近くの草むらで松虫が鳴いている。スタッカートの効いたホイッスルの様だ。小学校時代の体育を思い出す。自分の行き先が正しいのかどうか、迷った時に道案内を請うてみよう。「自灯明」(自らを拠り所とする)など遥か彼方である。この先生なら、何が起こっても逃げ出したりはせず、待っていてくれるだろう。
東京の地下鉄は深い。下りのエスカレーターに乗ると、地の底まで続くかの様だ。ある教えによれば、地獄に落ちた霊は永い年月を掛けて闇の世界(池→森→岩)を降り、妄動を止めていく。最後に透明な氷の世界に辿り着き、浄化されるのだ。現実でも苦労を重ねていれば、心が無垢に成っていくと信じたい。
以前、心霊治療を受けた事がある。病気の部分に念を送り、取り憑いている悪霊を浄化するらしい。実際に症状がすぅ~と軽くなったのには驚いた。費用は20万円程だったか。結局、病気は治らなかった。今では心霊は錯覚、宗教は世界観でしかないと感じているが、あの時、症状が軽くなった事は謎である。
中学生の時であった。真夜中にふと目が覚めると脇腹がくすぐったい。金縛りにも成っている。眼だけ動かすと、ベッドの横に黒い影が蹲っていて、指で脇腹を突っついている。同級生の悪戯かと思ったが、そんな筈もない。翌日、本人にも聞いたが何も喋らない。結局、それが心霊かどうかは謎のままである。
先日見たプラネタリウム『宇宙から見た世界遺産』で、大自然と併せてピラミッドを紹介していた。自然と生活、守るとしたら、どちらであろうか。両方守ることができれば誰も悩まない。選ぶとしたら、やはり生活しかない。全てを分かった上で悪くない方を選ぶ、これが大人の選択というものであろうか。
先日のことだ。自転車を走らせていると、道の真ん中に烏が群がっていた。10羽程だろうか、車が来たらパッと飛び去った。見ると、狸らしきものが転がっている。~鳥葬~ということか、哀れである。般若心経を唱えながら・・・通り過ぎた。「不生不滅、不垢不浄…、無色無受想行識…」
『マリア様がみてる』(今野緒雪著)の学園には、スール(姉妹)制がある。「姉は包み込むもの、妹は支え」なんだとか。玉砕したズンゲン支隊の生き残りの方は、般若心経に死んだ戦友の名前を書き込んでいる。こんな重い荷物は一人で背負いきれない。これを下から押してくれるのが「支え」であるのか。
そういえば、こんな暑い夏の日だったろうか。父方の祖父母が死んだ。祖父が自然死、祖母は後追い自殺であった。葬式の最中、伯叔父達が担ぐ棺から、強烈な臭いが漂ってきた。人の死臭である。一度嗅ぐと忘れられない(動物の死臭の経験は無いが)。そう、人は死ぬと腐ってしまうのだ。
『人間一人の命は地球よりも重い』。このクラインの壺の様な言葉、比喩表現だが評判が良くない。地球上の他の命を無視している様に聞こえるからだろう。しかし、どんな人間でも家族となれば別である。何者にも代え難い。『エゴはエコよりも重い』。この方が人間臭くて良い。二つの点は、自分と家族だろうか。
学校は夏休みである。子供の頃、休み最後の日に宿題をやっていた(お恥ずかしい)。しかし、人生の宿題を死に際にやることはできない。それなりの年頃でもある。「よし、明日から頑張ろう」と、毎日言っていては駄目なのだ。