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ひとのこ通信

「ひとのこ通信」のブログ版です。

日本と空爆(1)

2016年12月30日 | 日記

2016年ももうすぐ終わろうとしています。皆さま、どうぞ良い年末年始をお過ごしください。

1、空爆の歴史

 先日、映画『この世界の片隅に』を観てきました。戦時中の広島の呉に生きる人々を描いたアニメ作品です(監督:片渕須直、原作:こうの史代)。主人公たちの日常が生き生きと描かれ、観る私たちの心に、生きることのいとおしさをともしてくれる作品でした。だからこそ、主人公たちが容赦なく空襲にさらされる場面には胸が痛みました。無差別爆撃、機銃掃射の描写はリアリティーがあり、恐ろしさを感じました。

 8月10日の記事で「花巻空襲」について取り上げました。その後、空爆の歴史について自分なりに調べたいと思い、数冊の本を参照していました。これら著作を参照しながら、誠に簡単ではありますが日本の空爆の歴史について概観したいと思います。この度参照したのは吉田敏浩『反空爆の思想』(NHKブックス、2006年)荒井信一『空爆の歴史――終わらない大量虐殺』(岩波新書、2008年)、前田哲男『新訂版 戦略爆撃の思想 ゲルニカ、重慶、広島』(凱風社、2006年)です。


2、訂正とお詫び 

 まず、8月10日の記事で記した内容について、訂正がございます。前号で加藤昭雄氏の『花巻が燃えた日』(熊谷印刷出版部、1999年)を引用した際、「1931年の『錦秋爆撃』おいて、日本軍が史上初の無差別爆撃を初めて行った」という趣旨のことを記しましたが、無差別爆撃自体はすでに第一次世界大戦において行われていました。加藤氏の文章は、正確には「第二次世界大戦において、都市無差別爆撃を初めて行ったのは日本軍の『錦秋爆撃』であった」というものでした。無差別爆撃そのものを歴史上初めて行ったのが日本であったと加藤氏が記しているわけではありません。私の読解が不十分でした。お詫びいたします。

 つまり、「錦秋爆撃」は、(1)日本軍にとっては初めての都市への無差別爆撃であった、(2)第一次世界大戦後における初めての都市への無差別爆撃であった、ということになります。また錦州爆撃は(3)中国が初めて経験した都市への空襲であったともされているようです。日本軍が投下した爆弾は75発。結果、市民14人、兵士1人、ロシア人1人が死亡、20人以上が負傷しました(中国側の報告)。

《すでに日本陸軍は、一九三一年の満州事変のときに錦州爆撃を行っていた。・・・第一次世界大戦後以来最初の都市爆撃として喧伝されたために、世界に衝撃を与え、国際連盟の対日態度も硬化し、日本の連盟脱退の遠因ともなった》(荒井信一『空爆の歴史――終わらない大量虐殺』岩波新書、51頁)

 その後日本が突き進んでゆく歴史を鑑みても、この「錦秋爆撃」は見落とすわけにはいかない出来事であると言えるでしょう。


3、日本の空爆の歴史 ~被害と加害の側面

 日本の空爆の歴史には、被害と加害の側面があります。私たち日本に住む者が瞬時に思い起こすのは、東京大空襲を初めとする、アメリカ軍による日本全国の都市への無差別爆撃でありましょう。1945年3月10日の東京大空襲では、たった一晩で10万人もの人々が命を奪われました。無差別爆撃では、世界史上最大規模の虐殺であると言われます。日本全国に行われた無差別都市爆撃によって命を奪われた人々はおよそ50万人にものぼります。そして、8月6日には広島に、9日には長崎に原爆が投下されました。

 これら言語を絶する悲惨な歴史を決して忘れないと共に、そのような悲劇に至った歴史もまた私たちは忘れず、理解を深めてゆく必要があるでしょう。その歴史は、加害の歴史でもあります。

 日本軍による初めての空爆は、1914年9月に行われた「青島攻撃」であるそうです。中国の青島に植民地をもつドイツ軍に対して行われました。またその際、青島の市街にも爆撃を行ったと言われています。住民に被害が出たかは記録に残っていません。先ほど「錦秋爆撃」が「日本軍にとっては初めての都市無差別爆撃であった」、「中国が初めて経験した都市無差別爆撃であった」と記しましたが、この「青島攻撃」においてすでに民間人が居住している場所に爆弾が投下されていることが分かります。《日本軍による空爆の歴史も、始まりにおいてすでに民間人も住む市街を爆撃していたという事実は象徴的である》(吉田敏浩『反空爆の思想』、134頁)

