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いのりむし文庫

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残された奉安殿 ”光雲殿”  (赤堀 誓元寺境内)

2013-09-05 | よっかいち 人権の礎を訪ねて

残された奉安殿
   光雲殿  (赤堀 誓元寺境内)


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(2011年3月撮影) 

 誓元寺の納骨堂「光雲殿」は、1935(昭和10)年、常磐尋常高等小学校に建立された奉安殿を、1946年、現在地に移築したものです。老朽化が激しくなった2004(平成16)年に改修がおこなわれましたが、建設後70年以上が経過しているため、2011年7月、国の登録有形文化財【註1】となりました。

 昭和初期の建築物として注目される光雲殿ですが、重要なことは、この建物が奉安殿として建設されたことにあります。それは、大日本帝国憲法下の国民精神教育を象徴するものでした。

 明治から1945(昭和20)年8月15日まで、天皇・皇后の写真が「御真影(ごしんえい)」として特別の意味を持っていた時代に、「教育勅語」と「御真影」を保管する場所として建設されたのが「奉安殿」でした。当初、多くは市町村役場などに保管されていましたが、独立した施設が設置されるようになり、「奉安庫」「奉安所」「奉安殿」と呼ばれました。

 「御真影」(正式には「御写真」)は、天皇の権威を示すものとして、明治維新直後から、府県庁や鎮台などに下付されます。1882(明治15)年以降、学校への下付が始まり、臣民教育に利用されるようになりました。こうした下付は、一方的強制的なものではなく、まず学校から自発的な願い出があることが前提とされていました。しかし、このことが文字通りの意味での「強制ではない」を意味しないことは、言うまでもないでしょう。
 紀元節・天長節・新年の三大節祝賀式、さらに昭和2年以後は明治節を加えた四大節におこなわれる儀式において、「教育勅語」が読み上げられ(「奉読」)、天皇・皇后の「御真影」に最敬礼しなければならなかったのです。

 三重県は1927(昭和2)年、小学校長会議において「御真影奉置」について次のように指示しました。


  
学校に奉載せる御真影は、洵(まこと)に国民精神教育の源泉にして、平素児童生徒訓練の中心を茲(ここ)に求め、学校の内外を挙げて、日夜尊崇(そんすう・そんそう)し奉り、至誠奉公せさるへからさるは言を俟(ま)たさる所なり。従って其の奉置に関しては、校地内清浄なる場所を選ひ、設備鄭重(ていちょう)にして堅牢を旨とし、周囲亦児童をして自ら尊厳の気を感得せしむるの設備あるを要す。各位は常に意を茲に留め、設備の汚損せる場合は直に之を修理し、不備の箇所は之を整ふると共に、日常管理を厳重にして、奉仕懈る所なく、児童生徒をして常に敬虔の至誠を捧けて奉拝せしむる様訓練せられむことを望む。
 「一、 御真影に奉置に関する件」(『四日市市教育百年史』)
                  *()内のふりがなは、引用者

 
四日市でも初めは市役所に保管されていましたが、1927年から40年にかけて市内各地の小学校に奉安庫又は奉安殿が建設されました。建設費は、学区内の有志や奨励会などの寄付で、構造、建築様式はさまざまであったといいます。いずれの学校でも奉安殿の周囲は玉垣や石柵などで囲われ、樹木を植えたり庭石を配置するなどしていました。

 奉安殿に厳重に保管された「御真影」「教育勅語」は、火災や災害はもちろん空襲に際しても、これを守ることが厳しく求められ、「御真影」を守り抜くことを第一とする学校防空実施要項も作成されました。
 文部省の学校防空指針(1943年)によると、被災した場合の報告事項は、①御真影,勅語謄本,勅書謄本の安否,②死傷者,③建物の被害の程度の順となっており【註2】、「御真影」や「教育勅語」が重要視されていたことがわかります。

 1945年、ポツダム宣言が受諾されたことで、連合軍総司令部(GHQ)によって、軍国主義的教育が次々と排除されるようになります。同年10月「教育勅語」の「奉読」の禁止、12月「御真影」の返却、1946年1月「奉安殿」の撤去です。三重県は7月に「御真影奉安殿の撤去に関する件」を発し、取り壊し作業が始まりました。

 こうした中、常磐小学校の奉安殿は、学区内にあった誓元寺境内に移設され、「光雲殿」と命名されて納骨堂となりました。常磐小学校から誓元寺まで1kmに満たない距離ですが、重さ7千貫といわれたコンクリート製の建物をコロ引きで2日かけて移動させたといいます。移設費用には、既に解散していた国防婦人会の残した財産が充てられたということです。
 
 教育勅語は、1945年10月「奉読」が禁止された後、その取り扱いが問題となりますが、1948年6月、教育勅語等排除に関する決議(衆議院)と、教育勅語等の失効確認に関する決議(参議院)により失効が確認されました【註3】。

  *参考 『四日市市教育百年史』

現在は納骨堂である光雲殿の内部
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(2012年1月撮影)

【註1】
 登録有形文化財は、原則として建設後50年を経過した建築物、土木構造物及びその他の工作物の中で、以下の条件に合致するものが対象となります。
(1) 国土の歴史的景観に寄与しているもの
(2) 造形の規範となっているもの
(3) 再現することが容易でないもの
 光雲殿は、「造形の規範となっているもの」として登録され、その様式は、次のように解説されています。
 

