2016年が始まり1か月が経ちました。皆さまいかがお過ごしでしょうか。今年1年もどうぞよろしくお願いいたします。本日は、最近読んだ本についてご紹介したいと思います。
ひとのこコラム 高橋哲哉『沖縄の米軍基地 「県外移設」を考える』
「県外移設」とは
年の初めに読んで以来、ずっと考えさせられ続けている本が高橋哲哉氏著の『沖縄の米軍基地「県外移設」を考える』(集英社新書、2015年)です。哲学者の高橋哲哉氏が沖縄の米軍基地について自身の考察を述べたものです。書名のサブタイトルにありますように、「県外移設」に焦点を当てて考察がなされています。

ここでの「県外移設」とは、沖縄の「県外」に米軍基地を移設するということですが、「国外」に移設するということは含まれていません。本書の「県外移設」は、米軍基地を沖縄から『本土』※に「引き受ける」ということを意味しています。高橋氏は本書において一貫して、「県外移設」の必要性を主張しています。現在、沖縄に不平等なかたち(0.6%の土地に74%の米軍基地があります)で押し付けている基地を、「本土」が責任をもって「引き取る」べきだという主張です(※「本土」という語は「植民地主義的」考えに基づく表現で、問題を含む語です。本稿では沖縄県以外の地域を、カッコ付きで『本土』と記しています)。
翁長現知事もこれまで、一貫して県外移設を要求しています。本書は、沖縄からの県外移設要求に対する、「本土」からの「応答」という意味合いをもっています。昨年の6月に出版されてから、本書は沖縄では大きな議論を呼んでいるそうですが、「本土」においてはいまだほとんど本格的な議論には至っていません。
「平和」問題ではなく、「差別」問題として
高橋哲哉氏は震災後に出版された『犠牲のシステム 福島・沖縄』(集英社新書、2012年)において、福島の原発の問題と共に、沖縄の基地問題をすでに取り上げています。前著では「県外移設」はその妥当性を示唆するにとどまっていましたが、本書ではそれが主題として展開されています。
高橋氏は前著で、私たちの社会に内在する「構造的な差別」を《犠牲のシステム》と呼んでいました。私たちの社会には、一部の人々の犠牲によって他の人々の利益が維持されているという《犠牲のシステム》がある。3・11を機に、私たちの社会に内在するそれら病理が可視化された。その端的な例が福島の原発であり、沖縄の米軍基地であると高橋氏は述べています。
この《犠牲のシステム》という視点から基地問題を問い直してゆくと、「県外移設」という判断に至るのは高橋氏においては当然の帰結であったことでしょう。犠牲を一部の人々・地域に押し付け続けるという「構造的な差別」を解消するためには、全国で「平等に負担する」という判断に至るのは当然のことであるからです。論理的に当然の帰結であると同時に、それは大きな決意を伴うものであったことと思います。覚悟をもって高橋氏は本書を記しているであろうことを感じました。
高橋氏は代表的な県外移設論者である野村浩也氏の『無意識の植民地主義 日本人の米軍基地と沖縄人』(2005年)や、知念ウシ氏の『シランフーナー(知らんふり)の暴力 知念ウシ政治発言集』(2013年)などの著書を繰り返し参照しています。これら著書が問いかける内容は、「本土」で生活する私たちにとって「耳の痛い」話です。私たち「本土」の人間の姿勢の根幹には、沖縄に対する「差別」、意識的・無意識的な「植民地主義」が横たわっていることが指摘されているからです。もちろん、多くの人々にとって「自分が沖縄を差別している」という意識はないことでしょう。しかしその差別とは、私たちが意識する・しないに関わらず、私たちが「本土」の人間が沖縄の米軍基地に無知または無関心でいる限り生じてしまっている「構造的な差別」であるのです。
本書はその「構造的な差別」を問題としています。安保を廃棄し基地を撤廃させるという「平和」問題ももちろん重要ですが、その目標と同時進行で――言い換えるとより喫緊の課題として、沖縄の人々に今現に強いている「差別」的扱いを止めるべきことが訴えられているのが本書です。
従来の反戦平和運動・護憲運動に対する問いかけ
これまでの反戦平和運動が第一の命題としてきたのは、「安保廃棄」であり「全基地の撤廃」でした。しかしその懸命なる努力にも関わらず、沖縄の基地問題は解決されることなく、数十年が経過してしまいました。解決されることなく今日にまで来てしまったのは、一体どこに問題があったのでしょうか。
本書を読んで気が付かされることは、沖縄の基地問題が今まで解決されてこなかったのは、その本質に「差別」の問題があったからではないか、ということです。日本政府の姿勢の根幹に、また私たち「本土」の国民の意識の根幹に、沖縄に対する「差別」がある。意識的・無意識的なその「差別」の構造に気が付かない限り、沖縄への基地の「押し付け」という問題は解決しないのではないか。