 空爆について記された本を読むと、そもそも、あらゆる空爆は「無差別性」を含むのだということを痛感させられます。またそして、最も空爆の犠牲になるのは子ども、女性、高齢者などの弱者であるという意味で、同時に空爆は「差別性」も含むと吉田敏浩氏は指摘しています

 世界史上初めての大規模な都市無差別爆撃は、1937年4月26日に行われた「ゲルニカ爆撃」です。パブロ・ピカソの「ゲルニカ」によっても人々の記憶に刻まれています。

 日中戦争において、日本軍による無差別爆撃が拡大してゆきます。日本軍による最大の無差別爆撃は「重慶爆撃」です。1938年12月より、中国重慶の市街地を標的にした無差別爆撃として行われました(同、156頁)。この重慶爆撃は、《「戦政略爆撃」なる名称を公式に掲げて実施された最初の意図的・組織的・継続的な空中爆撃》でした(前田哲男『新訂版 戦略爆撃の思想 ゲルニカ、重慶、広島』、25頁)。中国側の資料によれば、1938年10月から1943年8月までの5年間に、空襲218回、投下爆弾数21593発、焼失家屋17608棟、死者11889人、負傷者14100人。さらに、1941年6月5日の空襲において防空壕に避難して窒息死や圧死した市民数千人を含めると、死傷者はもっと多くなるとされています吉田敏浩『反空爆の思想』、158頁)。

 日本軍の中国への無差別爆撃と、その後日本に対して行われるアメリカ軍の無差別爆撃には因果関係があることが指摘されています重慶爆撃は東京大空襲に先立つ「無差別爆撃の先例」であり(前田、25-26頁)、その後、アメリカによる日本への無差別爆撃の「正当化の根拠」を与えることにつながっていったのです(吉田、171~173頁)。

 私たちは空爆について考察するとき、これら被害と加害の歴史を踏まえねばならないでしょう。



岩手地区教育集会 「キリスト教と性 ~わたしの目に、あなたは価高く、貴い」

2016年12月10日 | 日記

 11月26日(土)、私が牧師をしている花巻教会を会場として、岩手地区教育集会が行われました。教育集会は毎年、岩手の教会の信徒の方々の学びを目的として開かれているものです。昨年度から私も教育委員の一人として関わっておりますが、今年は集会の主題を「キリスト教と性――わたしの目に、あなたは価高く、貴い」としました。教会においては普段、あまり性の問題については話す機会がないかと思いますが、私たちにとってとても大切な課題です。

 講師に工藤万里江さんをお招きしました。工藤さんはキリスト教におけるセクシュアリティとジェンダー、クィア神学をご専門としておられます(訳書にP・チェン『ラディカル・ラブ――クィア神学入門』新教出版社、2014年)。

 以下、花巻教会が発行している『花巻教会だより』に「巻頭メッセージ」として載せた文章を転載いたします。

 11月26日、花巻教会を会場として岩手地区教育集会が行われました。今年の主題は「キリスト教と性――わたしの目に、あなたは価高く、貴い」です。教会においては普段、あまり「性」の問題について話す機会がないかと思いますが、私たちにとってとても大切な課題です。講師に工藤万里江さんをお招きし、とても豊かな学びの時になりました。

 午前の部では、「『普通』って何だろう?」というテーマで、講師の工藤さんよりお話をいただきました。私たちにはそれぞれ、自分の中に「普通のこと」があります。しかし、自分にとって「普通のこと」も、他の人にとってはそうではない、ということがあります。

 自戒を込めて私自身が考えたことは、私たちは自分の「普通」を誰かに押し付けてしまってはいないだろうか、ということです。たとえば、私たちの社会では「男は男らしく」とか「女は女らしく」ということが言われることがあります。しかしそれは自分が考えている「普通(~らしく)」を他者に押し付けてしまっている状態であるのかもしれません。

 それは、「誰を愛するか」という事柄についても同様です。これまでの歴史においては、男性であれば女性が好きになる、女性であれば男性が好きになる、そのように「異性を愛する」のが「普通のこと」とされてきました。そしてそうではないこと、すなわち「同性を愛すること(同性愛)」は「普通ではないこと」とし差別されてきたという歴史があります。それはキリスト教会においても同様です。むしろ悲しむべきことに、これまでは教会が率先して、同性愛の方々への差別を助長し、迫害をしてきたということがありました。そのような歴史は、はっきりと「過ち」でありました。