  
切石積基壇上に建つ鉄筋コンクリート造平屋建。4隅に柱型を造り出し、正面に切妻破風を飾る持送り庇を突出する。屋根は陸屋根軒を左右に出し、中央をドーム状に造る。外壁はモルタル洗出し。簡明な意匠でまとめられたRC造奉安殿。
(国指定文化財等データベース)


【註2】
「戦時下の京都師範学校の教育 ―1945(昭和20)年における学校長作成文書を資料として―」村上登司文 2011 


【註3】
●教育勅語等排除に関する決議(1948年6月19日衆議院決議)
 民主平和国家として世界史的建設途上にあるわが国の現実は、その精神内容において未だ決定的な民主化を確認するを得ないのは遺憾である。これが徹底に最も緊要なことは教育基本法に則り、教育の革新と振興とをはかることにある。しかるに既に過去の文書となつている教育勅語並びに陸海軍軍人に賜わりたる勅諭その他の教育に関する諸詔勅が、今日もなお国民道徳の指導原理としての性格を持続しているかの如く誤解されるのは、従来の行政上の措置が不十分であつたがためである。
 思うに、これらの詔勅の根本的理念が主権在君並びに神話的国体観に基いている事実は、明かに基本的人権を損い、且つ国際信義に対して疑点を残すもととなる。よつて憲法第九十八条の本旨に従い、ここに衆議院は院議を以て、これらの詔勅を排除し、その指導原理的性格を認めないことを宣言する。政府は直ちにこれらの謄本を回収し、排除の措置を完了すべきである。
 右決議する。

●教育勅語等の失効確認に関する決議(1948年6月19日参議院決議)
 われらは、さきに日本国憲法の人類普遍の原理に則り、教育基本法を制定して、わが国家及びわが民族を中心とする教育の誤りを徹底的に払拭し、真理と平和とを希求する人間を育成する民主主義的教育理念をおごそかに宣明した。その結果として、教育勅語は、軍人に賜はりたる勅諭、戊申詔書、青少年学徒に賜はりたる勅語その他の諸詔勅とともに、既に廃止せられその効力を失つている。
 しかし教育勅語等が、あるいは従来の如き効力を今日なお保有するかの疑いを懐く者あるをおもんばかり、われらはとくに、それらが既に効力を失つている事実を明確にするとともに、政府をして教育勅語その他の諸詔勅の謄本をもれなく回収せしめる。
 われらはここに、教育の真の権威の確立と国民道徳の振興のために、全国民が一致して教育基本法の明示する新教育理念の普及徹底に努力をいたすべきことを期する。
 右決議する。

(2012年2月記 2013年9月加筆)

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軍需工場にあった戦争捕虜収容所 (石原町)

2013-08-29 | よっかいち 人権の礎を訪ねて

それぞれの戦争



   軍需工場にあった戦争捕虜収容所 (石原町)



 
 石原産業(株)には、戦争中、石原産業で亡くなった外国人兵士の慰霊碑があります。建立時期や経緯については、はっきりしませんが、碑には次のように刻まれています。




人がその仲間達のために命を捨てるほど崇高な愛はない。
平和と自由のために第二次世界大戦で戦い、かつ死んだ人々に捧ぐ。

Nothing is more sublime than to sacrifice
ones own life for the sake of others.
This is dedicated to those who fought
and died bravely in the name of peace
and freedom during World War II.



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20p1460355 

 管理者によると思われる看板には、「これは第二次大戦中に、不幸にもこの地で死去した占領軍兵士の墓碑である。私達は平和への熱望の花束でもって彼等の霊魂が永遠に安らかに眠れるようにしましょう」と説明されていますが、「第二次大戦中」に日本で亡くなった「占領軍兵士」とは、石原産業で働いていたアメリカ人などの戦争捕虜のことと思われます。



 石原産業(株)社史編纂委員会『創業三十五年を回顧して』(1956年)によると、軍需工場に指定された石原産業には、労働力不足を補うため、特別に「捕虜」が配置されており、それは次のようなものであったと説明されています。

  
フィリピンのコレヒドールや、シンガポールの戦線などで捕虜となった米、英、蘭、豪の兵士約600名が、19年12月に割り当てられ、石原町住宅地の北部に収容所を設け、軍の監督下に作業に従事させたが、翌年4、5月から米機の空襲が頻繁となって、軍はここに捕虜を置くことを不適として、6月にその半数を北陸地方へ転住させたので、終戦時には300名が残っていた。(『創業三十五年を回顧して』)



 
 四日市の石原産業は、名古屋第5捕虜収容所(5-B)と呼ばれました。ウェブサイト“捕虜 日米の対話(US-JAPAN DIALOGUE ON POWS)”によると、2009年より、元捕虜とその家族の訪問がおこなわれているということです。POWは、Prisoner of War(戦争捕虜)の略です。



 このUS-JAPAN DIALOGUE ON POWSには、元米捕虜レイモンド・C・ハイムバック氏の経験が紹介されています。



 ハイムバック氏は、1941年からはじまったミンダナオ島の戦闘で捕虜となりました。
 まずダヴァオ厚生園収容所(ダペコル)で労働に従事し、1944年日本に移送されました。9月5日、四日市に到着したのは450人でした。四日市では、名古屋捕虜収容所第5分所であった石原産業四日市工場で働きました。
 1944年から45年にかけての冬はたいへん寒く、また12月7日にはM7.9の東南海大地震に遭遇、工場も深刻な損傷を受け、19名の死者の多くはこの冬に亡くなったということです。   
   
