福寺報より)
誕生仏(たんじょうぶつ

四月八日は「花まつり」。
お釈迦様の御誕生を祝うおつとめです。
旧暦で行う所もまだ多いようですが、
地福寺では毎年、四月二十九日に「花まつり法要」を行っています。
法要の当日、「花御堂(はなみどう)」の中には、
小さなお釈迦様の立像をおまつりいたします。
この立像は、お釈迦様の赤ちゃんのときのお姿で、
右手は天、左手は地面の方を指しておられ、「誕生仏」と呼ばれています。
2600年以上も前に、現在のネパール、ルンビニ―の花園で誕生された
王子・シッダールタは、のちに、世の人々の苦しみが、「教え」によって救えることに気付かれて、
「お釈迦様」と呼ばれるようになったのです。
「花まつり」は、お釈迦様がお説きになられた、
生きとし生けるものすべての「いのち」の尊さを、お祝いする法要です。


「行持(ぎょうじ)」~地福寺報~新年号 

2012-01-13 | 法話(地福寺報より)
  行 持(ぎょうじ)

「ぎょうじ」、一般には「行事」という字を書きますが、
地福寺など曹洞宗寺院の場合では、『行持』という書き方をすることも多くあります。
「行事」は、[催し等や、決まって行う事柄]という意味で、「年間行事」とか「行事予定」というふうに使われますね。
もう一方の「行持」の方は、
[行は修行、持は護持、持続のことで、仏祖の大道(だいどう)を修行し、永久に持続して怠らないこと]ということです。
修行というと、なにか厳しいことをわざわざしなければならないように思っている方もあるかと思います。
しかし、お釈迦様が説かれた、「とらわれ」のない真実の道を、
日々、一所懸命歩んでいくこと、つまり私達仏教徒の生活すべてが、仏道の修行でもあるのです。
遠くに探し求めてゆかなくとも、今、自分達が暮らしているこの場が、正念場の修行道場だといえるでしょう。
私達は、今日と同じ明日が必ずあるものだと思っていますが、
自分自身のことであるはずなのに、それは明日になってみなければ誰にもわからないことです。
昨年は皆さまも特にそう思われたのではないでしょうか。
また新しい年が明けました。毎日を常に心新たな気持ちで祈りを持ち続け、今年も一日一日、
一緒に行(ぎょう)じていきましょう。

「懺悔文(さんげもん)」 地福寺報 ~お盆号~

2011-08-16 | 法話(地福寺報より)
 自分の生活を振り返ってみると、もっともっとと、貪る卑しい心や、
己の思いどおりにならないことに腹をたてる身勝手さ、
真実を素直に認めないといった愚かな考えなど、
私たちが、日常、つい持ってしまうような心を「煩悩(ぼんのう)」といいます。


我昔所造諸悪業 (がしゃくしょぞうしょあくごう)
皆由無始貪瞋癡 (かいゆうむしとんじんち)
従身口意之所生 (じゅうしんくいししょしょう)
一切我今皆懺悔 (いっさいがこんかいさんげ)

『昔より造りしところの諸々の悪業は、
 いつよも知れぬうちに積もったところの
 「貪・瞋・癡(むさぼり・怒り・愚かさ)が
 元となっている身と口と意より生ずるところなり。
 一切我れ今皆、慎んで懺悔し奉る。』



塵(チリ)は、払っても払ってもまた、積もります。
だからといって、振り払うのをやめれば、更に積もります。
煩悩も塵と同じで、一日ひとつでも二つでも取り除いていかないと、
どんどん我が身に量(かさ)を増してゆきます。

しかし、少なければ振り払うことも容易です。
意識して積極的に、日々、振り払い続けてゆくことで、
身も心も、いつの間にか、次第に軽やかになってゆくことでしょう。

「自らを度し、他を度す」 地福寺報 ~花まつり号~ 

2011-04-26 | 法話(地福寺報より)