 工藤万里江さんは、私たちはそれぞれ自分の中の「普通=規範」を問い直す作業が大切であるということを述べてらっしゃいました。私たちが自分自身の「普通」を問い直す時、神さまが創造されたこの世界の豊かさに、より気づいてゆきます。私たちの生きる世界は実に「多様性」に満ちていることに気が付いてゆきます。

 それは「性」についても同様です。性には「多様性」がある。その多様性こそが、創造主なる神さまの目から見て「自然なこと」なのであるということを、講演を通して改めて教えていただきました。もちろん、私たちは自分の固定観念を一瞬で変えるということは難しいでしょう。たとえ時間はかかっても、少しずつ変わってゆく、変わり続けてゆくという姿勢が大切であるのだと思います。

 重要なことして工藤さんが挙げてらっしゃったのは、「人との出会い」です。

 たとえば、自分は異性を愛するという人が、同性を愛する人について理解をする際、概念として頭で理解するだけはなく、その人と実際に出会ってゆくことが大切であるのだ、と。いま生きている人と出会い、その人の抱えている辛さや痛みと実際に出会うことによって、私たちは少しずつ変えられてゆくということを工藤さんは強調しておられました。

 私たちがそのように心の向きを変えるとき、かけがえのない出会いもまた与えられてゆくのではないでしょうか。そしてそれら人との出会いを通して、イエス・キリストは私たちのもとに近づいてくださっているのだと私は受け止めています(マタイによる福音書25章40節)。人との出会いの中で、キリストは私たちのもとに「到来(アドベントゥス)」してくださっているのだと信じています。

 キリストはいま、私たちの間に立って、一人ひとりが、神さまの目から見てかけがえなく貴いということを語りかけておられます。「わたしの目に、あなたは価高く、貴い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ書43章4節)

 かけがえのないあなたが、あなたらしく、喜びをもって生きてゆくことが、神さまの願いであるということを伝えてくださっています。私たちが互いに互いを尊重し、大切にしあうことができたとき、喜びの中でこの福音の言葉はよりいっそう、私たちの間で輝き始めることでしょう。「わたしの目に、あなたは価高く、貴い」――この命の光の言葉を心にともし、アドベントの時をご一緒に歩んでゆきたいと願います。

(花巻教会だより 第5号『巻頭メッセージ』より転載、2016年11月27日発行)


集会のご案内

2016年09月27日 | 日記

 11月26日(土)に「キリスト教と性 ~わたしの目に、あなたは値高く、貴い」をテーマに教育集会を行います(日本キリスト教団 奥羽教区 岩手地区教育委員会主催)。

 講師に工藤万里江さんをお招きし、基本的な知識についてレクチャーをいただくと共に、「多様な性」の在り方を受けて、私たち教会がいま何を大切に考えるべきかをご一緒に考える時を持ちたいと思っています。

 岩手地区の教会の信徒の方々を対象とした集会ではありますが、ご関心のある方は、どうぞどなたでもご参加ください。

 


花巻空襲から71年

2016年08月10日 | 日記

花巻空襲

 本日8月10日は、私の住む花巻では「花巻空襲」があった日として記憶されています。正午には、花巻空襲の犠牲者を追悼するサイレンが鳴っていました。

 JR花巻駅ロータリーには、「やすらぎの像」と呼ばれるモニュメントが建っています。モニュメントの女性像は右手に平和の象徴である鳩をとまらせ、左手には「こぶし」の木(花巻市の木)を持っています。

 

 1995年、花巻空襲50周年を記念して建立されたものですが、この「やすらぎの像」の裏には、空襲の被害の記録を記したプレートが掲げられています。


《昭和20年(1945年)8月10日ひる

来襲 米軍艦載機グラマン15機

投下爆弾 20個(推定)

機銃掃射 各所

死者 42名

負傷者 約150名

焼失家屋 673戸

倒壊家屋 61戸

資料 花巻市中央公民館発行「忘れまいあの日」より》。

 


 加藤昭雄氏の『花巻が燃えた日』(熊谷印刷出版部、1999年)という本では、花巻空襲による死者は少なくとも47名で、身元の分からない人々を加えると、60名近く、あるいはそれ以上にのぼるのではないかと記されています(20頁)。

「やすらぎの像」が建つ花巻駅前は空襲によって最も被害を受けた場所であったようで、駅前地区だけでも少なくとも32名が死亡したそうです。負傷者も多数、建物等も大きな被害を受けました。

 私が牧師をしている花巻教会は空襲の直接的な被害はなかったようですが、教会の記念誌には「教会堂の筋向いに爆弾が落ちて会堂の窓ガラスがめちゃめちゃになってしまった」との証言が残されています(中村陸郎氏の文章より)。

