10/25(水)『暴力論ノート~非暴力直接行動とは何か』(向井孝著)を読んだ。10/9(月)E-mailにて「黒 La Nigreco(ラ・ニグレーツォ)」へ 問い合わせ、10/11(水)在庫有りとの返事があり、10/12(木)郵便振替にて¥1,000を送金した。10/16(月)着。‘A Note on Contemporary Violence’
-- What is Non-Violent Direct Action?
この本は1970年『現代暴力論ノート――非暴力直接行動とは何か』(自由連合社)(ガリ版刷り・B5100頁)の新訂版である。当時(36年前)、ガリ版刷りを読んだが、今はどこにしまったか分からない。著者は2003年8月6日(水)に亡くなっている。私は1969年、返還前の沖縄へ行く直前の、高校2年生の時に姫路市の向井孝氏宅で会ったことがある。自分なりに纏めてみた。
人民の抵抗は、かならず支配者の暴力的抑圧をまぬがれえない。こうした支配権力に対する抗争は、ついに暴力的対決へとすすむ。「テロ」に対し、圧倒的装備を駆使して反テロ戦争を仕掛ける大きな政府と戦争国家群の出現。それら戦禍をつくり出す暴力機構としての国家とどう対抗するかが問われている。(7頁)
1989年以降、東欧諸国家やソ連があっけなく崩壊することで遺した二○世紀の教訓-社会主義や民主主義を標榜しながらの、しかも、暴力に導かれた国家や組織は、自己をも恐怖そのものに権力化する。その暴力的強権は、必ず裏切りの革命をもたらすものでしかない-を、いっそう切実な歴史としつつ、改めて新しい私たちの闘い-非暴力直接行動-を見出さなければならない。(7~8頁)
非暴力の思想は、この国では「無抵抗」「不服従主義」と訳され、殆ど宗教的・信条的なものとして、長い間その積極的意味をぼかされてきた。このノートは、安易に語られだしている非暴力、または非暴力直接行動の内容の誤解に対して、アナキズムの立場から、とくに非暴力と直接行動を分かちがたい一体のものとして、結合・把握しようとするものである。(8~9頁)
本来、暴力も非暴力もともに、個人の生命力、ちからである。生命力は、暴力と非暴力という両極に向かってあらわれる。子供が大人になるようなかたちでこの二つの面の間を揺れ動きながら、自然に個人をつくり、社会をつくっていく。(10頁)
暴力とは-
①物理的圧力の行使である。
②加害の意思の発動である。
③自己の立場の強制、他者存在の否定、対話の拒否である。
以上の三つの要件をそなえるとき、それは暴力そのものである。
その一つでも欠けるとき、それは暴力的と云われていても、決して暴力ではない。(11頁~12頁)
個人暴力と社会暴力との質的区分を明らかにしなければならない。暴力の結果は、その行使、非行使の区分を問わず、すべて個人としての人間に、収斂〔しゅうれん〕還元する。(12頁)
生命力と暴力、暴力と暴力的、個人暴力と社会(組織)暴力、これらをしばしば混乱して取り扱っている。個人暴力は殆ど社会的に問題となるものではない。個人暴力は反社会的なため孤立し、支持・同調者を得ることができない。最終的には疎外され、社会生活者としての自分の日常を持続できず、必ず自己破滅前の一時的な現象たらざるをえないのである。現実社会での個人暴力は支配の権威を失墜させ、その存在基盤を危うくすることにおいて、すぐ警察力が発動され、違法として取り締まられていく。(13頁)
いまここで私たちが対象にしようとするものは、個人暴力とはまったく質を異にした、擬似非暴力体制として存在する社会暴力装置についてである。その社会暴力は、私たちの身辺日常において暴力として発言せず、かえって逆に社会秩序として、一見私たちの日常を守って、暴力に対して制圧者の姿をとっている。たとえば、警察・軍隊としての国家の暴力装置は、一般市民にとって合法であり、秩序を守る組織に他ならないものとしてうつる。現代における暴力の意味と内容を正しくとらえるためには、この擬似化されたエセ非暴力体制としての社会暴力、すなわち擬似非暴力体制を衝くことから出発するしかないだろう。(15頁)