 この度の東日本大震災では、遠く離れたこの地にいながらも、もし自分の身に同じことが起こったらと、
誰でも被災者の方たちのことを想われたことと思います。

何か自分にできることがあればと、まずは義援金に想いを託された方も多かったのではないでしょうか。

誰に頼まれたからではない、自分自身が今、そうせずにはいられなかったという想い、
自分の行いによって少しでも喜んでもらえたら、人に命令されたわけではなく、自ら湧き出る想い…
これは真心です。

「度す」とは真理に目覚めることをいいます。

禅の言葉の中にある、この「自らを度し、他を度す」とは、『自らに目覚めることは、その真実に目覚めた
行いが波及して他をも目覚めさせる』という意味です。

真実に目覚めたら、もう迷っている暇はありません。

すぐに行(ぎょう)ずることです。

自然災害だけではありません。
放射能という切実な問題も出てきています。
自然界の一部である私たち人間の生活の中で、何が最も大切なのか、本当に守らなければいけないものは何か、
私たちは、自ら目覚めるときが早急にきているようです。

仏教では、私たちが身の丈以上の生活を改め、節度ある暮らしの中に、「自らを度す」鍵があり、それは他をも
救う鍵であると、私たちに教えています。

                                     地福寺住職 安田賢悟

地福寺報<新年号>「居起万福」

2011-01-06 | 法話(地福寺報より)
居起万福(きょきまんぷく)

新年、明けましておめでとうございます。
永平寺を開かれた道元禅師は、
「各々の人体居起万福」(人々のいとなみは皆幸せである。)と説かれています。
すべてのものを一新する元旦のめでたさが、そのまま新年の仏法であるというのです。
つまり、大晦日は大晦日の仏法、元旦には元旦の仏法、それは日常のなにげない生活の有難さに気づくこと、
しいては、世のいとなみそのものがめでたい仏法であると、お示しくださっておられるのです。
また、道元禅師は
「精錬も百錬しなければどうして輝きを見ることができようか。」ともおっしゃっています。
何もしなくても時は過ぎ去ってゆくのですが、しかし、その過ぎ去る時の中で、
己の無明の鉱を百錬してこそ、そこに本来の輝ける自己が現れてくる…
その本来の自己の居起(いとなみ)こそ、万福そのものなのではないでしょうか。
心新たに、また新しい年。
さあ、出発です。





お知らせ

今年から月例坐禅会を第二日曜日に変更させていただきました。
それによって、1月の坐禅会は9日となります。
時間は今まで通り、朝7時開始です。
どうぞ宜しくお願い致します。



地福寺報<お盆号>~「地蔵盆」

2010-08-16 | 法話(地福寺報より)
     『地 蔵 盆』

 今年もまた、お盆が廻ってまいりました。そしてお盆の一週間後は地蔵盆です。
お地蔵さまがご本尊である当山・地福寺においては、毎年8月23日の地蔵盆の晩は、一年のうちで最もお寺が賑やかになる時でもあります。
地福寺の地蔵盆は当寺のお地蔵さまに心寄せる方達の集まり「宝珠会(ほうじゅかい)」の会員さん達のご支援によって運営されています。
今回は地蔵盆の後に会員さん達向けに、年一回発行している宝珠会報の昨年度版の一部をご紹介させていただきます。

    §  §  §  §  §  §

 今年も又、改めてその本筋を大切に守りながらもよりよい未来へと脱皮していくために、
「地域の中で地福寺の地蔵盆が果たす役割」というところに視点をおいたつもりです。
 4年程前から当寺では、当日お参りされた方々に祈願札をお渡しするようになりました。
希望者の方にはそれに名前を書いて頂き、その方達のお名前を読み上げてご祈祷を致ましす。
 そうしたところ、子どもたちは勿論、赤ちゃんを連れた若いご夫婦から、年配の方まで、ご祈祷を希望される方が多くなり、次第に地蔵盆当日はご家族でそれを楽しみにお参りされる方々も増えてまいりました。
 やんちゃ盛りの子ども達も皆、大人たちを見習い、可愛い膝を揃えて静かに座り、神妙に手を合わせている様子はまことに微笑ましいものです。
私達もそうであったように、時代が移り変わっても、これからの子ども達にもこのような場所をずっと残していってあげたいと思っています。
境内は今までどおり子ども達の元気な声が賑やかな集まりの場に、それと対照的に、お地蔵さまにお参りをする本堂はろうそくの明かりだけで静かに…。そして外の『杉の木地蔵尊』は、ゆらゆらとした明かりの中で幻想的に…(「宝珠会報」より)