 一方で、教会が隣接する花巻の中心街は、空襲による火災によって甚大な被害を受けました(同書、19頁)。 
 落とされた爆弾は4発だけでしたが、1発の爆弾によって上がった火の手が西風にあおられて燃え広がり、現在の上町・双葉町・豊沢町・東町のほとんどを2日間にわたって焼き尽くしたそうです。花巻の中心街の死者10名はすべて爆弾および機銃掃射によるもので、火災による死者は出なかったそうですが、この大火災によって673戸もの建物が焼失したとのことです(当時の花巻町全戸数の約5分の1)。《燃えに任せた焼け跡はまさに焼け野原と呼ぶにふさわしく、家々は柱も残らないほどに焼け落ち、黒焦げになった土蔵だけが点々と残っていた》(同書、217頁)。

 火災によって焼失した家屋の一つに、宮沢賢治氏の生家がありました。賢治さんは敗戦の年の12年前にすでに亡くなっていますが、当時の豊沢町の生家には賢治さんの両親と弟の清六さん、また東京から疎開してきていた高村光太郎氏が暮らしていました。弟の清六さんが、ちょうど空襲の前日に光太郎氏の身の回りの品やお兄さんの原稿を防空壕に移していたおかげで、賢治さんの原稿は焼失を免れたとのことです。

 花巻に住む者として、この空襲の日のことを忘れず、記憶にとどめ続けてゆきたいと思います。

 

無差別爆撃としての空襲

 加藤昭雄氏『花巻が燃えた日』の中に、「無差別爆撃の思想」という項があります。花巻空襲の犠牲者は1歳から65歳のお婆さんまで、そのほとんどが民間人です。軍関係者は3名のみで、この3名も列車で移動中にたまたま空襲にあった非戦闘員であったとのことです(同書、284頁)。すなわち、花巻空襲も、戦闘員と非戦闘員の境界を取り払った「無差別爆撃」であったことを加藤氏は強調しています。

 加藤氏の著書の中で私が知ったのは、この「無差別爆撃」を初めて行ったのは日本軍であった、ということでした。1931年の満州事変における「錦秋爆撃」において、日本軍は史上初の無差別爆撃を行った、と加藤氏は述べています(同書、285頁(追記:加藤氏の文章は、正確には「第二次世界大戦において無差別都市爆撃を初めて行ったのは日本軍の『錦秋爆撃』であった」というものでした。無差別爆撃そのものを歴史上初めて行ったのが日本であったと加藤氏が記しているわけではありませんでした。筆者の読解が不十分でした。無差別爆撃」自体は、第一次大戦においてすでに行われています。お詫びして訂正いたします。2016.11.18)

 関東軍航空部隊が落とした75発の爆弾のうち、半数以上は軍関係施設を逸れ、錦秋駅近くに落下、15名の民間人の死者を出しました。のちに国際連盟のリットン調査団はこの爆撃の「無差別性」を厳しく批判しました。

 この無差別都市爆撃を組織的、大規模なものに発展させたのが、ピカソの『ゲルニカ』で知られる1937年のナチスドイツによる「ゲルニカ空爆」でした(同書、19頁。)。

 このナチスドイツによる無差別爆撃の戦法は、さらに日本軍に受け継がれてゆきます。1938年から始まる日本による中国四川省重慶に対する空襲(重慶空爆)はおよそ5年の長さにわたって繰り広げられ、結果、死者1万以上という惨禍をもたらしました(286‐287頁)。そのほとんどが非戦闘員である民間人でした。日本軍は相手国の戦意を喪失させるために、意図的に人口が過密する住宅街を狙ったのです。

 日本軍の「重慶空爆」によって確立された「無差別爆撃の手法」はさらにアメリカに引き継がれ、それが日本全土に対する大規模な空襲と、広島・長崎に対する原爆投下となってはね返ってきた、と加藤氏は述べます(288頁)。日本が手を染めた「無差別爆撃の手法」は、最後に、何十倍、判百倍もの規模の大量虐殺となって、自国に降りかかってきたのです。

 皆さんもよくご存じのように、空襲としての史上最大の大量虐殺となった3月10日の東京大空襲の死者は10万人以上、日本全土の150の都市に対する空襲による死者は計50万人以上。広島と長崎の原爆による死者は、その年だけで、合わせて20万人以上に上ります。これら虐殺によって失われた一人ひとりの命が、代替不可能な、かけがえのない命でした。