 1945年6月1日、150人が富山へ移送され、名古屋捕虜収容所第11分所であった日本曹達岩瀬鉄鋼所で働き、同年9月5日に解放されました。



(2013年8月 記)



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公害から集団移転した平和町 (塩浜地区)

2013-08-08 | よっかいち 人権の礎を訪ねて

消えた引揚者のまち
  
   公害から集団移転した平和町 (塩浜地区)

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1971年平和町夜景 (提供:澤井余志郎さん)

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2011年4月 平和町跡地
 
 
 1960年代、拡大する公害の抜本対策として検討されたのが、コンビナート隣接地域の集団移転です。松下電工、味の素などの工場が林立する雨池町は、1962年に集団移転の請願を提出し、悪臭と煤煙、水害の苦しみを訴えました。1965年、四日市市が作成した事業計画案『当面する土地改良事業について』によると、都市改造事業として移転が検討されていたのは、午起、雨池、塩浜、平和の4地区でした。

 午起 第二コンビナートと名四国道の間の市営住宅を中心とする住宅
 雨池 松下電工、味の素等の工場地帯に隣接している住宅
 塩浜 第一コンビナートに隣接する住宅
 平和 第一コンビナートの南側に近接する住宅

 集団移転を具体的にすすめるため、1966年には、四日市市都市公害対策研究会によって、85年までの長期計画都市公害対策マスタープランが作成されました。7,082戸の住宅移転計画が盛り込まれ、1966年実施開始予定の2地区(平和町・雨池町)の内、まず実施されたのが平和町でした。日本で初めての「公害からの集団疎開」といわれています。

 平和町は、かつては旧第二海軍燃料廠の工員住宅でしたが、戦後は引揚者が入居する市営住宅となり「平和町」と呼ばれるようになりました。住宅は国から居住者に払い下げられ、土地は市有地でした。契約では、賃貸借契約が満了する1963年には、土地も売り渡されることになっていましたが、公害問題の発生で、丘陵地の市営住宅への移転交渉がすすめられました。しかし、67戸の対象住宅の中には、自転車、菓子、食料品、ブリキなどの商売を営む家もあり交渉は難航します。

 1966年、建設省の不良住宅地区改良事業として移転事業が開始されると、移転に反対する住民は、地区指定の取り消し訴訟などで対抗。改良地区に指定されたというだけでは、「住民の権利義務に直接影響を及ぼす行政処分とはいえず、訴訟の対象とはならない」(中日新聞1969年5月16日)という理由で却下(津地裁5月15日)されましたが、1971年の控訴棄却(名古屋高裁)まで争われました。

 市の移転事業では、強制的に排除するなどの方法は取られなかったため、住民の全てが移転を完了したのは1977年のことでした。
 
 その後、跡地は緑地となり、平和緑地と呼ばれることもあります。

■参考 『四日市市史 現代』 

(2011年4月 記)
        

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陸軍椿秘匿飛行場 土製掩体跡  (水沢野田町)

2013-08-08 | よっかいち 人権の礎を訪ねて

藪の中の戦闘機

   陸軍椿秘匿飛行場 土製掩体跡  (水沢野田町)

 陸軍の椿秘匿飛行場は、1943年頃から鈴鹿市追分町から椿一宮に建設されました。
 
 十字型の滑走路の南端から伸びる誘導路は、およそ4km先にあった北伊勢陸軍飛行場(広瀬町)まで続いていました。周囲には掩体も多数つくられ、62基が確認されています。

 その掩体群の北端は市の境を越え、四日市市水沢野田町にまで及びました。
 
 2010年現在、水沢野田町の共同墓地奥の林の中に土製掩体が残されています。地元の人のお話によると、掩体には「赤トンボ」と呼ばれていた練習用の小さな飛行機が格納されていたそうです。

   ■参考『三重の戦争遺跡』増補改定版 
          三重県歴史教育者協議会 つむぎ出版 2006年


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2010年2月に訪れた時には、林の中は人が通れるように手入れされていました。

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共同墓地奥の林に入ると、手前右に防空壕であった穴が残っています。

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さらに左の方に進むと土製掩体であった盛土が確認できます。
 
(2011年4月 記)

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賛美された死忠魂碑は何を語る 四日市市内の戦争慰霊碑

2013-08-04 | よっかいち 人権の礎を訪ねて

慰霊のかたち 四日市市内の戦争慰霊碑(解説)

賛美された死 忠魂碑は何を語る

   四日市市内の戦争慰霊碑


四日市市内の戦争慰霊碑の一覧は、こちらです。

 戦死者の慰霊碑が、忠魂碑として、全国に普及するようになるのは日露戦争以後のことで、小学校の敷地や町村役場に隣接する公共地に建立されたところが多いといわれています。日中戦争が始まると、1939年7月、大日本忠霊顕彰会が発足、戦死者の遺骨を納めた忠霊塔が、各市町村に一基ずつ建設されました。こうした忠魂碑は、戦死者の追悼のみならず、死を賛美することで国家への忠誠心を醸成しようとする意図が大きく、礼拝の強要など戦意高揚に利用されました。