高橋氏は、「基地は沖縄にも本土にもいらない」という従来の反戦平和運動の主張が、「沖縄からの基地の県外移設を拒否する」論理になってきたことを率直に指摘しています(本書第3章参照)。「安保廃棄・基地即時撤去」と唱え続けることが、むしろ県外移設に「反対する」立場に人々を立たせていたという現実。これまでの運動は今根本的な見直しを求められていると高橋氏は述べています。
反戦平和運動が主張する「安保廃棄、全基地撤去」という約束は、何十年経っても果たされていない。今後もしそれが実現するとして、奇跡的に早く進んでも、それは数十年はかかるであろう(ダグラス・ラミス氏の指摘。本書101頁参照)。沖縄の人々からすると、「いつまで待たせるのか」、「もう待てない」というのが率直な想いなのではないか(と高橋氏は受け止めています)。
また沖縄という地は、「反戦平和」のためにあるのではない。《沖縄の人びとは、二度と沖縄戦のような悲惨な戦場にされないために、生き延びるために、基地のない沖縄でただ平穏な生活を送りたいために、自分たちを脅かすものに対してやむを得ず抗議の声を上げているのである》(109頁)。
「安保解消」を主張する人々は、基地を沖縄に置いたまままでそれをするのではなく、「本土」に引き取った上で、それを目指すべきだというのが本書の主張です。それが「本土」に住む私たちの責任である。でないと、「本土」の私たちは結果的に沖縄に依存し続けることになってしまうのではないか。
高橋氏の批判的な問いかけは、これまでの護憲運動にも向けられています。憲法九条が日米安保条約と「セット」で存在してきたことはすでに自明の事実となっています。そして憲法九条と日米安保体制は、沖縄を「犠牲」にすることによって成り立って来たものです。高橋氏は、沖縄の基地問題に関して言えば、「憲法九条を守り続けるだけではまったく解決に至らない」のだということを率直に指摘しています(23頁)。
高橋氏自身も立場としては護憲であるし、日米安保体制もやがて解消されるべきという考えをもっています。不条理な日米地位協定を解消し、日本からの米軍基地の撤廃を目指して私たちは、取り組んでゆかねばならない。それが目標であることは橋氏にとっても変わりはありません。
ただし、それら基地撤廃に向けての「長期的な」取組みと、県外移設とは両立し得るのだというのが高橋氏の考えです。安保解消に向けてのいわば「段階的な」取り組みとして、県外移設は必要である。
私なりに整理すると、「安保解消・全基地撤廃」は長期的な「平和」の問題を問うており、「県外移設」は「差別」の問題を問うている、ということになります。その二つは両立し得るのであるし、まず「差別」問題に取り組むことこそが喫緊の課題であるというのが高橋氏の主張ということになるでしょう。沖縄への基地の押し付けを「現状維持」させているのは「本土」の人間による沖縄への「差別」であるからです。本書が問題にしているのは、将来的な「平和」の実現ではなく、その前段階としての、今現にそこにある沖縄の人々への「差別」(人権侵害)の解消です。
「本土」の国民の責任の所在
現在、圧倒的多数の「本土」の国民は、現在の日米安保体制を支持しているそうです(『朝日新聞』の世論調査では約8割が支持。本書84頁参照)。であるとすると、沖縄にある米軍基地は本来、「本土」の責任において引き受けるべきものであると高橋氏は述べます。「本土」の国民こそが、日米安保体制の当事者なのです。しかし「本土」はその責任を自覚していないし、果たしていない。「本土」の国民の多くは、沖縄に強いる「犠牲」には無自覚なまま、その利益だけを享受しているというのが現状です。県外移設の実現を拒んでいるのは、他ならぬ「本土」の私たち国民自身なのではないかとは高橋氏は問いかけます。
「県外移設」という問題を「本土」で受け止めることによって初めて、国民のうちに当事者意識も生まれるのではないか。日米安保体制を、その負担とリスクを含めて、本格的に議論できるようになるのではないかと高橋氏は述べています。氏は本書において、「本土」の国民の責任の所在をはっきりと問うています。
実際、いまだ小規模ではありますが、沖縄の米軍基地の「引き取り」運動が市民の中から生まれてきているそうです。たとえば大阪では市民によって「引き取る行動・大阪(沖縄差別を解消するために沖縄の米軍基地を大阪に引き取る行動)」が立ち上げられ、福岡では「FIRBO(本土に沖縄の米軍基地を引き取る福岡の会)」が立ち上げられています。
県外移設は「犠牲の移転」か?
