sanzeのノート

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鎌倉大仏の堂宇は津波で流された、というのは俗説らしい。

2014-04-06 22:55:47 | その他

 

以下は、萬年一剛氏(神奈川県温泉地学研究所)「鎌倉の明応津波~大仏殿は流されたのか?」

(『神奈川県温泉地学研究所観測だより,第 63 号,2013』所収、全文PDFはこちら)の要約である。

年表は見取り図として作成した。

 

●主要年表

1369年 大仏殿転倒(「鎌倉大日記」)

1486年 万里集九、大仏訪問(「梅花無尽蔵」)

1495年 明応四年の相模灘地震(「鎌倉大日記」、「熊野年代記」)

1498年 明応七年の南海トラフ地震(「熊野年代記」)

 

1980年代 鎌倉大日記の明応四年の地震記述は、明応七年の誤記、という研究

2011年 鎌倉大日記の地震記述を、「熊野年代記」と遺跡調査で裏付ける研究

 

 

●大仏殿が津波で流されたという説は、歴史のプロの間では「俗説」

 

「鎌倉大日記(かまくらおおにっき)」は、基本的には年表の類で、治承四年(1180年)から天文八年(1539年)に、主に東国で起きた事件を記した書物

南北朝時代の頃から書き継がれてきたと考えられているが、執筆の経緯や著者は不明、原本も残っていない。

 

「明応四乙卯八月十五日、大地震、洪水、

鎌倉由比浜海水到千度檀、

水勢大仏殿破堂舎屋

溺死人二百余」


現代語訳

「明応四年八月十五日(1495 年 9 月 3 日 )、大地震と洪水があった。

鎌倉由比ヶ浜の海水が千度壇に至った。

水の勢いが大仏殿の堂舎屋を破った

溺死人は二百名あまりを数えた」

 

鎌倉大日記のこの記述について大仏殿が流されたという読み方をするプロ、つまり歴史学者や、歴史地震に詳しい地震学者はほとんどいない。

むしろかなり自信を持って大仏殿が津波に流されたというのを「俗説」として退けている。

鎌倉大日記が津波発生日としている明応四年八月十五日(1495 年 9 月 3 日 )の前に、大仏殿はすでに無かったという文献があるからだ。

 

万里集九(ばんりしゅうく)が書いた「梅花無尽蔵(ばいかむじんぞう)」

室町時代の禅僧である万里集九は、東国を転々としたが、その時の旅行記。

梅花無尽蔵は、鎌倉大日記に比べると書かれた時期や著者がはっきりしていて、鎌倉大日記より信頼性がある。

 

明応四年(1495 年)の9年前にあたる文明十八年十月二十四日(1486年 11 月 20 日)、万里集九は大仏をおとずれた。


「遂見長谷観音之古道場、

相去数百歩、

而両山之間、逢銅大仏仏長七八丈、

腹中空洞、応容数百人背後有穴、脱鞋入腹、

僉云、此中往々博奕者白昼呼五白之処也。

無堂宇而露坐突兀」。


現代語訳

「長谷観音の古い道場を見て、

数百歩行くと、

二つの山の間にある銅で出来た大仏に逢う。高さは7~8丈。

腹の中は空洞であり、数百人は入れる。後ろに穴があって、わらじを脱いで腹の中に入る。

みんなが言うことには、この中に往々にして、ばくち打ちが昼日中からいて、サイコロをふっているという。

お堂は無くて、露座である

 

鎌倉大日記の記述を大仏殿が流されたと読むのは間違えですよ、というのが通説になっている。

じつは、当の鎌倉大日記も、すでに応安二年 (1369年)の記述として「大仏殿転倒」、としている

鎌倉大日記の明応四年(1495 年)にある「大仏殿破堂舎屋」は、津波が大仏殿を壊したのでは無く、大仏殿と関係した建物を壊したと読むのがせいぜいだろう。

 

そもそも、津波が大仏殿に到達するというのは非常に考えにくい。

なぜなら現在の大仏がある地点の標高は 14m ほどあるので、もしこの高さで津波が来たら鶴岡八幡宮の前も、要するに鎌倉市街は大半が浸水してしまい、そうであれば鎌倉大日記の記述もそれなりのものになるはずだからだ。

 

 

●もうひとつの大地震

 