 戦後、GHQの指示による政教分離の原則から、「軍国主義的又は超国家主義的思想の宣伝鼓吹を目的とする」忠魂碑などの撤去作業が進められ、新たな建立も禁止されました。

1951年サンフランシスコ講和条約の調印により戦没者の葬祭などが解禁されると、再び戦争慰霊碑が建設されるようになります。当時の政府見解は、宗教施設や、宗教的な儀式・行事をともなう施設ではなく、またそれと思われるものでなければ政教分離の原則に反しないとし、また「忠霊塔」「忠魂碑」などのことばは誤解を招きやすいので避けることが望ましいとされました。

 四日市市内には、多くの慰霊碑が残されていますが、そのかたちは様々です。一番多いのは、忠魂碑、表忠碑、英霊碑などのいわゆる「忠魂碑」です。西南戦争や日露戦争時の慰霊碑がそのまま残っている地域もありますが、戦後、多くの地域で新たに建立されました。

 戦後つくられた碑で注目されるのは、「平和之礎」碑で(註1)、1953年以降、確認できるものだけでも12ヵ所で建立されました。これは、「忠」の使用は望ましくないとする当時の政府見解にそったものと考えられますが、「平和之礎」という表現は共通しているものの、建立者、建立時期、碑の大きさやかたち、題字の揮毫者、慰霊の対象者(戦死者のみか、戦災者も含めるか)はさまざまです。そのため、特定の建設運動があったというよりは、それぞれの地域の人びとの創意で、慰霊の気持ちを表したものと思われます。

 また、戦死者と戦災による死者が共に追悼されている地区、有志によって寺に建立された慰霊碑、共同墓地や寺の墓地の一画に戦死者の同型の墓を並べて建設している地区などがあります。


■註1
「平和之礎」という表現が、この時期に増加し始めた背景には、全国戦没者追悼式における吉田茂の式辞からの影響があげられる。1952年5月2日、東京の新宿御苑で、初めて政府主催でおこなわれた全国戦没者追悼式において、吉田は次のように述べたという。

今や平和条約はその効力を生じ、わが国は独立国として再び国際社会に復帰するに至りましたこの時に当り、私は、支那事変以降の全国における戦没者の追悼式を行って、その冥福を祈り、また、その遺家族諸子の労苦に深く同情の意を表し、再びかかる大いなる不幸の繰り返されることのないようにと祈念するものであります。
又私は戦争によって傷痍を受けた多くの人々や未だ異邦にとどめられている三十万に及ぶ同胞に考え至る時、まことに万感胸に迫るものあるを禁じえません。
戦争のため祖国に殉ぜられた各位は、身をもって尊い平和の礎となり、民主日本の成長発展をのぞみ見らるるものと信じてうたがいませぬ。

 *『通信』第35号 1952年5月5日(田中伸尚他『遺族と戦後』岩波新書)


■参考

○1945(昭和20)年12月15日連合国軍最高司令官総司令部
「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全及監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件」
(いわゆる神道指令)

リンク:文部科学省


○1946(昭和21)年11月1日 発宗第51号 地方長官あて 内務文部次官通達
「公葬等について」

このことについては、政教分離の見地から、今後左記のような取扱によつて実施するよう、貴管下及び関係諸団体等に対して、徹底方配意せられたい。令によつて通牒する。

一 地方官衙及び都道府県市町村等の地方公共団体は、公葬その他の宗教的儀式及び行事(慰霊祭、追弔会等)は、その対象の如何を問わず、今後挙行しないこと。地方官衙及び地方公共団体の名において行い得るのは左の範囲に限る。
(イ) 文民としての功労者、殉職者に対し、宗教的儀式を伴わない慰霊祭等を行うこと(例えば学校・警察署等で僧侶・牧師等の参加なしに教員・警察官で殉職したものの慰霊を行うこと)
(ロ) 文民としての功労者・殉職者に対し、哀悼の意を表するための休業。
旗の掲揚、但し、国旗掲揚に際しては予め現地連合軍側の諒解を得ること。
(ハ) 文民としての功労者・殉職者に対し、個人又は民間団体が行う葬儀・慰霊祭・追弔会等に、弔慰金・花環等を贈ること、並びに官公吏が公の資格で列席し又は弔辞を読むこと。

二 文民としての功労者・殉職者等に対し、個人又は民間団体が、葬儀その他の宗教的儀式及び行事を行うことは差支えないが、この場合と雖も、地方公共団体又は公の機関が、その施設を貸すことは、原則として、避けられたい。但し、他に適当な施設がないときは、例外として、一般に貸す場合と同様の条件で、学校・公会堂等を使用せしめて差支えない。

三 戦没者に対する葬儀その他の儀式及び行事を、個人又は民間団体で行うことは差支えない。しかし、地方官衙又は地方公共団体が、これを主催若しくは援助し、又はその名において敬弔の意を表明するようなことは、避くべきである。従つて、前二項において、文民としての功労者・殉職者に対して許容される事項も、戦没者にはこれを適用しない。軍国主義者又は極端な国家主義者に対する場合も同様である。
戦没者の遺骨の輸送・保管・伝達に際し、その取扱は礼を失せざるよう、敬虔に行うべきである。遺骨の伝達は、政府の行うものであるから、公共建物又は公共用地(学校及びその構内を除く。)を使用するのは差支えない。但し、伝達式に一般公衆が参列することは認められない。
又、戦没者のための葬儀その他の儀式及び行事・遺骨の出迎等をなす場合、教師が生徒児童を引率して参加したり、一般の者に対して参列を強制するがごときことのないよう、又は軍国主義思想の宣伝鼓吹にわたらないよう、注意せられたい。