以上述べてきた「県外移設」という選択肢について、それは犠牲を沖縄から「本土」に移すだけで《犠牲のシステム》の解消にはならないのではないかという意見があります。その意見に対し、高橋氏はあらかじめ本書において反論を試みています(119‐125頁)。県外移設はあくまで今まで沖縄に負担を押し付けていたものの「引き取り」であり、「犠牲の移転」ではない、というのが高橋氏の捉え方です。《「本土」の国民にとって米軍基地負担は、自らの政治的選択の結果として、本来引き受けるべき責任と言うべきものではなかろうか。もしも県外移設によって米軍が沖縄から「本土」に移転し、それによって耐え難い犠牲を生じるというのであれば、それは「本土」は自らの責任で除去すべきものではないのか》(120頁)。
高橋氏のこれら論理はまっとうであると同時に、或る「厳しさ」を含むものです。基地を「引き取る」ということが実現したとしたら、その地域の人々はもはや、今までどおりの生活をすることはできなくなるでしょう。基地が間近に存在する負担とリスクを日々引き受けて生活をしなければならなくなるでしょう。その時初めて、今までいかに自分たちが沖縄の人々に負担を強いていたかを身をもって理解するということは、確かにあるでしょう。また、高橋氏の言うように、沖縄の人々に今まで敷いてきた圧倒的負担に比べれば、「本土」が全国で引き受けるそれら負担は「犠牲」とは呼べないほど軽微なものであるのかもしれません。しかし、県外移設によって、新たに負担が強いられる人々が生じるというのもまた確かなことです。
私はこれら高橋氏の考え方の中に、「自己処罰」のニュアンスを感じています。ここでの「処罰」とは、あくまで、高橋氏自身を含めた「本土」の人間が自身に課す「処罰」であるわけですが、果たして私たちはその「自己処罰」を他者に強要できるでしょうか。たとえば、自分の住む花巻市で米軍基地を「引き受ける」運動をしたとして、私自身は移設に「賛成」であるとしても、その意思のない近隣の人々に強要することが果たしてできるでしょうか。
また、全国で平等に基地を「引き取る」と言っても、基地に隣接する地域とそうではない地域には不平等が必ず生じます。米軍基地を全国で引き取るとしても、そこに完全な「公平さ」を実現するというのは難しいことでしょう。
そもそも、「県外移設」だけが唯一の選択肢なのでしょうか。いまだ私自身も、はっきりとした答えが出ていません。
「現状維持」からの脱却
私自身、本書の提示する問いの前で、いまだ考え続けている状態ですが、一つ言えることは、私たちはこれからこの「県外移設」の議論を避けて通れないし、大々的に問い続けてゆかねばならないということです。少なくとも、私たちは「現状維持」に甘んじている状態からは脱却するべきでしょう。私たちがこれからどのような選択をするにしても、沖縄の人々に対して「差別者」であり続けることをやめる決意をせねばなりません。現在の社会の構造を根本から見直し、私たち自身が「変わってゆく」ことが求められています。その際、何らかの痛みは伴わざるを得ないのかもしれません。
喫緊の問題として、私たちの目の前には辺野古への新基地建設の問題があります。最後に、辺野古問題についての高橋氏の意見を紹介して終わります。皆さんはどうお考えになるでしょうか。
《「本土」の私たちは、日米安保条約を即刻終了させるという見通しが立たないならば、辺野古の工事の即時中止を要求するだけでなく、「では普天間を固定化するのか」という脅しに対して、「県外移設」の選択肢を提示すること、政府に「県外移設」の可能性を徹底的に追求するよう要求することをもって、応えるべきだ》(『ポリタス』「特集:沖縄・辺野古――わたしたちと基地問題」、高橋哲哉氏の論考『「本土」のわたしたちは「県外移設」を受け入れるべきだ』、2015年6月30日 より)。