四日市 空と海のものがたり ② 山口誓子 ”星恋” の海
野尻 抱影との共著『星恋』には、誓子が四日市(富田・天須賀)と鈴鹿(白子)の海辺で作った句が多く収められている。
露更けし星座ぎっしり死すべからず 1941・9・20 (『星恋』)
肺の病で療養中であった山口誓子が、四日市の柳生夜来に勧められて富田の海に面した別荘地にやってきたのは、1941年9月のことだった。夜来は、「東より太陽を享ける地は健康に最もいい」(『句による自伝』)と富田海岸をすすめたという。
1939年、初航海の“あるぜんちな丸”で神戸・横浜間を往還、途中、四日市で土地の人びとと交流した誓子だったが、翌1940年4月、血痰を見るほど病状が悪化、1941年9月、富田に居を構えた時には安静状態が続いていた。この時の心境を「露の夜更けの星座は一粒一粒磨いたように美しく、それを見てゐると、早く死んでしまつてはならないと思った。」(『句による自伝』)と述べている。それから12年、誓子は伊勢湾の海辺で療養を続けた。
自らの病、戦争、自然災害と生活は平穏なものではなかったが、「昼は伊勢の自然を見て歩き、夜は伊勢湾の天にかがやく星を仰いで、星の俳句を作ってゐた」(『星恋』定本・あとがき)という。
富田へ移ってまもなく1941年12月、太平洋戦争がはじまった。
1942年4月18日、海岸の松林を散策していた誓子は、空に響いた激しい炸裂音を聞く。この時、名古屋、神戸など日本各地が攻撃を受けたが、19日の新聞は「誓つて尊き国土を護れ 備えあれば恐るゝに足らず」という小林防衛総参謀長の談話とともに、「けふ帝都に敵機来襲 九機を撃墜、わが損害軽微」「沈着な隣組の大活躍」(朝日新聞)などと「敵機」を打ち負かしたことを伝えている。
しかし、日本の高射砲によって攻撃され南下する飛行機を目の当たりにした誓子は、戦争への強い不安を感じるようになった。そして、毎日、日が傾くと近くを歩き、句を作った。「戦争の中にあつて孤独で、病気に閉ぢ込められてゐたから、自分が生きてゐることが不確かでならなかった」(『自叙伝』)という誓子は、「自分の生を確かめるため」句を作り続けた。
戦争状態は悪化していった。
戦局は次第に不利になつて在郷軍人の範囲が拡げられた。私は、徴兵検査は近視のため丙種合格で、在郷軍人ではなかったが、丙種合格といへども在郷軍人会に入らねばならぬことになつた。私の病名は、診断書には「陳旧性肋膜炎」と記されてゐた。富田浜病院の安東女医が書いて呉れたのであつたが、その診断書は在郷軍人会に対しては無に等しかつた。私は訓練に参加するように命ぜられた。 (『自叙伝』)
誓子は分会長に病状を訴え、結局は訓練を免除されるのだが、以後、外出は控えるようになった。
この時、誓子のために診断書を書いた安東美沢医師が勤務していた富田浜病院は、1918(大正7)年、緑仙堂石田医院として開業。1923年には、病棟を拡充して富田浜病院と改名、長く結核の治療に力を注いできた。開業当時の新聞折込チラシに見える「サナトリアム」の文字が示すように、自然豊かな沿岸の療養施設であった。夫と共に富田浜病院の開設に携わった医師の石田マサヲは、当時の様子を次のように語っている。
病院の施設や病室の装備にもまして、療養者にとって最大の関心事は、病院をとりまく周囲の自然環境である。この点もまた富田浜病院は最も恵まれているといえる。東海地方で最も綺麗な海水浴場として知られている富田浜が前面にひろがっているのだから、理想的な療養地である。
病院の東側一帯は、波打際まで三百メートルもある白い砂浜で、そこに昔からの松林が風に揺られて天然の音楽をかなでている。砂浜は長さ1キロで、海の彼方には遠く知多半島や伊勢の朝熊山が霞んで見える。右手には四日市港の防波堤が延び、左手には天ヶ須賀・川越の松林に覆われてた浜州が見え、海には漁船が浮かんでいる。
