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いのりむし文庫

いのりむし斧舎 ⒸNakajima Hisae

四日市のみなと  

2013-07-29 | よっかいち 人権の礎を訪ねて

海の向こうにつながる世界 

   四日市のみなと  

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 近代以降整備のすすんだ四日市港は、中部圏における代表的な国際貿易港として発展しましたが、ここでは少し観点を変えて、「みなと」をとりまく出来事のいくつかをご紹介します。


■朝鮮侵略
 全国統一を終えた豊臣秀吉は、朝鮮侵略を企図し出兵します。
 
 1592(天正20)年の出陣命令では、桑名、亀山、松坂など伊勢国の大名が「伊勢衆」として第13軍に編成されました。四日市の関わりについて詳細は不明ですが、朝鮮出兵時に四日市が伊勢国13浦(長嶋・大嶋・桑名・四日市・楠・長太・若松・別保・栗真・白子・白塚・津・松崎)に対して水主(船乗り)を割り付けたこと、慶長の役(丁酉の倭乱)では、四日市は徳川家康領であったため、家康の進言で出兵は免除されていたことが伝えられています。(『四日市市史』)


■海軍燃料廠
 1939(昭和14)年、塩浜地区の沿岸部に、第二海軍燃料廠の建設が始まりました。

 215万㎡の敷地に、石油精製、備蓄、補給施設がつくられました。1941年第二海軍燃料廠として正式発足しましたが、1943年には備蓄原油が枯渇し南方原油も入らないなど操業困難におちいる中、1945年の空襲で被災しました。


■四日市港米軍艦船入港対応マニュアル
 私たちの平和への願いに反して、海の向こうでは戦火が絶えることがありません。

 2003年11月12日、米軍がチャーターした民間船ウエストパックエキスプレス号が四日市港に入港し、人員・物資を積み込んで韓国に向けて出航しました。この時は、事前説明会で危険物の扱いは無いことを確認するとともに、入港情報も公開されました。戦後の一時期をのぞき、米軍が四日市港を利用したのは初めてのことでした。

 今後も同様の事態が起きることを想定して、翌2004年、対応マニュアルが作成されました。米軍艦船の四日市港入港に際して、県民・市民への情報提供や、核兵器搭載の有無の確認などを的確・迅速におこなうために、日米地位協定による・よらない双方の場合に必要なことを定めています。

(米軍が核兵器を持ち込む場合は、日米安全保障条約上、米側から日本に事前協議を申し入れることになっています。核兵器搭載の有無の確認は国の所管であり、事前協議の申し入れがないということは、当然核兵器は持ち込まれないと判断できますが、さらなる確認のため核兵器搭載の有無について外務省北米局日米安全保障条約課長宛に文書で照会するというものです。)

(2009年5月記)

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清水三重三 平和の女神像(市民公園博物館横)

2013-07-29 | よっかいち 人権の礎を訪ねて

平和への願い

   清水三重三 平和の女神像(市民公園博物館横)

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 1945年6月18日の空襲を経験した市民の平和への願いを結実させた平和の女神像は、当初1952年の四日市博覧会の会場正面において公開されました。この時制作されたのは石膏像でした。

 博覧会閉会後、1953年12月、青銅製の女神像が中央通ロータリーに建立されました。当時の新聞によると、「青銅三十貫の裸体像で平和のハトを形どって両手をひろげている」(中部日本新聞12月27日)ということで、像の高さ6尺1寸8分には、四日市空襲への思いが込められています。1993年、博物館横の市民公園に移設されました。

 市立博物館では、1995年「四日市空襲」展が開催されました。また、常設展には、四日市空襲の解説コーナーがあります。

■非核平和都市宣言

 四日市市では1985年3月25日、非核平和都市宣言をしています。 

 日本非核宣言自治体協議会(事務局:長崎市平和推進室)によると、日本の自治体の80パーセント以上が、核兵器廃絶や非核三原則を求める内容の自治体宣言や議会決議などの非核宣言を行っています。

 最初の非核宣言は、1980年にイギリスのマンチェスター市で、米、ソ冷戦のさなか、核兵器の脅威をなくすため、自らのまちを非核兵器地帯であると宣言し、他の自治体にも働きかけたところ、イギリス国内の多くの自治体が賛同しました。その後、この宣言運動は世界に広がりました。日本でも、1980年代からこの非核宣言を行う自治体が増え、2013年現在では約1,500自治体が宣言を行っているということです。

 管内市町村の非核宣言率100%の都道府県は、岩手、宮城、秋田、山形、千葉、神奈川、富山、石川、山梨、三重、大阪、鳥取、広島、山口、徳島、愛媛、福岡、佐賀、長崎、熊本、大分、宮崎の22府県(日本非核宣言自治体協議会調査2013年4月)となっています。


中央通ロータリーの平和の女神像 (提供 澤井余志郎さん)
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(2009年5月記 2013年7月加筆)   

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 四日市空襲殉難碑  (鵜の森公園)

2013-07-28 | よっかいち 人権の礎を訪ねて

空爆、殺されるな 殺すな 殺させるな 

   四日市空襲殉難碑  (鵜の森公園)

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 1945年6月18日未明、四日市はアメリカ軍の戦略爆撃機B29による空襲を受けました。
 
 これは、東京、大阪、名古屋などの大都市に続く、地方中小都市空襲の最初でした。およそ1時間にわたる爆撃の被害は、死者736名、重軽傷者1,500名、行方不明63名、被災者47,153名といわれています。この後も8回の空襲があり、市街地は廃墟となりました。
 
 鵜の森公園に、犠牲者の慰霊と平和祈念の殉難碑が建立されたのは、1980年でした。以後、毎年6月18日に、碑の前で慰霊の献花式がおこなわれています。


■空爆(空襲)の歴史
 1903年ライト兄弟による飛行機の発明は、戦争に劇的な変化をもたらします。
 
 1911~12年のイタリア・トルコ戦争では、イタリア軍が飛行機から手榴弾を投下するなどの攻撃をおこないました。その後、ヨーロッパ諸国による植民地戦争などで飛行機による攻撃が重視されるようになります。攻撃する側の被害はほとんどなく、最大の効果が上げられることから、その利用は、ますます激しさを増しました。
 
 そして、日本もまた、加害としての空爆の歴史を歩みます。1914年、日本軍は、中国の青島(チンタオ)市街を、海軍機3機で爆撃しました。1937年、日中戦争における日本陸海軍の空爆は、さらに激化し、上海、蘇州、杭州、南京など中国全土の都市に大空襲が敢行されました。 特に、1939年5月の重慶市街地への爆撃では、2日間で死者3991人、負傷者2287人といわれています。その後も重慶への空爆は、1943年8月まで200回以上を数え、その被害は甚大なものでした。
 
 四日市空襲の苦難を思うとき、私たちはまた、重慶の、そしてイラクの、ガザの苦難を思うことができるのではないでしょうか。

(2005年9月記)


 2013年6月18日
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【参考】
『伊勢の海は燃えて 海軍燃料廠と四日市空襲』 第三文明社1978
『四日市にも戦争があった 四日市空襲の記録』 四日市革新懇話会1991
図録『四日市空襲』 四日市市立博物館1995

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