ガンジーやルーサー・キングが具体的な直接行動の先頭に立つことで非暴力の意味の消極性を一変させることになった。暴力に対抗するちからとしての非暴力の発見-無抵抗・不服従という直接行動の創出-である。(17頁)
非暴力について話すとき、決まって出てくる反問がある。もし恋人が襲われたときどうするか。第三者的立場で、その事態に当面せずして当事者的立場を想定して去就にまどい、暴力か非暴力か、その是非善意を論じるのはまったく無意味である。そのような設定の仕方は、第一にその状況を前後との関係から切り離して提出している。第二に、それはめったにありえない希有の場合を一般例としていることにおいて、問題とならないだろう。(18~19頁)
今日、この地球上に住むすべての人間は、国民という概念で分類され、登録され、支配されている。私たち自身、この支配のレッテルを殆ど先天的運命的なものとして受け取り、自らもそれを呼称して怪しまない。だが、国民という概念を成立させている根拠は、その集団の中にまったく存在しない。同じく人間の区分概念である人類は、その分類根拠として、生物学がある。また、民族という概念は、文化人類学にその根拠を持っている。しかし国民は、国家をその根拠として成立するにもかかわらず、国家はその構成者たる国民の内実性とはまったく無縁なものとして、もっぱら支配者同士の間の関係における外在的名称として成立しているだけである。(20頁)
国家が国家でありうるのは、第一義的には、他国との関係-他の諸国家よりの承認-においてである。その基本用件としては、
(イ)一定の領土を持つ
(ロ)その領土内で生活している人間に対し、他の権力の干渉を許さぬ態勢がある。
(ハ)そして排他的支配を行う政治権力が存在している。
-ということにすぎない。すなわち国家は、単に政治的社会的結合のひとつの形態にすぎず、あるいは巨大な政治団体でしかないものなのである。国家は常に支配階級の権力機構そのものとしてあった。その主権を握った権力者の支配と利益のために先ず存在した。平常時、国民の保護者を擬装していても、その最後において、支配者たちが、自己の保身のためには国すら売り、国民を裏切って逃亡するという幾多の歴史は、何よりもそのことを明らかにしている。(20~21頁)
ブルジョア国家の止揚という論理で、単にその裏返しでしかないにもかかわらず、プロレタリア国家という概念があった。国家の支配権力が、ブルジョアからプロレタリアートに移行する。それは奴隷制国家から封建国家へ、そして資本主義国家へと移ってきた最終のものとしてあらわれる、と。しかし、二○世紀社会主義国の行方が現実で示すように、そこでは国家の死滅の名のもとに、権力の最大の強化が行われ、しかもそれが人民の国家、人民の権力の名目ゆえに、叛逆者は容赦なく抹殺される。まさに国家体制として完璧な沈黙と死の体制をつくりあげることで、自ら崩壊の途を歩んだ。(21頁)
国家である限り、自由や人権をふりかざし民主主義を唱えようとも、さらに完璧な民主主義という擬似非暴力体制を成立させつつ、法のもとに暴力を行使する。(22頁)
戦争は非人間的日々であり、破壊と死だけの明日を待つことが、生きていることだった。戦争は絶対にしない。そのような戦争を、ある日突然やり始め、同様にある日突然、自己保身のため休止を宣言したのが天皇であり国家であった。(23頁)
今、アメリカ、その他の国が保有する核兵器の総量は、地球全人口を何回殺すことができるのだろうか。日本でいえば五○余の原子力発電所がある。当然戦争となればミサイルがそれを狙う。その一発で100キロ四方が死の町となることはチェルノブイリの事故が証明している。断固として非戦である。非戦の立場以外にはありえない。(23~24頁)
(イ)国家は存在の根拠において、人民の非暴力的日常の営為に依拠している。
