2016年ももうすぐ終わろうとしています。皆さま、どうぞ良い年末年始をお過ごしください。
1、空爆の歴史
先日、映画『この世界の片隅に』を観てきました。戦時中の広島の呉に生きる人々を描いたアニメ作品です(監督:片渕須直、原作:こうの史代)。主人公たちの日常が生き生きと描かれ、観る私たちの心に、生きることのいとおしさをともしてくれる作品でした。だからこそ、主人公たちが容赦なく空襲にさらされる場面には胸が痛みました。無差別爆撃、機銃掃射の描写はリアリティーがあり、恐ろしさを感じました。
8月10日の記事で「花巻空襲」について取り上げました。その後、空爆の歴史について自分なりに調べたいと思い、数冊の本を参照していました。これら著作を参照しながら、誠に簡単ではありますが日本の空爆の歴史について概観したいと思います。この度参照したのは吉田敏浩『反空爆の思想』(NHKブックス、2006年)、荒井信一『空爆の歴史――終わらない大量虐殺』(岩波新書、2008年)、前田哲男『新訂版 戦略爆撃の思想 ゲルニカ、重慶、広島』(凱風社、2006年)です。
2、訂正とお詫び
まず、8月10日の記事で記した内容について、訂正がございます。前号で加藤昭雄氏の『花巻が燃えた日』(熊谷印刷出版部、1999年)を引用した際、「1931年の『錦秋爆撃』おいて、日本軍が史上初の無差別爆撃を初めて行った」という趣旨のことを記しましたが、無差別爆撃自体はすでに第一次世界大戦において行われていました。加藤氏の文章は、正確には「第二次世界大戦において、都市無差別爆撃を初めて行ったのは日本軍の『錦秋爆撃』であった」というものでした。無差別爆撃そのものを歴史上初めて行ったのが日本であったと加藤氏が記しているわけではありません。私の読解が不十分でした。お詫びいたします。
つまり、「錦秋爆撃」は、(1)日本軍にとっては初めての都市への無差別爆撃であった、(2)第一次世界大戦後における初めての都市への無差別爆撃であった、ということになります。また錦州爆撃は(3)中国が初めて経験した都市への空襲であったともされているようです。日本軍が投下した爆弾は75発。結果、市民14人、兵士1人、ロシア人1人が死亡、20人以上が負傷しました(中国側の報告)。
《すでに日本陸軍は、一九三一年の満州事変のときに錦州爆撃を行っていた。・・・第一次世界大戦後以来最初の都市爆撃として喧伝されたために、世界に衝撃を与え、国際連盟の対日態度も硬化し、日本の連盟脱退の遠因ともなった》(荒井信一『空爆の歴史――終わらない大量虐殺』岩波新書、51頁)。
その後日本が突き進んでゆく歴史を鑑みても、この「錦秋爆撃」は見落とすわけにはいかない出来事であると言えるでしょう。
3、日本の空爆の歴史 ~被害と加害の側面
日本の空爆の歴史には、被害と加害の側面があります。私たち日本に住む者が瞬時に思い起こすのは、東京大空襲を初めとする、アメリカ軍による日本全国の都市への無差別爆撃でありましょう。1945年3月10日の東京大空襲では、たった一晩で10万人もの人々が命を奪われました。無差別爆撃では、世界史上最大規模の虐殺であると言われます。日本全国に行われた無差別都市爆撃によって命を奪われた人々はおよそ50万人にものぼります。そして、8月6日には広島に、9日には長崎に原爆が投下されました。
これら言語を絶する悲惨な歴史を決して忘れないと共に、そのような悲劇に至った歴史もまた私たちは忘れず、理解を深めてゆく必要があるでしょう。その歴史は、加害の歴史でもあります。
日本軍による初めての空爆は、1914年9月に行われた「青島攻撃」であるそうです。中国の青島に植民地をもつドイツ軍に対して行われました。またその際、青島の市街にも爆撃を行ったと言われています。住民に被害が出たかは記録に残っていません。先ほど「錦秋爆撃」が「日本軍にとっては初めての都市無差別爆撃であった」、「中国が初めて経験した都市無差別爆撃であった」と記しましたが、この「青島攻撃」においてすでに民間人が居住している場所に爆弾が投下されていることが分かります。《日本軍による空爆の歴史も、始まりにおいてすでに民間人も住む市街を爆撃していたという事実は象徴的である》(吉田敏浩『反空爆の思想』、134頁)。
空爆について記された本を読むと、そもそも、あらゆる空爆は「無差別性」を含むのだということを痛感させられます。またそして、最も空爆の犠牲になるのは子ども、女性、高齢者などの弱者であるという意味で、同時に空爆は「差別性」も含むと吉田敏浩氏は指摘しています。
世界史上初めての大規模な都市無差別爆撃は、1937年4月26日に行われた「ゲルニカ爆撃」です。パブロ・ピカソの「ゲルニカ」によっても人々の記憶に刻まれています。
日中戦争において、日本軍による無差別爆撃が拡大してゆきます。日本軍による最大の無差別爆撃は「重慶爆撃」です。1938年12月より、中国重慶の市街地を標的にした無差別爆撃として行われました(同、156頁)。この重慶爆撃は、《「戦政略爆撃」なる名称を公式に掲げて実施された最初の意図的・組織的・継続的な空中爆撃》でした(前田哲男『新訂版 戦略爆撃の思想 ゲルニカ、重慶、広島』、25頁)。中国側の資料によれば、1938年10月から1943年8月までの5年間に、空襲218回、投下爆弾数21593発、焼失家屋17608棟、死者11889人、負傷者14100人。さらに、1941年6月5日の空襲において防空壕に避難して窒息死や圧死した市民数千人を含めると、死傷者はもっと多くなるとされています(吉田敏浩『反空爆の思想』、158頁)。
日本軍の中国への無差別爆撃と、その後日本に対して行われるアメリカ軍の無差別爆撃には因果関係があることが指摘されています。重慶爆撃は東京大空襲に先立つ「無差別爆撃の先例」であり(前田、25-26頁)、その後、アメリカによる日本への無差別爆撃の「正当化の根拠」を与えることにつながっていったのです(吉田、171~173頁)。
私たちは空爆について考察するとき、これら被害と加害の歴史を踏まえねばならないでしょう。