四 忠霊塔・忠魂碑その他戦没者のための記念碑・銅像等の建設・並びに軍国主義者又は極端な国家主義者のためにそれらを建設することは、今後一切行はないこと。現在建設中のものについては、直ちにその工事を中止すること。なお、現存するものの取扱は、左によられたい。
(イ) 学校及びその構内に存在するものは、これを撤去すること。
(ロ) 公共の建造物及びその構内又は公共用地に存在するもので、明白に軍国主義的又は極端な国家主義的思想の宣伝鼓吹を目的とするものは、これを撤去すること。
前項のことは、戦没者等の遺族が私の記念碑・墓石等を建立することを禁止する趣旨ではない。

五 一般文民の功労者・殉職者等のために記念碑、銅像等を建設することやその保存事業を行うことは差支えない。

リンク:文部科学省


○1946(昭和21)年11月27日 内務省警保局長通達
「忠霊塔忠魂碑等の措置について」

本月1日発宗第51号内務文部両次官通牒『公葬等について』の内第4項中現存する忠霊塔、忠魂碑、銅像等の措置については左記に拠られたい。

一 学校、学校の構内及び構内に準ずる場所に在るものは撤去する。
二 公共の建造物及びその構内又は公共地に在るもので明白に次のような軍国主義的又は超国家主義的思想の宣伝鼓吹を目的とするものは撤去する。
イ 日本天皇は其の祖先、家柄及び特殊なる起源の故を以て他国の元首に優越するとの教義
ロ 日本国民は其の祖先、家柄又は特殊の起源の故を以て他国民に比し優越し居れりとの教義
ハ 日本諸島は特殊の起源の故を以て他国に比し優越し居れりとの教義
ニ 日本国民を欺瞞し以て侵略戦争に導入し又は他国との紛争解決の為道具としての武力行使を讃美するに役立つ其の他の教義
 単に忠霊塔、忠魂碑、日露戦役記念碑等戦没者の為の碑であることを示すに止るものは原則として撤去の必要はない。


○1946(昭和21)年12月13日 保収第5339号の2 三重県警察部長
「忠霊塔忠魂碑等の措置について」

県下各警察署長殿
忠霊塔忠魂碑等の措置について

標題の件については、政教分離の見地から、今後左記により取扱ふやう本省から通牒があったから、関係方面と協調の上、其の実施に遺漏のないやふせられたい。

一、 新規建設
1、 忠霊塔忠魂碑その他戦歿者のための記念碑、銅像等の建設、並に軍国主義者又は極端な国家主義者のために、それらを建設することは今後一切認めない。
2、 現在建設中のもので、前号に該当するものは其の工事を中止すること。
3、 遺族が合同して墓石を建立しようとする場合、その構造が華美壮大となっては戦争礼讃の幣を生じ易いので、簡素を旨とするよう指導すること。
4、 戦歿軍人に対して遺族の新設する墓標は、死者の戦功を顕彰せざる範囲内に於て、陸海軍人、官等級、氏名、戦死場所等を刻ましむるも支障ない。
5、 一般文民の功労者、殉職者等のために、記念碑、銅像等を建設することや、又はその保存事業を行ふことは差支へない。

二、 現存するものゝ取扱
1、学校学校(ママ)の構内、及び構内に準ずる場所に在るものは撤去すること。
2、公共の建造物、及び其の構内、又は公共用地に在るもので、明白に次のやふな軍国主義的亦は超国家主義的思想の宣伝、鼓吹を目的とするものは撤去すること。
(イ)日本天皇は、其の祖先家柄及び特殊な起源の故をもって、他国の元首に優越するとの教義。
(ロ)日本国民は、其の祖先家柄又は特殊の起源の故をもって、他国民に比し優越し居れりとの教義。
(ハ)日本諸島は、特殊の起源の故をもって、他国に比し優越し居れりとの教義。
(ニ)日本国民を欺瞞し、もって侵略戦争に導入し、又は他国民との紛争解決の為の道具として、武力行使を讃美するに役立つ其の他の教義。
 単に忠霊塔、忠魂碑、日露戦争記念碑は、原則として撤去の必要はなし。
 3、撤去を要する忠霊塔などで、遺骨の納めてあるものは、遺骨は次のやうに処置をする。
(イ)遺族の判明するものは遺族へ。
(ロ)然らざるものは共同墓地へ埋葬すること。
 4、撤去の責任者は
(イ)建造物の管理者又は所有者。
(ロ)建造物所在の所有者又は管理者。
(ハ)建造物所在の市町村長。

三、報告
前項により現存する忠霊塔、忠魂碑、銅像等で撤去するものある時は、別表十二月廿三日迄に報告せられたい。
  (後略)   

出典  
『昭和二十年 宗教雑書 第二部』 四日市市役所蔵
(『四日市市史』第14巻 史料編 現代1 1996年 四日市市)