 満州事変に始まる「無差別爆撃」の狂気は、ここに極まりました。私たちは何としてでも、この狂気の連鎖に抗ってゆかねばなりません。     



一人の人間として

2016年07月14日 | 日記

 前回の更新から時間が空いてしまいました。その間に取り掛かっていたことも、また少しずつお知らせできればと思います。

 …

 先週の9日(土)、花巻にて自主上映された、長谷川三郎監督『広河隆一 人間の戦場』(2015年)の自主上映会を観に行ってきました。フォトジャーナリストの広河隆一氏を追ったドキュメンタリー映画です。

 

2015年/日本/98分/DCP/BD/ドキュメンタリー

 広河隆一氏はフォトジャーナリストとしての著名な方ですが、ジャーナリストの活動に留まらず、さまざまな救援活動を行われています。たとえばこれまで、パレスチナの子どもたちを支援する「パレスチナの子どもの里親運動」、チェルノブイリの子どもたちを支援する「チェルノブイリ子ども基金」の設立・運営に尽力されてきました。また2011年の原発事故以後は、福島のこどもたちのために、保養センター「沖縄・琉美(くみ)の里」を沖縄に設立されています。

 タイトルともなっている「人間の戦場」とは、「人間の尊厳が奪われている場所」のことを指しているそうです。広河氏は、世界中を取材する中で、人間の尊厳がないがしろにされている状況を目の当たりにし、それを「人間の戦場」と呼んできました。パレスチナ、チェルノブイリ、そして沖縄、福島――。「人間の戦場」は、私たちの近くに、遠くに、至るところに見いだされます。

 映画の中で、非常に心に残った広河氏の言葉があります。広河氏の活動が「ジャーナリストの役割を超えているのでは……?」という問いに対して氏が答えた言葉です。広河氏は、自分は「ジャーナリストである前に、一人の人間である」と答えました。

《「たしかに超えていると思う。でも、超えなきゃいけないと僕は思うんです。…ジャーナリストは見たものを伝えるのが仕事で、それ以上介入すべきでないと言う人がいるけれど、それは間違いだと思う。ジャーナリストである前に、自分が何かと言ったら人間です。人間という大きなアイデンティティのなかに、ジャーナリストというアイデンティティが包まれているんです。…」》(『広河隆一 人間の戦場』パンフレットより)

 広河氏の言葉は映画のコピーともなっています(《ジャーナリストであるまえに、ひとりの人間として》)。この広河氏の言葉は、私が最近考えていたことと、まったく同じで、深く共鳴をいたしました。私も一人の人間としての自分に立ち帰り、常にそこから物事を見つめ、言葉を発してゆきたいと願っていたからです。「ひとのこ通信」の「ひとのこ」という言葉も、「一人の人間」という意味で用いています。

 私たちは普段の生活において、さまざまなグループに属しています。大きな括りにおいては国家や民族に属し、また個人的なつながりにおいては組織、団体に属しています。それぞれのグループにそのグループなりの見解や立場があります。見解や立場の相違に応じて、党派が形成されてきます。

 私たちは党派に属する中で、多くの場合、それに忠実であることが求められることと思います。「自分がどう思うか」「自分がどう感じるか」ではなく、党派の主張に自分を合わせてゆくことが求められます。そのようにして党派の一員となってゆき、その状態は私たちに安心感は連帯感を与えてくれることでしょう。ただし、それと引き替えに失ってゆくのが、代替不可能な「個」としての自分です。

 私たちはいま、それぞれが、「個」としての自分に立ち帰ってゆくことが切実に求められているように思います。「〇〇である前に、一人の人間としての私」に立ち還ってゆくことです。たとえば私自身で言うと、「牧師である前に、一人の人間である」ということを、常に心に刻んでいたいと思っています。

 そうして私たちが代替不可能な「個」に立ち帰ってゆくことが、これからの時代状況に立ち向かう不可欠な力となってゆくのだと信じています。それはまことに小さな、最小単位の力でしかないのかもしれません。しかしそれはそれ以上分割することのできない力であり、他とは代替することのできない、実質をもった力です。

 1970年代、ベトナム戦争の最中、山口県の米軍岩国基地で、反戦活動をしていた兵士たちは、こう言っていたそうです。「兵士である前に人間であれ」(岩井健作『兵士である前に人間であれ ―反基地・戦争責任・教会―』、ラキネット出版、2014年)。

 勇気を出して、「人の子=一人の人間」に立ち還り、そこから目の前にある現実に向かい合ってゆきたいと願っています。

《彼はわたしに言われた。「人の子よ、自分の足で立て。わたしはあなたに命じる。」/彼がわたしに語り始めたとき、霊がわたしの中に入り、わたしを自分の足で立たせた》(旧約聖書『エゼキエル書』2章1‐2節)。