小学校の横の道を通りかかったときのことだ。
音楽の授業なのか。
合唱が聞こえてくる。
腹が立った。
腹が立つというのは不思議なもので、準備が出来ていて、
いつでも腹が立てられるようになっていないと
まったく腹を立てることなど忘れてしまって、何かあってもポケッとして驚くだけになってしまう。
わたしはコレを、怒るクセと呼んでいる
クセなので、その癖が出るときと出ないときがある。
笑いも、泣きも、驚きが、感情の元になっている。
驚きを、喜びや、嬉しさや、悲しみや、怒りなどに変えうる何かがそこに介在している。
で、ここ数日は、驚きを怒りへ導く流れが強まっていたらしく、わたしは子どもの合唱を聞いて怒れた。
歌声に怒っていたのではない。
♪ マルマルモリモリ。。。。
彼らは声を合わせて元気に歌っていた。
だから怒れたのだ。
何をしているのだ、と憤慨したのだ。
合唱について憤慨したのではない。
選曲。
アノ歌が悪いわけでも、ドラマが悪いというわけでも無い。
どうして、学校の授業で、アレを合唱するのか、
そこに”わたし”が腹を立てたらしい。
”わたし”が言うのには、どうやら、学校でないと出会うことの無いような歌(音楽)が多く存在していて、
せっかく学校に行ったら、それを習っておかないと、子どもたちの損だということのようだ。
しかも、いくら流行したからと言ってそのドラマをテレビで見ていない子だっているはず。
というか、先生が、教育が、子どもにおもねってどうするのだ。
それは教育ではないし、大人のすることでもない。
もっと言えば、子どもたちの教育の機会を奪っている。
と”わたし”は瞬間に思った、ということのようだった。
感情の破片というのは、自分を知らしめてくれる。
今日も面白い出来事に出会ったのであった。
いや、今日も、自分の新たな意見に遭遇したのだった。
“学校でないと出会うことの無いような歌”!
それだ!
“大学生たちも、大学でないと出会えない文学”に触れようとしないし、それでOKの風潮。
む~ん。
というわけで、江戸戯作を読みましょう。
「自由」ということばは、かわいそうに、怠けるとかずるするとかと同義語になっちゃいました。