(ロ)にもかかわらず、社会的日常秩序は、権力によってこそ維持される-とすりかえて、その<擬似非暴力体制>を法制化し、機構化することで日常の<擬似非暴力状況>を統治の結果として誇示する。
(ハ)その体制を維持し完璧に守るという名目によって、さらに自己の権力を守るための暴力装置を増大し、独占する。
(ニ)それは人民本来の非暴力日常の意味への覚醒を阻止し、それ自身の社会的な自己管理能力の自覚・発現を阻止する策として出てきた議会制民主主義-投票と選挙-として人民みずからの意思による自縄自縛〔じじょうじばく〕的な機構をつくる。
つまり、国家の国民支配は、日常において非暴力的仮装を完璧化することにおいて、いまや民主主義と称し「反テロ」を主張する国家体制群において貫徹されている。(29~30頁)
反テロ戦争は、いよいよテロを生み出す。そして、それへの闘いとして、テロを阻止するものとして、いまや「非戦」は、非暴力直接行動の焦点となってきていると云わねばならない。(43頁)
直接行動と暴力とは何ら関係はない。直接行動とは、他のものを通さず、自分のちからで、自分の必要なものを求める行動、である。私たちが日常での必要物を、間接的にでなく、じかに入手するために働きかける行為である。私たちが日常生活において必要とするもの、たとえば生活物資、それを入手するとは生産であり、その行動とは労働である。(44頁)
直接行動の本質は
①ものをつくり、そのためにはたらくことである。この生産と労働こそは人類の歴史を通じて、人民のみが背負い、果たしてきたところの、人民のみがなしうる人民の最大のちからである。非暴力直接行動とは、非暴力状況の日常があってこその生産と労働である。
②生産と労働の結果の享受である。
③日常生活を楽しむ創造活動であり、遊戯である。直接行動とは、与えられるものを享受する娯楽だけでなく、人民みずからがつくり出す創造の行為だからである。(44~45頁)
非暴力は、何よりも直接行動と結びつくことで、はじめて可視化され、ちからとして私たちの目にあらわれるのである。もっと明確にいうならば、私たちと隣人や仲間との交流関係、あるいは自治会や町内会のようなものも含めて、それは自治管理あるいは社会生活ということだろう。(46頁)
私たちは有史以来現代まで、その自らが作り出してきたちからを自覚することなく、むしろ権力の支配を支えることでさまざまな曲折を辿ってきたというほかない。非暴力が生産労働であるとき、それが自治管理に結びつくことは当然である。非暴力社会とは、自治管理と結びついていないとき、それは、賃金労働、奴隷労働でしかない。たとえそれが生産を行っていても擬似的な生産行為というしかない。そしてそれこそが国家の支配する擬似非暴力体制の現実なのである。(46~47頁)
直接行動とは、
①私たち自らの手によって、私たちの必要とするものを勝ち取ることである。直接行動が、生産労働そのものであることによって、生産関係の内実を明らかにする。
②私たちが自己の個人責任において、自ら行為することである。直接行動は個人責任を明らかにした、一人のひとりの主体においてある。云うならばそれは、自治管理でもある。
③合法・非合法を超えた生産行為である。直接行動に対して、法律がその強健を振るえば振るうほど、それは法律そのものの不正義を証明し、自らの墓穴を掘ることとなる。合法・非合法は、私たちにとって戦術的考慮以上のものではない。
④政治と呼ばれている間接手段を一切否定し、排除する。直接行動は、政治が無用の介在物であるのみか、搾取の方法としてあることを明らかにする。
⑤人民の営みであり、それそのままで生活と密着した闘いである。人民にとって直接行動とは、他から物を奪い取ることなのではなく、自らのものをつくること、そのための妨害をものともしないことである。直接行動は、妨害に対して実力行使としての生活の意味を明らかにする。
⑥日々の生活-生産と関係して自立的に日々の営みを管理することである。(47~50頁)
このように直接行動は、人民の属性としての非暴力と結びつき、それがすぐれて能動的なちからである意味を明らかにする。(50頁)