○戦没者の葬祭・忠魂碑・地鎮祭などについて
 昭和27年10月13日 委調86

山梨県教育委員会教育長あて 
文部省調査局長回答「戦没者の葬祭・忠魂碑・地鎮祭などについて」

 戦没者等を記念する碑像等を校地に建設する場合には教育上の見地から判断しなければならない。

 照 会
1 民間団体の主催によつて戦没者の慰霊祭、招魂祭等を行う場合に、地方公共団体または公の機関が、その施設を貸与することは許されないと考えるかどうか。(昭和l二一、一一、一発宗第五一号第二、三項)。
2 忠魂碑等を建立することは、公立学校の校地の内外を問わず地方公共団体はもちろん民間団体といえども行つてはならないと考えるかどうか。(昭和二一、一一、一発宗第五一号第四項)。
3 公立学校の地鎮祭、上棟式を民間人が主催して校地内において神道式によつて行つてはならないと考えるかどうか。

 回 答
1 公会堂等一般に使用させているものを貸与することは差支えない。
2 公共団体が公共のための功労者、殉職者(戦没者を含む。)等を記念する碑像等を建設することは一般的に差支えないが、公立学校の校地に建設される場合は教育上の見地から判断させなければならない。なお「忠魂」「忠霊」等の文字は避けれられたい。
3 建築業者の慣例に従つて執行することは神道式であつても差支ない。但し生徒児童の参列を避けなければならない。

(出典:大阪教育法研究会)
http://kohoken.s5.pf-x.net/cgi-bin/folio.cgi?index=sch&query=/notice/19521013.txt


○公立学校の校地内に勤労動員爆死学徒の記念碑(像)を建設することについて
 昭和32年3月7日 雑初65

愛知県教育委員会教育長あて 
文部省初等中等教育局長回答「公立学校の校地内に勤労動員爆死学徒の記念碑(像)を建設することについて」

    校内に勤労動員爆死学徒の記念碑を建設することは、差し支えない。

 照 会
 本県内に勤労動員中空襲のため爆死しました学徒の記念碑(像)を同窓生の手によつて母校(現愛知県立惟信高等学校)の一隅に建立したいという計画が進められておりますが、左記の諸点について疑義がありますので、ご多用中甚だ恐縮に存じますが、至急ご回報賜りたく御願い申し上げます。
 なお本県における計画は、亡き学友を偲ぶための塑像を作法室前の庭園に据えその台石に建立の趣旨等を刻んだ銅板を嵌め込もうとするものであります。その除幕式当日被爆現場(工場内)で法要を営み遺族を招待して亡き学友を偲びたいとするものであります。
     記
(一) 動員学徒中の爆死者を偲ぶための記念碑に類するものを公立学校の校地に建てることの是否について
(二) 記念碑に類するものが不可の場合単に亡き学友を象徴する塑像を公立学校の校地に建てることの是否について
(三) (一)の場合、建立の趣旨及び爆死学徒の氏名を台石の一部に象嵌することの是否について
(四) 本件について参考として承知すべき事項及び資料(文部省通達等)等について承わりたい。

 回 答
 事例の施設の建設は
(1) 学校教育に支障のないかぎり、さしつかえないものと解する。
(3) さしつかえないものと解する。
(4) 校地内に忠魂碑を建設することについて回答したものには、次のようなものがある。
 ○ 小学校校庭に忠魂碑建立の件について
   雑初第九〇号 昭和二九年八月五日付
  初等中等教育局長から長崎県教育委員会教育長あて
 ○ 校地内に忠魂碑を建設することについて
   委初第二九三号 昭和二九年九月三日付
  初等中等教育局長から滋賀県教育委員会教育長あて

(出典:大阪教育法研究会)
http://kohoken.s5.pf-x.net/cgi-bin/folio.cgi?index=sch&query=/notice/19570307.txt


○学校敷地内に忠魂碑を建設することについて
  昭和32年10月7日 委初325

岡山県教育委員会教育長あて 
文部省初等中等教育局長回答「学校敷地内に忠魂碑を建設することについて」

    学校敷地内に忠魂碑を建設することはできるだけ避けることが望ましい。

 照 会
 このことについては、従来″学校教育施設の確保に閑(ママ)する政令″に基き、学校敷地内の建設は好ましくないとされていたのでありますが、その後、時代の推移に伴い、情勢も変化している現状に鑑み、更めて、本件に対する御見解なり御方針を御教示下さいます様お願いします。

 回 答
 標記の件について、貴県笠岡市教育委員会から、別紙写のとおり照会があつたので、左記のとおり回答しますから、貴職から御通知ください。
     記
 学校敷地内に忠魂碑を建設することは、学校教育上の立場から、できるだけ避けることが望ましい。

(出典:大阪教育法研究会)
http://kohoken.s5.pf-x.net/cgi-bin/folio.cgi?index=sch&query=/notice/19571007.txt

 *(カナ)は引用者

(2009年11月記 2013年8月加筆)

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地租改正反対農民一揆で焼失した陣屋跡(中部西小学校)

2013-08-01 | よっかいち 人権の礎を訪ねて

地租を引き下げさせた転換期の農民一揆

   地租改正反対農民一揆で焼失した陣屋跡
                 (中部西小学校)
  
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 江戸時代の四日市は、一時(享保年~享和元年の大和郡山藩領)をのぞき、天領(幕府領)でした。初代代官水谷九左衛門光勝は、1603(慶長8)年、現在の中部西小学校辺りに代官所(陣屋)を築き、ここが幕府領支配の拠点でした。