   §  §  §  §  § 
 
 当日の法要では、お地蔵さまの功徳を説く「地蔵和讃(じぞうわさん)」をお唱えしています。
毎年のことなので自然と聞き覚えられた方もおられ、時おり住職の私と一緒にお唱えしてくださる方もおいでになったりして、堂内はお地蔵さまの法要らしい和やかな雰囲気です。
地蔵盆には、昨年は450名ほどの老若男女がお参りくださいました。
 今年も当山関係者や宝珠会の皆さまの力をお借りして、地域の中のお地蔵さまのお寺としての「地福寺・地蔵盆」を盛り上げてまいりたいと思っております。
次世代を担う子どもたちが、大人たちの真摯に拝む後ろ姿を見ることによって、心豊かに育つことを願っています。
また、我々大人達は、どの方もその大切な役割を担っているのではないでしょうか。
これからも、皆さまに安穏にお参りいただけるよう、住職を始め、地福寺の関係者一同、尚一層精進してまいりますので、どうぞよろしくお願い申し上げます。

                             地福寺住職  安田賢悟

地福寺報<「花まつり号>~托鉢

2010-04-28 | 法話(地福寺報より)
  托鉢(たくはつ)

毎月この辺(主に佐野・栄町近辺)を月に一度托鉢に回らせて頂くようになってから、いつの間にか二十五年以上が経ちました。
自分が生まれ育った寺でも師匠やまた先代の師匠が、毎月村内を托鉢に回っていたので、托鉢は私にとっては幼い頃から、ごく身近なものでした。
「財宝二施(ざいほうにせ)、功徳無量(くどくむりょう)…」
このように誦経(お経を唱えること)をし、持鈴を振り鳴らしながら、いつもの道順を回り各家の門口に立ちます。

鈴(れい)の音が聞こえると、各家から人が出てこられて、私が首から掛けている頭陀袋の中にさりげなく喜捨をしてくださいます。
この、托鉢僧の応量器(おうりょうき・ごはんを頂く器)や頭陀袋に入れてくださるお布施は、「喜捨(きしゃ)」または「報捨(ほうしゃ)」と云います。
「お布施」というと、お経をあげてもらったときに包む僧侶への報酬とかお経の謝礼というイメージを持っておられる方も多いかと思いますが、この毎月の托鉢の時の各家の皆さんの様子をご覧になれば、そうではないことに気づかれるのではないでしょうか。
お布施…この場合托鉢で云う「喜捨」は、お釈迦さまの教えを僧侶をとおして見せてもらうことによって、それに自分が気がついたことへの喜びを形に表したものということです。

また、そのような方々の尊い行いを目の当たりにさせてもらう僧侶側にとってみれば、皆さん方の中に仏を見せていただいている思いです。
お互いに合掌で出逢う真心の結びつきを、僧侶の方からは『法施』で返し、また、それに対しての謝意を皆さまから『財施』として返して頂く…
「財宝二施(ざいほうにせ)、功徳無量(くどくむりょう)…」は、心と物、法施と財施、どちらの施しもお互いに同じことで、限りない功徳であるということです。

ところで、時々
「何故、玄関に入ってこないのですか?鈴の音だけでは聞こえにくいのですが。」
というようなことを尋ねられることがあります。
托鉢の僧には、声を出して「こんにちは」と言ったり、自ら各家の戸を開けて入ってはならないという決まりがあります。
托鉢の喜捨は各々の方の自由な行為のもとで行われるものであって、必ずしなければいけないというものでもなく、また、僧侶側もそれを求めるものでもありません。
しかし、もう長年の付き合いでお互いの様子は分かっているので、中に入ってきてほしいとお願いされたお年寄りの方のところなどには、ときには勝手に玄関に入らせてもらうこともあります。
また、鈴が長い間聞こえるようにと歩く速度を抑えたり、話しかけられたら答えたりと「行乞法(ぎょうこつほう)」という托鉢のきまりにないことも、私は時には臨機応変にしています。
それもまた、地元の地域内で長年回らせてもらっている良さだと思います。