現在、私たちがそれと思い込んでいる生産と労働は、実は自己の労働力を商品として資本に売ることであるにすぎない。そのようにして得た代金を仲介にして、非直接的にしか自己の必要なものを得ることができないことにおいて、私たちの生産労働は、明らかに擬似化している。言い換えれば、直接行動は、本来の非暴力状況のもとにおいてのみそうであり、エセ非暴力体制の下では、それに照応して擬似生産労働でしかありえない。(50~51頁)
それと同じように、現体制のなかでの非暴力は、すべて擬似矮小化されて、擬似直接行動か、権力者流の暴力行動か、しかありえないということである。このようにすべてを体制内にからめとられた状況のもとで行われる私たちの闘いは、正確に云えば直接行動そのものとしてでなく、まず非暴力直接行動の回復・奪還の闘いである。私たち自身のための生産労働を取り戻すための、より厳密に云えば非暴力直接行動「奪還」の闘いとなるであろう。それは、自己を労働疎外から取り戻し、擬似生産労働を自己のためのものとするための闘いである。(51頁)
…………………………(草稿中・続く)…………………………
『暴力論ノート――非暴力直接行動とは何か』向井 孝著/解説 水田ふう
B6判 104ページ、2002.12.14完成
【送料込1冊 1,000円】
【郵便振替】口座名称:水田ふう/口座番号:00840-9-34502
【問合せ】lanigreco@yahoo.co.jp
黒 La Nigreco :http://www.ne.jp/asahi/anarchy/saluton/
2002年の遺言『暴力論ノート~非暴力直接行動とは何か』刊行によせて-向井 孝:http://www.ne.jp/asahi/anarchy/saluton/topics/perforto1.htm
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11/01(水) 188 pv 120 ip -位(665327 BLOG中)
10/31(火) 228 pv 112 ip -位(664729 BLOG中)
10/30(月) 410 pv 119 ip -位(664195 BLOG中)
10/29(日) 382 pv 142 ip -位(663624 BLOG中)
-- What is Non-Violent Direct Action?
この本は1970年『現代暴力論ノート――非暴力直接行動とは何か』(自由連合社)(ガリ版刷り・B5100頁)の新訂版である。当時(36年前)、ガリ版刷りを読んだが、今はどこにしまったか分からない。著者は2003年8月6日(水)に亡くなっている。私は1969年、返還前の沖縄へ行く直前の、高校2年生の時に姫路市の向井孝氏宅で会ったことがある。自分なりに纏めてみた。
人民の抵抗は、かならず支配者の暴力的抑圧をまぬがれえない。こうした支配権力に対する抗争は、ついに暴力的対決へとすすむ。「テロ」に対し、圧倒的装備を駆使して反テロ戦争を仕掛ける大きな政府と戦争国家群の出現。それら戦禍をつくり出す暴力機構としての国家とどう対抗するかが問われている。(7頁)
1989年以降、東欧諸国家やソ連があっけなく崩壊することで遺した二○世紀の教訓-社会主義や民主主義を標榜しながらの、しかも、暴力に導かれた国家や組織は、自己をも恐怖そのものに権力化する。その暴力的強権は、必ず裏切りの革命をもたらすものでしかない-を、いっそう切実な歴史としつつ、改めて新しい私たちの闘い-非暴力直接行動-を見出さなければならない。(7~8頁)
非暴力の思想は、この国では「無抵抗」「不服従主義」と訳され、殆ど宗教的・信条的なものとして、長い間その積極的意味をぼかされてきた。このノートは、安易に語られだしている非暴力、または非暴力直接行動の内容の誤解に対して、アナキズムの立場から、とくに非暴力と直接行動を分かちがたい一体のものとして、結合・把握しようとするものである。(8~9頁)