 1871(明治4)年度会県出張所、1872(明治5)年には三重県庁、その後県庁が津へ移されたことで1874(明治7)年には県支庁と呼ばれるようになりましたが、1876(明治9)年の地租改正反対農民一揆の際に焼失しました。

 この時、唯一残ったクスノキは、1945年の空襲で焼失し、現在小学校の校庭にあるクスノキは、戦後植えられたものといわれています。

 明治政府の地租改正では石代納米価が高く設定されました。米価の下落などで打撃を受けた地域の中でも特に負担増となるところで、県の対応に不満が爆発し、明治政府への抗議となって人びとは県境をめざしました。

 0~50%も減租となる地域が多かった平野部に比べて、山間部では50%以上の増租となるところもあったのです。四日市では激しい放火・打ちこわしを伴い、攻撃対象は官名義や官と関わりのある建物や書類でした。

 住民の多くが参加したこの一揆では、絞首刑一人を含む五万人が処罰されました。四日市(三重・朝明郡内)で、呵責(かせき)以上の処分を受けた者は、7,840人に上ったと言われています。

 三重県を中心に愛知・岐阜・奈良の各県へも波及した三重県農民一揆は、明治期では最大規模のものです。茨城県や和歌山県の一揆とともに、政府に大きな衝撃を与え、3%であった地租は、2.5%に引き下げられました。

(2009年5月記)

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諏訪公園 初めてのメーデー

2013-08-01 | よっかいち 人権の礎を訪ねて

労働者の権利としての団結      

   諏訪公園 初めてのメーデー

20p2131551

 1906(明治39)年、日露戦争の記念として諏訪神社内に公園が造られ保光苑と呼ばれました。

 その後1908(明治41)年市営公園となり、1915(大正4)年、大正天皇即位式の記念事業として、図書館建築を含む拡張整備がおこなわれ、1916年に諏訪公園と改称されました。

 図書館は、1929(昭和4)年に、昭和天皇即位式の記念事業として熊澤一衛が建物を寄付、現在も交流館、児童館として利用されています。

 古くから多くの人びとに利用された諏訪公園ですが、四日市で最初のメーデーも開催されました。1931年のことです。

 伊勢新聞によると、5月1日午後1時、諏訪公園に集合した参加者は20名でした。「親方制度の撤廃」「労働者農民団結せよ」と書かれた旗を立てて、諏訪新道から関西橋・昌栄橋・築港へ出て北進、寺町通り東紡工場前・大正橋・午越八間通り・西河原町・東海道に出て左折し諏訪公園へと戻るコースをデモ行進しました。
 
 四日市では、前年の1930年、萬古焼の窯元13軒と生地製造業者(職工)70余人が、生地代の値下げをめぐって対立し、一斉休業、不売運動などを展開しています。1931年2月の全国大衆党四日市支部の発会式には、萬古焼の職工が多く参加していました。

 1931年は、国内の労働組合組織率が戦前の最高を数え、労働争議が激発した年でした。また、数次にわたった労働組合法案の上程は、この年の廃案で成立せず、労働組合法の成立・公布は、敗戦後の1945年12月のことでした。

(2009年5月記)


■メーデー略年表 
1886年 5月1日、合衆国カナダ職能労働組合連盟(後のアメリカ労働総同盟 AFL)が、シカゴを中心に8時間労働制要求の統一ストライキ
1890年 AFLが呼びかけた8時間労働制実現のためのゼネストへの共同行動に応えて、ヨーロッパ各地やアメリカなどで第1回国際メーデー開催

【日本】
1905年 平民社でメーデー茶話会
1917年 メーデー記念集会
1920年 第1回メーデー 上野公園 1万人
1921年 第2回メーデー 東京、大阪、神戸、足尾など
1931年 四日市で初めてのメーデー開催
1936年 メーデー禁止
1946年 メーデー復活 第17回 200万人

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四日市公害犠牲者慰霊碑(四日市市北大谷霊園)

2013-08-01 | よっかいち 人権の礎を訪ねて

四日市の空の下で 公害の教訓は活きているか
   
   四日市公害犠牲者慰霊碑(四日市市北大谷霊園)

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20p3081698

 大気汚染をめぐり企業の賠償責任を初めて認めた四日市公害訴訟の判決(1972年7月24日)から5年後の1977年、大谷斎場の敷地内に四日市公害犠牲者慰霊碑が建立され、10月23日に慰霊祭がおこなわれました。

 その後、斎場の整備により、1990年、霊園内の現在地に移転されました。

 1977年建立当時、すでに亡くなられた公害認定患者の方は184名でした。慰霊祭はその後も続けられています。

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(2011年9月24日、1年間の物故者19名、合併前の楠町67名、認定制度実施前の7名を含む985名の冥福を祈った。)