今月も小さな女の子が、私の後から付いてきて
「なにしてるん?おっちゃん、だれ?」
私はこの子がこのまま健やかに育ってゆくことを手を合わせて祈りました。
そしてその子のあどけない可愛さに、女の子からは和顔施(わがんせ)をいただきました。
托鉢はお互い様なのです。        

                         発行者   地福寺住職 安田賢悟


          (お知らせ)

  ◎花まつり法要
           日時 4月29日(木)11時より

    花御堂の中のお釈迦さまに甘茶を注ぎ掛け、
    お釈迦さまのご誕生をお祝い致します。
    お子さん連れの方も、お気軽にお参りください。
    (昼食とお抹茶を用意致しております。
     尚、甘茶をお持ち帰りの方は、なるべく容器をご持参ください。)


  ◎5月の坐禅会
           日時 5月2日(日)朝7時開始
    参加費・無料


  ◎5月の写経会
    日時 五月二日(日)午後一時から随時
    はじめに作法などを丁寧に説明いたしますので、
    初めての方も安心してご参加ください。
    参加費・五百円


  ◎今月の『お茶とお菓子と写経の時間』(女性だけの写経会)
    日時 五月二十日(木)午後一時から随時
    参加費・五百円

    ※毎月第二木曜日の『お茶とお菓子と写経の時間』ですが、
     今月だけ都合により、第三木曜日に行います。
    

   ◇坐禅会、写経会は毎月第一日曜日に行っています。
    初めての方も歓迎いたします。

 お地蔵さまのお寺  
           寶珠山 地福寺
    


謹賀新年

2010-01-01 | 法話(地福寺報より)
明けましておめでとうございます。

写真は、横浜の画家 すずきゆきお氏が描かれた油絵のお地蔵様です。
100号もあります。
優しい色合いです。
元日の挨拶参りの方たちには、このお地蔵様の絵の前でお抹茶を頂いてもらいます。


                   <平成二十二年地福寺報・新年号より>

     万邦和楽(ばんぽうわらく)

新年に世の中の平和と幸福、仏教の興隆などを願って各寺院、宗派を問わず行われるのが年頭の法要 『修正会』 です。
「修正」とは過ちをあらため、正しきを修めるということなので、
『修正会』は年頭にあたって、去っていった年の反省をし、新たな年の決意をする新年初頭の法要なのです。
当寺でも、日付けが一月一日になる午前零時から、『大般若経』を読む修正会法要を行っております。
『大般若経』は全六百巻から成る大経典です。
さすがに全巻唱えるというわけにはいかないので、六百巻あるうちの般若心経の元ともなる五百七十八巻目の経典、理趣分経をお唱えしております。
荒れ果てた人々の魂を救済したいという熱意を持ち、仏教の経典をインドに求て、灼熱のシルクロードや雪山を越え、十八年にも及ぶ長い過酷な旅を行った三蔵師。
私たち僧侶は玄奘三蔵法師のその徳に感謝して経典を唱えます。
「万邦和楽」とは字のとおり読めば、全ての国が和やかに楽しく、ということになるのでしょう。では「世界平和」と同じ意味なのかと思えますが、仏教でいう「万邦」とは、全てあらゆる方角に発するところという意味。
勿論、世界平和はいうまでもありませんが。つまり、「万邦和楽」は、世の中の理(ことわり)全てが循環よく丸く治まりますようにということです。
『修正会』でも、お経の最後に
『冀い願う所は、正法興隆、国土安穏、万邦和楽、諸縁吉祥ならんことを。』
とお唱えいたします。

このとき仏前に供えられる「お札」は、法要後、家庭の幸福や平安などの祈りが込められた御符(ごふ)として、檀信徒に配られます。
当、地福寺は「火除けのお札」をお配りしております。このお札は当山地福寺の先々代住職・小出牧宗和尚の師匠で、能登から今の鶴見に総本山・總持寺(曹洞宗は永平寺と總持寺の両本山)をご移東された石川素童禅師のお筆によるものです。
「お札」は松の内にお寺へお参りにされた方皆さんにお配り致しております。

