岡村靖幸の「カルアミルク」を聴いたら寝れなくなった。
と言うのも「カルアミルク」の歌詞(歌詞全文はコチラ)について、分析してみているとその中でとても引っかかるところがあった「ファミコンやって、ディスコにいって」というところだ。これは、いま自分が聴くと、古いなぁと思う部分だ。だけど、凄く共感できる歌詞でもある。
確かにこの曲が発表された当時(1990年)の人たちにとってはとてもリアルな歌詞で共感できるのだろう。だけど、実際に自分がよくゲームをしたりディスコに行ったりなんてことはないが共感できるということは、つまり直接的な歌詞だったものが、時代が変わって隠喩的な歌詞となったということか。
それと、もしかしたらこの歌詞はあらゆる世代に人たちに共感できると思ったのは「今なら仲間とバーボンソーダ飲めるけれど 本当はおいしいと思えない」という歌詞だ。
その部分をもしおじいちゃんが聴いたとしたらこう聴こえるだろう 「今なら仲間と番茶飲めるけれど、本当はおいしいとは思えない」 あれ?相当、若作りしてるおじいちゃんになっちゃたから、なんか違うな。盆栽の方がしっくりくるかな?もしくは、囲碁かな?はたまた入れ歯?
「最近、仲間が総入れ歯を付け始めたけど、本当は3本残ってる」
あれ?
なんか違うな。逆に仲間のおじいちゃんがかっこよく聴こえる。だったら
「最近、仲間がかつらを付け始めたけど、本当は似合ってるとは思えない」
俺の中のおじいちゃん像って、なんか屈折してるな。みんな必死に老化を隠してるみたいだ。歯がないから入れ歯したり、髪の薄いのを気にしてかつら被ってみたり。つーか只の大喜利だなこりゃ。
とりあえず、世代を超えて共感できるいい曲なので一回聴いてみてください。
岡村靖幸「カルアミルク」
ノリコでした。
と言うのも「カルアミルク」の歌詞(歌詞全文はコチラ)について、分析してみているとその中でとても引っかかるところがあった「ファミコンやって、ディスコにいって」というところだ。これは、いま自分が聴くと、古いなぁと思う部分だ。だけど、凄く共感できる歌詞でもある。
確かにこの曲が発表された当時(1990年)の人たちにとってはとてもリアルな歌詞で共感できるのだろう。だけど、実際に自分がよくゲームをしたりディスコに行ったりなんてことはないが共感できるということは、つまり直接的な歌詞だったものが、時代が変わって隠喩的な歌詞となったということか。
それと、もしかしたらこの歌詞はあらゆる世代に人たちに共感できると思ったのは「今なら仲間とバーボンソーダ飲めるけれど 本当はおいしいと思えない」という歌詞だ。
その部分をもしおじいちゃんが聴いたとしたらこう聴こえるだろう 「今なら仲間と番茶飲めるけれど、本当はおいしいとは思えない」 あれ?相当、若作りしてるおじいちゃんになっちゃたから、なんか違うな。盆栽の方がしっくりくるかな?もしくは、囲碁かな?はたまた入れ歯?
「最近、仲間が総入れ歯を付け始めたけど、本当は3本残ってる」
あれ?
なんか違うな。逆に仲間のおじいちゃんがかっこよく聴こえる。だったら
「最近、仲間がかつらを付け始めたけど、本当は似合ってるとは思えない」
俺の中のおじいちゃん像って、なんか屈折してるな。みんな必死に老化を隠してるみたいだ。歯がないから入れ歯したり、髪の薄いのを気にしてかつら被ってみたり。つーか只の大喜利だなこりゃ。
とりあえず、世代を超えて共感できるいい曲なので一回聴いてみてください。
岡村靖幸「カルアミルク」
ノリコでした。
ノリコさんというお名前から女性だと思っていたのですが、こちらに来て男性の方だったと知り、驚きました。
この歌、いい歌ですよね。特に、ノリコさんの言っておられる歌詞の部分が、とりわけ胸をゆさぶる部分だと思います。
私は当時17歳だったのですが、この遊び方、今で言うと何に該当するのでしょうね?きっと、当時は華やかでナウい(死語)遊び方だったのでしょう。
おしゃれで華やかな遊び人を気取っていても、そこに将来につながるものや、本当に心を満たすものは何もなくて。空しいんだ…。そんな声が聞こえてきそうな気がします。
バーボンソーダは、大人の男性の象徴でしょうか。
そんな生活を送る中で、主人公は、本当に大切なものに気づき始めているのかもしれませんね。
聴けば聴くほど味わい深い歌です。
では、長々とすみませんでした。ありがとうございました。