昔から別荘地帯として知られているだけに、閑静で、冬は暖かく夏は涼しく、交通も便利であり、周辺が純農村地帯に囲まれている立地条件から見ても、富田浜病院は療養上の理想的な適地にあると言っても過言ではない。(石田マサヲ『医政相通』)
自然豊かな地で長期滞在していた人びとを、土地の人は「潮とり(汐湯治)さん」と呼んだ。
1945年6月18日、誓子は、四日市の市街地と南部の海軍燃料廠を焼き尽くした空襲を、遠くから目撃している。夜、空襲警報が解除され皆が眠りに入った後、激しい発動機の音に驚いて起きた。「暗い上空からは、焼夷弾がしきりに下降して空中でほぐれ、四日市を焼きつゞけた。」(『句による自伝』)という。
星天(せいてん)を夜干の梅になほ祈る 1945・8・6 伊勢富田 (『星恋』)
オリオンが出て大いなる晩夏かな 1945・8・10 伊勢富田
1945年の夏を、誓子は四日市の富田の海で迎えた。
星一つ焚く火の上に鰯引(いわしびき) 1945・9・6 伊勢富田
星などの高さに夜の鰯雲 1945・10・13 伊勢富田
1946年6月には富田の北の天ケ須賀に移り、更に1948年10月には鈴鹿市白子鼓ケ浦に転居した。天ケ須賀では「海岸沿ひに別荘が並んでゐて、その内側に漁師の町」があり、季節ごとに、海苔やひしこ鰯を乾燥させる漁師たちの姿をながめて暮らした。(「方言」『天狼』1953年8月)
しかし、穏やかな海の暮らしは続かなかった。
1953年9月25日の台風で、誓子は白子の自宅を捨てて避難せざるを得なくなり、多くの蔵書を失っている。台風が通り過ぎた夜半過ぎ、誓子は自宅に戻った時のことを、次のように記した。
外はすごい月夜で、潮は遠くまで退いてゐた。直ぐ眼の前に大犬座のシリウスがきらきらかがやき、その上にオリオン星座が勿体ないくらゐ美しく見えた。それ等の美しい星座を見たとき、私は台風に生命を脅かされたことをうち忘れ、自分の家がどんなにひどい被害を受けてゐても、堪へられると思つた。事実、鎖して置いた雨戸が一枚もない自分の家に踏み入つて、高浪の荒らし去つたあとを見たとき、私は自らを失はなかった。星座のひかりはしづかに強く私を励ましたのである。(「序に代えて 二つの星夜」『星恋』新版 1954年)
直後、誓子は白子を離れ西宮へと移った。
戦後、四日市の都市計画に携わった石川榮耀は、1955年、四日市の海について、南は工業地帯、北は現存する砂浜を残した観光地帯とするよう提言している。沿岸部の都市計画について、工業地帯と自然環境とのバランスがとれた開発が重要と考えていた石川は、四日市北部の海辺について次のように語った。
四日市の水際の美しさは、今日富田浜しかございません。私は名古屋の県庁に14年おつたのでございますが、われわれは常に富田浜というところを高嶺の花のごとく楽しい場所に考えておつたのであります。あれをお埋めになることも、あるいはかまうことはないかと思いますが、しかしこれは今日の計算には入れておきたくない。これは港湾に対して、あるいはその他に対する私の考えに誤りがあるかとも思います。これは皆さんのご批判もありましょう。しかし私は、都市は住むところであるという意味において、桑名に対する、また名古屋に対する対策として富田浜は譲れません。これは白浜青松の場所として御保存になるべき場所でございます。(『四日市市総合都市計画の構想』)
誓子が去った後も、伊勢の海は、しばしば災害に見舞われた。特に、1959年の伊勢湾台風では、四日市の海辺も壊滅的な打撃を受けた。
崩壊した別荘地は再建されることはなかった。
<参考>
「句による自伝」山口誓子全集5巻
「自叙伝」山口誓子全集5巻
「方言」(『天狼』1953年)山口誓子全集9巻
『定本 星恋』野尻抱影 山口誓子1986 深夜叢書社
『星恋』の初出版は1946年、鎌倉書房。その後1954年に中央公論から新版、1986年には深夜叢書社から『定本 星恋』が出た。
『医政相通』石田マサヲ 1978
『四日市市総合都市計画の構想』
早稲田大学大学院 都市計画室 工学博士 石川榮耀氏口述 1955