元日の午前一時前、『修正会』法要が終わり、参拝者の皆さんと和やかに新年の挨拶を交わし合う…
真に「万邦和楽」。
今年も『諸縁吉祥ならんことを。』




今年の行持予定(一般参拝者向け)
一月二十四日(日)   初地蔵
四月二十九日(木)   花まつり
八月  十一日(水)   盆施食会
八月二十三日(月) 地蔵盆

○坐禅会
毎月第一日曜日・午前七時~
○写経会
毎月第一日曜日・午後一時~
○女性だけの写経会(お茶とお菓子と写経の時間)
毎月第ニ木曜日・午後一時~


        §お知らせ§

   今年の第一回目の坐禅会と写経会は一月三日、
   『お茶とお菓子と写経の時間』は一月十四日です。
   心新たに、新年の坐禅や写経も良いものです。
   どうぞ、ご参加ください。


地福寺住職 安田賢悟

地福報<お盆号>より 無絃の琴

2009-08-01 | 法話(地福寺報より)
  『無絃(むげん)の琴(こと)』

 昔、中国での話。雪峰山の山麓に庵を結んで、何年も髪も剃らずに坐禅をして暮らしている僧がいました。
そこに一人の僧が訪ねてきて、
「如何なるか是れ祖師西来の意」
(あなたは達磨がはるばるインドから中国ヘやってこられ、私たちに禅を伝えてくださった意味を如何思われますか?)
と尋ねました。
丁度、自ら木で作った柄杓で水を汲んで飲んでいたところだった山麓の僧は、
「渓深くして杓柄長し」
(谷が深ければ、その水を汲む柄杓の柄も自ずと長いのだという。これが達磨大師の伝えられた仏法である。)
と云われました。
雪峰義存禅師の弟子だったその僧は寺に帰り、禅師にそのことを申しあげたところ、禅師は
「なるほど、すばらしい人のようだが、まだ、よくはわからん。私が直接会って、その真意を確かめてこよう。」
禅師は待者に剃刀を持たせ、麓の僧を訪ねられて、
「道得ならば汝が頭を剃らじ。」
(私の質問に正しく答えられたならば、その頭を剃るようなことはしない。)
もし、それができなかったら、長年剃らずにいたそのぼうぼうの頭を剃ってしまうぞというのです。
それを聞いた麓の僧は、自分の頭を水で洗って禅師の前に静かに座られました。
その様子を見て、禅師は僧の頭を剃られたというのです。

 さて、この僧は、達磨大師の法を云い得ることができなかったのか、それとも。
道元禅師はお二人の出会いのことを
「このお二人の出会いの行為と、その意を知ろうと思うならば、松風が無絃の琴の調べを奏でるのを聞くことである。」
とおっしゃっておられます。
『松風が無絃の琴の調べを奏でる』…絃のない琴でも、美しい調べを聞くことができるというのです。
柄杓の柄が長いということは、谷は深いかもしれないと最初から心配する人がいるかもしれません。
また、最初からこの柄杓の柄では深い谷の水は汲めないと思ってしまう人もいるかもしれません。
谷が深ければ、只、柄の長い柄杓を使えばよく、それが丁度谷に届いたなら、深い谷にある水も汲むことができる、「ぴたり」とした柄杓と水との出合いは、自ら作ったそれに合う柄杓からうまれるのです。
人と人との出会いも、また、然り。
忙しさに追われる毎日、私たちはややもすると目に見えるものしか見えないと思いがちです。
しかしお盆には、お迎えすればちゃんと家にご先祖さまもお帰りくださるように、目には映らなくても、見ようとすれば見えるものもあるのです。


発行者   地福寺住職 安田賢悟


    ~お知らせ~
明日、2日は月例の坐禅会があります。
朝7時からです。
また、午後1時からは写経会です。。
どちらも、どなたでも参加できます。
どうぞお越しください。



