憲法学者・石川健治さん寄稿 「いやな感じ」の正体
この「いやな感じ」の源泉は複合的であるが、そこに〈個の否定〉と〈他者の不在〉が含まれているのは、間違いない。 - 朝日新聞デジタル t.asahi.com/f4oh
「多くの国は、大量破壊兵器の存在を理由に先制的自衛を主張するアメリカに激しく反対した。…アメリカを支持することが日本の国益とこのときに訴えた識者は、今は安保法制懇の主要メンバーとなって、集団的自衛権の必要性を主張している。」 >森達也 t.asahi.com/f3yp
「この国はかつて武力の放棄を決意した。その後に解釈変更を重ねながら再び保持はしたけれど、過剰な自衛への抑制だけは持ちこたえてきた。でも今、その一線が崩れようとしている。集団的自衛の名のもとに」
映画監督・作家 森達也 朝日新聞 t.asahi.com/f3yp
①鈴木一人北大教授による集団的自衛権報道に対する批判は、内部矛盾が激しく、理解に苦しむ。ためにする批判だからだろうか。だが、一貫性をもって主張しなければ、議論をいたずらに混乱させるだけだと思う。
②鈴木氏は集団的自衛権行使の事例について、4月12日にベトナム戦争、プラハの春、2001年のアフガン戦争を大国による小国の介入を例示するNスペを極端な例と批判した。ところが、5月26日にはWWⅡ後の例は、ほぼ全て大国が介入、とする。極端な例どころか典型例だと説明を変えるのだ。
③しかし、6月18日には英豪によるアフガン戦争参戦の例を挙げる朝日を極端な例と批判する。さて、鈴木教授が典型とする集団的自衛権行使の事例は存在するのだろうか。単に、報道に対して「極端」とレッテルを貼り付ける印象操作に終始しているように見える。
④鈴木教授は「極端な例で普遍的な議論をするのは作法がなってない」というが、典型例と特殊例は何かを示さないで、他者の議論を極端と決めつけるだけで、どうして普遍的な議論ができるのか、疑問である。
Nスペで集団的自衛権行使の例としてベトナム戦争、プラハの春、2001年のアフガン戦争が挙げられていたが、いずれも極端な例。ベトナム戦争は米が介入するための口実として使い、プラハの春も同様にソ連が口実にした。アフガン戦争ではアメリカとの連帯を示すためにNATOとして決議したもの。
前RT: 集団的自衛権の議論で「他国のための戦争」に巻き込まれるというのは第一次世界大戦のイメージが強いような気がする。以前もツイートした通り、第二次世界大戦後の集団的自衛権の行使の例は、ほぼ全て大国が介入するときの理屈として「他国のための戦争」をしてきた。
9.11後のアフガン戦争は英豪ともに第二次大戦後初めて集団的自衛権が発動したケース。同じ同盟国でも独や加はイラク戦争には参加しなかった。極端な例で普遍的な議論をするのは作法がなってない。 / 米と同盟、絆も犠牲も 豪州・英国 t.asahi.com/f14w