本来、暴力も非暴力もともに、個人の生命力、ちからである。生命力は、暴力と非暴力という両極に向かってあらわれる。子供が大人になるようなかたちでこの二つの面の間を揺れ動きながら、自然に個人をつくり、社会をつくっていく。(10頁)
暴力とは-
①物理的圧力の行使である。
②加害の意思の発動である。
③自己の立場の強制、他者存在の否定、対話の拒否である。
以上の三つの要件をそなえるとき、それは暴力そのものである。
その一つでも欠けるとき、それは暴力的と云われていても、決して暴力ではない。(11頁~12頁)
個人暴力と社会暴力との質的区分を明らかにしなければならない。暴力の結果は、その行使、非行使の区分を問わず、すべて個人としての人間に、収斂〔しゅうれん〕還元する。(12頁)
生命力と暴力、暴力と暴力的、個人暴力と社会(組織)暴力、これらをしばしば混乱して取り扱っている。個人暴力は殆ど社会的に問題となるものではない。個人暴力は反社会的なため孤立し、支持・同調者を得ることができない。最終的には疎外され、社会生活者としての自分の日常を持続できず、必ず自己破滅前の一時的な現象たらざるをえないのである。現実社会での個人暴力は支配の権威を失墜させ、その存在基盤を危うくすることにおいて、すぐ警察力が発動され、違法として取り締まられていく。(13頁)
いまここで私たちが対象にしようとするものは、個人暴力とはまったく質を異にした、擬似非暴力体制として存在する社会暴力装置についてである。その社会暴力は、私たちの身辺日常において暴力として発言せず、かえって逆に社会秩序として、一見私たちの日常を守って、暴力に対して制圧者の姿をとっている。たとえば、警察・軍隊としての国家の暴力装置は、一般市民にとって合法であり、秩序を守る組織に他ならないものとしてうつる。現代における暴力の意味と内容を正しくとらえるためには、この擬似化されたエセ非暴力体制としての社会暴力、すなわち擬似非暴力体制を衝くことから出発するしかないだろう。(15頁)
ガンジーやルーサー・キングが具体的な直接行動の先頭に立つことで非暴力の意味の消極性を一変させることになった。暴力に対抗するちからとしての非暴力の発見-無抵抗・不服従という直接行動の創出-である。(17頁)
非暴力について話すとき、決まって出てくる反問がある。もし恋人が襲われたときどうするか。第三者的立場で、その事態に当面せずして当事者的立場を想定して去就にまどい、暴力か非暴力か、その是非善意を論じるのはまったく無意味である。そのような設定の仕方は、第一にその状況を前後との関係から切り離して提出している。第二に、それはめったにありえない希有の場合を一般例としていることにおいて、問題とならないだろう。(18~19頁)
今日、この地球上に住むすべての人間は、国民という概念で分類され、登録され、支配されている。私たち自身、この支配のレッテルを殆ど先天的運命的なものとして受け取り、自らもそれを呼称して怪しまない。だが、国民という概念を成立させている根拠は、その集団の中にまったく存在しない。同じく人間の区分概念である人類は、その分類根拠として、生物学がある。また、民族という概念は、文化人類学にその根拠を持っている。しかし国民は、国家をその根拠として成立するにもかかわらず、国家はその構成者たる国民の内実性とはまったく無縁なものとして、もっぱら支配者同士の間の関係における外在的名称として成立しているだけである。(20頁)
国家が国家でありうるのは、第一義的には、他国との関係-他の諸国家よりの承認-においてである。その基本用件としては、
(イ)一定の領土を持つ
(ロ)その領土内で生活している人間に対し、他の権力の干渉を許さぬ態勢がある。
(ハ)そして排他的支配を行う政治権力が存在している。