寺報≪平成二十一年花祭り号≫より

2009-04-23 | 法話(地福寺報より)
4月8日の『花まつり(釈迦降誕会・灌仏会(かんぶつえ))法要』を
地福寺では、毎年4月29日に行っております。
暖かくなると同時に、いろいろな花が咲き、モミジも、もう若葉がだいぶ大きくなってきました。
草たちも、到る所に命をつなごうと一所懸命です。


 『安楽の法門』

新緑の境内。門前を通られた方が、
「気持ちがよさそうだな。境内に入って木の下で少し休んで行こうか。」
と立ち寄ってもらえたら、お寺はそれだけでもあなたのために、その役割を果たすことになります。
もちろんそれで一休みされた方がたとえひとときでも、心に安らぎを得られたならば、それはそれでよいのですが、更にもう一歩進んでみて、お寺の中で休んでみられては如何でしょうか。
 おいしいよ、どうぞ。と勧めてもらった果物があったとします。
あなたはその果物を味わうために、どうされますか?
本でその果物の色や形、原産地や栄養価などを丹念に調べても、それは単に知識としてその果物の種類を知っただけのことです。
口に入れなければ、もちろんその果物のおいしさを知ることはできませんね。
おいしいよ、今が食べ頃ですよと勧めてくれたときに、ただ素直に口に入れてみれば、そのおいしさは、簡単にわかります。
なんのことはない、当たり前のことです。

お釈迦様はこうおっしゃっておられます。
「仏法を聞き、仏法を思うことは、門の外にいるようなものであるが、坐禅をすることは、まっすぐ家に入りくつろいで坐っているようなものである。」
この場合、坐禅とは「仏の行い」のことです。
誰でも自分の家の門の外にばかりいたくはないでしょう。それでは自分の家ではなくなってしまいます。
自分の家ではやはりゆっくりと休みたい、くつろげるから自分の家なのです。
見聞きするだけ、知識だけでは、仏法を自分のものとして捉えることはできないということです。
仏法に叶う行いをして、はじめて仏法の世界に入ることができるのです。

家の人が毎朝仏壇にお参りしている姿を見、いつもお寺やご先祖さまを身近に思う環境で育った幼児がいるとします。
その子はまだ一回も仏教書を読んだことがありません。
しかし、高度の仏教書を読んで知識を得ても、そのありがたい仏法を自ら行うことをしたことがない大人よりは、その幼児の方がずっと仏法によっての安楽を体験しているのではないでしょうか。

 <たとい七歳の女流(にょりゅう)なりとも
       即ち四衆(ししゅ)の導師なり>

お寺を、あなた自身の仏法の家を見つける所と思っていただければ幸いかと存じます。

上記の写真は、月参りで寄せていただくお宅のこどもさんが、覚えたての字で私に渡してくれた手紙です。
こちらの方こそ、『ありがとう。』


           地福寺住職 安田賢悟

あけましておめでとうございます。<寺報21年新年号より>

2009-01-01 | 法話(地福寺報より)
<ブッタのことば>

 目に見えるものでも   見えないものでも
 遠くに住むものでも    近くに住むものでも
 すでに生まれたものでも   これから生まれようとするものでも
 一切の生きとし生けるものは  幸せであれ


  

言葉で思いを伝えるとき、分かってもらおうとすれば、誰でもより効果的な言い回し方をするでしょう。
否定的なものから肯定的…
「ないもの」が「あるもの」より先にきたほうが、一般的には効果的なのではないか…

しかし、ブッタ(お釈迦様)は「目に見えるものでも、見えないものでも・・・」とすんなりとおっしゃっておられます。
あえてそうしたのではなく、始めからブッタには、どちらが優位、下位という区別がなく、これがブッタの飾りのないご意思なのでしょう。