■四日市公害
1959年
  4月 第1コンビナート稼動
1960年
  異臭魚の範囲が、四日市の沖合4キロまで広がる 
  磯津地区でぜんそく症状を訴える人が増加する
  3月 東京築地中央卸売市場「伊勢湾の魚は油臭いので、厳重な検査が必要」と通告
  4月 塩浜地区連合自治会、ばい煙、騒音、悪臭等公害について市に陳情
  8月 四日市市公害防止対策委員会発足
1963年
  この頃より住民運動が活発化する
  黒川調査団勧告
  7月 三重県に公害対策室設置
  8月 四日市市衛生課に公害対策係設置
 11月  第2コンビナート本格稼動
1964年 
  4月 公害患者が肺気腫で亡くなり、初めての犠牲者となる
  四日市地区大気汚染特別調査会答申 四日市はばい煙規正法の指定地域となる。また、 
  この報告で指摘された空気清浄室が、塩浜病院、市立四日市病院、築港病院に設置される
1966年
  7月 地域住民が「死ねば薬もいらず楽になる」との遺書を残して自殺
1967年 
  2月 四日市市議会、第3コンビナートの誘致決定
  6月 公害患者が「ああ、今日も空気が悪い」という遺書を残して自殺
      四日市公害対策協議会が「公害犠牲者追悼・抗議の市民集会」を開催
  7月 三重県公害防止条例公布 (四日市公害の原因である亜硫酸ガスの規制は含まれず)
  8月  公害対策基本法公布、施行
  9月 磯津地区の患者9人が6社に対して津地裁四日市支部に提訴
     (四日市公害訴訟始まる)
 10月 塩浜中学校3年生、発作による呼吸器困難のため病院で亡くなる
1968年
  6月 大気汚染防止法公布
  9月 四日市地域公害防止対策協議会発足
  10月 訴訟提起1年後、四日市公害認定患者の会が発足
1971年
  6月 悪臭防止法公布
 10月 四日市市が、大気汚染防止法に基づく政令市になる
1972年
  3月 第3コンビナート本格稼動
  7月 四日市公害損害賠償裁判判決 
     石原産業が代表して9,500万円の賠償金を支払
     被告6社が控訴断念

20p3151731
碑の前からコンビナートが見えます。

(2009年5月記 2013年8月加筆)

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移設された諏訪公園の市民壇(南部丘陵公園北部ゾーン)

2013-08-01 | よっかいち 人権の礎を訪ねて

非日常の舞台を見つめて 

   移設された諏訪公園の市民壇 
        (南部丘陵公園北部ゾーン)

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 市の中心部の公園として親しまれている諏訪公園は、日露戦争の記念として1906(明治39)年諏訪神社内に造られた保光苑が始まりです。

 その後1908(明治41)年市営公園となり、1915(大正4)年、大正天皇即位式の記念事業として図書館建築を含む拡張整備がおこなわれ、1916年に諏訪公園と改称されました。
 
 諏訪公園の中でも、特に思い出の中で語られることが多いもののひとつに、市民壇があります。野外舞台であった市民壇は、1934(昭和9)年3月、事業家村山清八氏の寄贈により建立されました。

 太平洋戦争中は、「南京陥落戦勝祝賀会」(1937)、「皇紀2600年記念式典」(1940)など、もっぱら戦意高揚のための行事に使われました。

 戦後は近くの幼稚園の運動会、野外映画館、子供の写生会など幅広く活用され、また、メーデーや、四日市公害犠牲者追悼と抗議の市民集会も開催されました。

 市民の非日常の舞台を見つめてきた市民壇は、1990年3月、南部丘陵公園北部ゾーンに移築されました。現在の市民壇の裏には「四日市祭三相」が描かれています。

(2009年5月記)

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20p3021671   

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 海軍燃料廠 「山の工場」 貯蔵庫跡 (泊山小学校北)

2013-07-29 | よっかいち 人権の礎を訪ねて

戦火を逃れ、開発を逃れて

   海軍燃料廠 「山の工場」 貯蔵庫跡 (泊山小学校北)

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手前に見える大きな入り口と、右奥のもう1ヵ所の合わせて2ヵ所

 
 太平洋戦争末期、アメリカ軍の四日市空襲の最大の攻撃目標は、第二海軍燃料廠と周辺の軍需工場でした。
 
 第二海軍燃料廠は、すでに1943(昭和18年)には備蓄原油が枯渇し南方原油も入らないなど操業困難におちいっていましたが、1944年10月から日永の山中に設備の一部が移転されます。原油・製品・装置を疎開させるため、倉庫・住宅・地下工場が建設される計画でした。工場は「山の工場」と呼ばれ、陶製の過酸化水素濃縮装置6基の建設と、ドイツのロケット爆弾の技術情報によるロケット推進燃料が製造される予定でしたが、完成したのは2基のみでした。
 
 空襲を免れた燃料貯蔵庫の入口は、戦後、コンクリートで密閉されました。現在、山の周辺には、密閉された入口が4ヵ所残されており、その内2ヵ所が泊山小学校の北にあります。
 
 戦後の開発で南部丘陵公園や住宅が建設され、景観は激変しましたが、泊山小学校と南部丘陵公園の駐車場、梅林に囲まれたこの一角は、今も戦争の記憶を伝えています。

【参考】
『アメリカ軍が撮影した四日市1945 アメリカ・公文書館所蔵写真より』四日市市立博物館 1996
『三重の戦争遺跡』三重県歴史教育者協議会
「第二海軍燃料廠の地下壕 疎開施設・航空燃料の貯蔵庫」北野保 よっかいち歴史浪漫紀行 

(2009年5月記)


西日野にじ学園の南西側にある2ヵ所
Tyzoukoatohino

Boukuugou20

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