-ということにすぎない。すなわち国家は、単に政治的社会的結合のひとつの形態にすぎず、あるいは巨大な政治団体でしかないものなのである。国家は常に支配階級の権力機構そのものとしてあった。その主権を握った権力者の支配と利益のために先ず存在した。平常時、国民の保護者を擬装していても、その最後において、支配者たちが、自己の保身のためには国すら売り、国民を裏切って逃亡するという幾多の歴史は、何よりもそのことを明らかにしている。(20~21頁)
ブルジョア国家の止揚という論理で、単にその裏返しでしかないにもかかわらず、プロレタリア国家という概念があった。国家の支配権力が、ブルジョアからプロレタリアートに移行する。それは奴隷制国家から封建国家へ、そして資本主義国家へと移ってきた最終のものとしてあらわれる、と。しかし、二○世紀社会主義国の行方が現実で示すように、そこでは国家の死滅の名のもとに、権力の最大の強化が行われ、しかもそれが人民の国家、人民の権力の名目ゆえに、叛逆者は容赦なく抹殺される。まさに国家体制として完璧な沈黙と死の体制をつくりあげることで、自ら崩壊の途を歩んだ。(21頁)
国家である限り、自由や人権をふりかざし民主主義を唱えようとも、さらに完璧な民主主義という擬似非暴力体制を成立させつつ、法のもとに暴力を行使する。(22頁)
戦争は非人間的日々であり、破壊と死だけの明日を待つことが、生きていることだった。戦争は絶対にしない。そのような戦争を、ある日突然やり始め、同様にある日突然、自己保身のため休止を宣言したのが天皇であり国家であった。(23頁)
今、アメリカ、その他の国が保有する核兵器の総量は、地球全人口を何回殺すことができるのだろうか。日本でいえば五○余の原子力発電所がある。当然戦争となればミサイルがそれを狙う。その一発で100キロ四方が死の町となることはチェルノブイリの事故が証明している。断固として非戦である。非戦の立場以外にはありえない。(23~24頁)
(イ)国家は存在の根拠において、人民の非暴力的日常の営為に依拠している。
(ロ)にもかかわらず、社会的日常秩序は、権力によってこそ維持される-とすりかえて、その<擬似非暴力体制>を法制化し、機構化することで日常の<擬似非暴力状況>を統治の結果として誇示する。
(ハ)その体制を維持し完璧に守るという名目によって、さらに自己の権力を守るための暴力装置を増大し、独占する。
(ニ)それは人民本来の非暴力日常の意味への覚醒を阻止し、それ自身の社会的な自己管理能力の自覚・発現を阻止する策として出てきた議会制民主主義-投票と選挙-として人民みずからの意思による自縄自縛〔じじょうじばく〕的な機構をつくる。
つまり、国家の国民支配は、日常において非暴力的仮装を完璧化することにおいて、いまや民主主義と称し「反テロ」を主張する国家体制群において貫徹されている。(29~30頁)
反テロ戦争は、いよいよテロを生み出す。そして、それへの闘いとして、テロを阻止するものとして、いまや「非戦」は、非暴力直接行動の焦点となってきていると云わねばならない。(43頁)
直接行動と暴力とは何ら関係はない。直接行動とは、他のものを通さず、自分のちからで、自分の必要なものを求める行動、である。私たちが日常での必要物を、間接的にでなく、じかに入手するために働きかける行為である。私たちが日常生活において必要とするもの、たとえば生活物資、それを入手するとは生産であり、その行動とは労働である。(44頁)
直接行動の本質は
①ものをつくり、そのためにはたらくことである。この生産と労働こそは人類の歴史を通じて、人民のみが背負い、果たしてきたところの、人民のみがなしうる人民の最大のちからである。非暴力直接行動とは、非暴力状況の日常があってこその生産と労働である。
②生産と労働の結果の享受である。
③日常生活を楽しむ創造活動であり、遊戯である。直接行動とは、与えられるものを享受する娯楽だけでなく、人民みずからがつくり出す創造の行為だからである。(44~45頁)