「生まれる」とは母から生まれることももちろんそうなのですが、自分が真実に目覚めた世界に生まれかわるということでもあります。

  「これから生まれようとするものでも」

ならば、その意思を持つことによって、私たちは今日、今からでもすぐに「生まれる」ことができ、ブッタの願いのように、幸せになることができるのです。


また、新たな年が始まりました。
みんなで一緒に幸せになりましょう。


 平成二十一年元旦 地福寺住職 安田賢悟



「心の洗たく」

2008-08-09 | 法話(地福寺報より)
                 <『地副寺報』平成20年お盆号より>


 このように暑い日が続くと、日に何回も顔を洗ったり衣類を替えたり、私たちは少しでも体を気持ちよく保とうと、いろいろなことをします。
手や顔は洗うと汚れが取れたのがよくわかるし、衣類などもこまめに洗濯していれば、さっぱりとした着心地ですね。
反対にあまり着ていないものでも長い間洗わないでおくと、なんとなく薄汚れたような気がします。
私たちの心もそれと同じで、時々洗たくをしないと、汚れが重なっていって取れなくなってしまうのです。
それはもちろん物理的な事ではないので、ここが汚れているとか自分ではよくわからないものだし、ましてや、それを取り出して、ごしごし洗うこともできません。
では、心の洗たくはどのようにしたらできるものなのでしょう。
 仏教では心の洗たくのことを「懺悔(さんげ)」といいます。
懺悔をするということは、自分で自分の心を見つめるということです。
見つめるといっても、もちろん
「あの人はだめだったけれど私はそんなことはなかった」
などと他の人を引き合いにだすのではなく、自分はどうなのかと自分自身を自分で見つめて「反省する」ということです。
『修証(しゅうしょう)儀(ぎ)』というお経の第二章に『懺悔(さんげ)滅罪(めつざい)』という章があります。その後半の、
我昔所造諸悪業…
(がしょくしょぞうしょあくごう)…は
私がつくった諸々の悪業(むさぼり・いかり・おろかのことで、貪瞋癡という)は……から始まるのですが、そこには、
「その悪業はすべて我が身から生じている。そのことに気づき懺悔すれば、必ず仏祖は目にみえぬお力を貸してくださる。自分をさらけ出し、投げ出すまごころの力は、貪瞋癡(とんじんち)の妄想を消滅させ、清浄なる心境に至らしめてくれる。懺悔こそ新生の第一歩である」
と示されてあります。
言うのは簡単ですが、なかなか自分のことは分からないので、私も難しいことだとは思っています。
しかし、しようと思いたったときから、すでにもう、洗たくは始まっているのかもしれません。
さっぱりと洗って、毎日気持ちのよい生活をおくりたいものです。

ちょど、いい詩を見つけました。石垣りんさんの詩です。
  
      洗たく物
       
                    石垣りん

  私どもは身につけたものを
  洗っては干し
  洗っては干しました。
  そして少しでも身ぎれいに暮らそうといたします。
  ということは
  どうしようもなくまわりを汚してしまう
  生きているいのちの罪業のようなものを
  すすぎ、乾かし、折りたたんでは
  取り出すことでした。
  雨の晴れ間に
  白いものがひるがえっています。
  あれはおこないです。
  ごく日常的なことです。
  あの旗の下にニンゲンという国があります。
  弱い小さな国です。

  
 
発行者  《曹洞宗》地福寺住職 安田賢悟 
      

穀雨(こくう)

2008-04-19 | 法話(地福寺報より)
        ☆【地福寺報・平成20年花祭り号】より  

 今年も桜がもう少し、もってもらいたいと思う頃に
雨が降ってしまい、名残り惜しい思いを
された方も多かったのではないでしょうか。

二十四節気の「穀雨」は、今年は4月20日。
 地面に蒔いた種が、春の暖かい雨に潤わされて、
百穀の新しい芽がすくすくと元気に育つよう、
天が慈雨を降らせるということなのだそうです。

 二千六百年前、お釈迦さまがお生まれになったときに、
降りそそがれた、やさしくて甘露な雨というのも、
そのような雨だったのかもしれません。

 春になるにつれて、だんだん暖かくなってきたり、
秋になるにつれてあの暑さはどこにいったのかと思えるほど涼しくなったり、
地球の傾きのおかげで、太陽のあたり具合によって(地域によって多い少ないはあるにしても)、
温度は変動して、常に新しい季節へと変化し、移り変わってゆきます。