鎌倉大日記の明応津波の日付は、明応四年八月十五日(1495 年 9 月 3 日 )。実は、これに近い明応七年八月二十五日(1498 年 9 月 11 日)に熊野灘付近の南海トラフで発生した地震があった。

 

1980 年代の研究で、鎌倉大日記の日付はこの南海トラフ地震の日付の誤記と片づけられ、この誤記説をもとに、熊野灘の津波が伊豆半島の東側にある鎌倉で大きな被害を及ぼすのは考えにくいということで、津波の記述にさえ疑問が呈された。

 

ところが、ごく最近になって伊東市教育委員会の金子浩之氏の研究(「宇佐美遺跡検出の津波堆積物と明応四年地震・津波の再評価」、『伊東市史研究』 No.10)によって、明応四年(1495 年)の地震は、明応七年(1498 年)の南海トラフの地震とは別に確かに存在し、しかも南関東に甚大な被害を与えたかもしれないということが明らかになりつつある。

 

研究の要点は以下の通り。

・明応四年の鎌倉での地震について書いた文献を、鎌倉大日記以外に探し出した。

・「熊野年代記」という熊野三山の社家が記した記録で、これには明応七年(1498 年)の南海トラフ地震について詳しい記述があることに加え、「明応四年(1495 年)八月十五日乙卯、鎌倉大地震」という記述がある。

・また、静岡県伊東市にある宇佐美遺跡では標高 7.8m のところに、津波堆積物がみつかる。この津波堆積物は考古学的な検討から 15世紀と考えられる。宇佐美で高さ 7.8m を越える大きい津波が15 世紀に発生した、その場合候補は明応四年(1495 年)しかない。

・宇佐美は伊豆半島の東岸なので津波を引き起こした地震は、伊豆半島より西側の南海トラフでは無く、東側の相模灘で発生した、と考えるのが妥当。

 

鎌倉大日記の名誉が少し回復。

 

ちなみに、明応四年(1495年)九月に北条早雲が小田原に入城した。
金子氏は、早雲は津波で壊滅した小田原を奪取したのでは無いかと考えている。

また、早雲は明応七年(1498 年)に伊豆半島を征服しているが、これを明応南海トラフ地震の被災地に乗り込んで、やはり易々と奪取した結果では無いかと考えている。

コメント

伊藤元重教授、真冬の衣替え

2013-02-19 18:06:33 | その他

2012年12月17日

デフレを脱するためには、日本銀行がもっと積極的な金融緩和策をとる必要がある、という意見がある。たしかに日本銀行にはもう少しそうする余地はあるだろう。インフレターゲティングを採用して、デフレ脱却の姿勢を強く市場に打ち出すべきという見方にも一理ある。

ただ、金融緩和政策は今でも相当進められていることも事実だ。すでにジャブジャブになっている金融市場をさらにジャブジャブにして、どこまでデフレ脱却効果があるのかは疑わしい。金融市場をさらにジャブジャブにするのもよいが、その資金を利用して積極的に投資活動を行う企業が増えることのほうが重要である。

 

 

2012年12月25日

政権奪回を実現した自由民主党は、これまで以上に大胆な政策手法によって、デフレからの脱却を実現すると公約している。その手法については賛否いろいろな議論があるが、当面の日本の財政運営に及ぼす影響について注視する必要がある。


2012年12月28日

経済財政諮問会議民間議員内定


2013年1月7日

日本経済を再生するためには、三つの政策の組み合わせが必要となる。一つは、安倍政権が高らかに掲げている景気刺激のためのマクロ経済政策である。インフレ・ターゲットの設定によるさらなる金融緩和効果を狙うとか、当面の景気減速に対応するため規模の大きな補正予算を組むという政策などがこれに当たる。

 

2013年2月19日

リーマン・ショック以降、米国や欧州は量的緩和で大変供給量を増やしたが日銀だけ『すでに金融緩和を十分にやっている』として、ごくわずかしか増やさなかった。日本にある種のデフレ期待を植え付けている結果になった。

安倍晋三首相が大胆な金融緩和を求めていることが市場の期待を変えることになった。恐らく金融緩和が続く、との見方で今の市場の状況になっていると見るべきだ。

学界では有名な話だが、日銀はデフレ脱却に必ずしも積極的ではなかったように見える。過去2回、早い段階で金融緩和を終わらせようとしてデフレを悪くした。

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