非暴力は、何よりも直接行動と結びつくことで、はじめて可視化され、ちからとして私たちの目にあらわれるのである。もっと明確にいうならば、私たちと隣人や仲間との交流関係、あるいは自治会や町内会のようなものも含めて、それは自治管理あるいは社会生活ということだろう。(46頁)
私たちは有史以来現代まで、その自らが作り出してきたちからを自覚することなく、むしろ権力の支配を支えることでさまざまな曲折を辿ってきたというほかない。非暴力が生産労働であるとき、それが自治管理に結びつくことは当然である。非暴力社会とは、自治管理と結びついていないとき、それは、賃金労働、奴隷労働でしかない。たとえそれが生産を行っていても擬似的な生産行為というしかない。そしてそれこそが国家の支配する擬似非暴力体制の現実なのである。(46~47頁)
直接行動とは、
①私たち自らの手によって、私たちの必要とするものを勝ち取ることである。直接行動が、生産労働そのものであることによって、生産関係の内実を明らかにする。
②私たちが自己の個人責任において、自ら行為することである。直接行動は個人責任を明らかにした、一人のひとりの主体においてある。云うならばそれは、自治管理でもある。
③合法・非合法を超えた生産行為である。直接行動に対して、法律がその強健を振るえば振るうほど、それは法律そのものの不正義を証明し、自らの墓穴を掘ることとなる。合法・非合法は、私たちにとって戦術的考慮以上のものではない。
④政治と呼ばれている間接手段を一切否定し、排除する。直接行動は、政治が無用の介在物であるのみか、搾取の方法としてあることを明らかにする。
⑤人民の営みであり、それそのままで生活と密着した闘いである。人民にとって直接行動とは、他から物を奪い取ることなのではなく、自らのものをつくること、そのための妨害をものともしないことである。直接行動は、妨害に対して実力行使としての生活の意味を明らかにする。
⑥日々の生活-生産と関係して自立的に日々の営みを管理することである。(47~50頁)
このように直接行動は、人民の属性としての非暴力と結びつき、それがすぐれて能動的なちからである意味を明らかにする。(50頁)
現在、私たちがそれと思い込んでいる生産と労働は、実は自己の労働力を商品として資本に売ることであるにすぎない。そのようにして得た代金を仲介にして、非直接的にしか自己の必要なものを得ることができないことにおいて、私たちの生産労働は、明らかに擬似化している。言い換えれば、直接行動は、本来の非暴力状況のもとにおいてのみそうであり、エセ非暴力体制の下では、それに照応して擬似生産労働でしかありえない。(50~51頁)
それと同じように、現体制のなかでの非暴力は、すべて擬似矮小化されて、擬似直接行動か、権力者流の暴力行動か、しかありえないということである。このようにすべてを体制内にからめとられた状況のもとで行われる私たちの闘いは、正確に云えば直接行動そのものとしてでなく、まず非暴力直接行動の回復・奪還の闘いである。私たち自身のための生産労働を取り戻すための、より厳密に云えば非暴力直接行動「奪還」の闘いとなるであろう。それは、自己を労働疎外から取り戻し、擬似生産労働を自己のためのものとするための闘いである。(51頁)
…………………………(草稿中・続く)…………………………
『暴力論ノート――非暴力直接行動とは何か』向井 孝著/解説 水田ふう
B6判 104ページ、2002.12.14完成
【送料込1冊 1,000円】
【郵便振替】口座名称:水田ふう/口座番号:00840-9-34502
【問合せ】lanigreco@yahoo.co.jp
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2002年の遺言『暴力論ノート~非暴力直接行動とは何か』刊行によせて-向井 孝:http://www.ne.jp/asahi/anarchy/saluton/topics/perforto1.htm
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