 はるか昔から、海には毎日二回満潮と干潮があって、
月ごとに大潮と小潮がやってくる…
これらは皆、一月ごとに廻ってくる新月のおかげです。
 私たち人間も含めて、すべての動物たちは皆、
天がもたらしてくれるこの不思議な変化に合わせて成長したり、
滅したりして世代交代を繰り返して新しくなっているのです。

 自坊に、今年は近所の工務店さんから頂いた
「金子みすず」のカレンダーがかけてあります。
今月のページの詩を紹介します

     四月
  
    新しい御本、
    新しい鞄に。

    新しい葉っぱ、
    新しい枝に。

    新しいお日様
    新しい空に。

    新しい四月、
    うれしい四月。       <「金子みすず」詩集より>
 

朝朝日東出(ちょうちょうひはひんがしよりいづ)

2008-02-08 | 法話(地福寺報より)
 道元禅師が中国から帰国され、京の深草の興聖寺に法堂(本堂)を建てられ、そこでの初めての説法で「私は多くの道場を廻ってみたわけではないが、天童山の如浄禅師にお会いして、はっきりと眼は横に鼻は縦にあることを知って、これこそお釈迦様の教えはここにあると会得して、何も持たずに空手で故国に帰ってきたのである」とおっしゃいました。
 「眼横鼻直」(がんのうびちょく)、ごくあたりまえのことなのですが、私たちはそうはわかっているような気がしながらも、眼が縦に鼻が横になっている妖怪やのっぺらぼうの化け物が居やしないかと恐れつつ迷いつつ暮らしているのではないでしょうか。
 憶測であれやこれやといくら考えてみても、実は本当のところは、自分が気づくずっと以前から、真実は自分の目の前に静かに坐っているのです。
 それを道元禅師は「朝朝日は東より出、夜夜月は西に沈む」と説かれております。冬が来れば春が来、日が沈めば翌朝また陽は昇るように、あるがままに、なすべきことをなし、ゆくがままに修してゆくならば、なにもあらためて『仏教は』などと声高に言う必要もないということなのでしょう。
 

百不当一老なり(地福寺報より)

2007-11-01 | 法話(地福寺報より)


 この頃のプロスポーツ界は以前にもまして若年層、特に十代で花形という人も多くなりました。スケート、野球、ゴルフ…。熟年層のはつらつとした姿も頼もしいのですが、若者が元気というのはいろいろ暗いニュースが多い中、やはりほっといたします。ゴルフなどボールを思うような位置に飛ばしたりするのは経験のない私がみても、さぞ難しいことだろうということくらいはわかります。プロの方たちだって、始めた頃は百回、千回と打っても一回も自分が良しとする一打は打てなかったことでしょう。しかし何回失敗を重ねても、その一打一打を真剣に打ち続けていると、その次の一打は快心の一打となるかもしれません。
『今の一当は過去の百不当の力なり、
           百不当一老なり』
 道元禅師『正法眼蔵』の一節です。禅師が本師を求めて宋の天童山にのぼられたときのことです。ご自身が心からついて行こうとする師を探し求めたのですが、なかなか思いがかないませんでした。各地を何年も行脚し、それでも出会うことができず、もうあきらめて帰国しようとまた天童山の近くまで戻ってきた時、一人のお坊さんに
「今度、天童山のご住職になられた方に帰国する前に一度お会いになってみては」
と教えてもらい、そこでやっと道元様が生涯、本師と仰ぐこととなる如浄禅師に出会うことができたのです。
 思う位置にボールを飛ばせるということも、それは「数打ては当たる」のまぐれの一当ではなく、今までの積み重ねられた精進の結果の一当であり、円熟(老)の一当なのだといえるでしょう。
 私たちは老というと老人…等、お歳を召した方という意味で使いますが、本来『老』は年数を重ねた、というよりは経験を積み重ね円熟したという意味があるそうです。道元様は「百不当一当なり」というべきところを、あえて「一老なり」と示されました。『老』と呼ばれるのはなによりの尊称といえるでしょう。
 各界で活躍している若年層の名人や名選手なども、日々、真摯な態度で臨んだ練習が結果として表れたのでしょうから、その世界では、やはり『一老』といえるのではないでしょうか。