昨日は、墓堀人夫に借り出され納骨するお墓の清掃に汗を流し過ぎました。あんなデカいお墓とは、5時間弱の作業でへとへとになり昇天寸前。
さて、
南部杜氏の里を僭称し、わざわざ公費を投じて地元の酒造会社の藏を取得し整備した筈の石鳥谷酒蔵交流館は下記で述べる「文化施設」では決して
ありませんから、あまり気にしないでください。しつこいけど、酒蔵交流館=文化施設ではないですよ、教育委員さん。
石鳥谷「酒蔵まつり」のプロレス興行
人間らしい感性を豊かに開花させる文化施設を建設するのは必要である。
例えば、美術館は「人間の心自然」を守るものであるのだから、道路建設や福祉事業とは異質である。だが、今の行政にはそこのところが分からない。
分からないで文化施設を役所流でつくり役所流で管理するから問題が噴き出す。問題は美術館だけではない。博物館も資料館も図書館も、そして文
化会館などにも問題が噴出する。
・行政は建物を建てることが目的で運営のことを考えない。
・明確な設置目的がなくて無難に安易につくるから多目的施設になって何に使っても中途半端な無目的施設になる。
・実際に利用する人の声を聞かない。だから使い勝手の悪い欠陥施設になる。
・芸術芸能の空間は「大は小を兼ねない」ことが分からない。だから客席数の多い大ホールをつくる。
・舞台の役者の顔が見えない大ホールをつくるのは、成人式や表彰式などの行政行事に使うためで「文化」は付け足しである。
・規則と前例で何事も万事無難に大過なくやってきた行政職員が行政財産とし管理するから閑古鳥が鳴く建物になる。
なぜ、このようなことになるのか。 何のために文化施設をつくるのかを真剣に考えないからである。行政の担当者は「そんなことはない、考えている」と
反論するであろう。「文化施設を建てるのは地域の文化振興のためである」のだと。しかし、文化施設を建てるだけでは文化の振興にはならない。しかも、
行政財産として管理したのでは文化施設は地域で呼吸せず地域に文化は育たない。文化施設は運営が問題である。「文化施設は運営次第であり運営
は人次第である」のだ。
公の施設は行政財産である。行政財産は行政の責任で建設し管理する。住民は行政が提供するサービスの受益者である。住民は公共政策の主体で
はない。「行政が政策執行の主体で、住民はまちづくりの主体ではない」である。公の施設論では文化施設をつくっても役所が管理する建物になる。だが、
地域に文化の種を蒔き育て花を咲かせる文化施設、市民文化の拠点にはならない。
役所の担当者や首長は言うであろう。「運営も考えているのだ」と。しかしながら、考えているとはとても思えないのが現状である。文化施設は、基本設計
の前に「誰がこの施設で、何をどうするのか」を見定めて、そのような構造の建物をつくるのが重要である。だが実態は、「文化施設については何も分かっ
ていない実直な公務員」が「さしたる見識もない首長の意向を伺い」つつ「発注を受けたいだけの建築屋」と「市民不在の場で密かに協議」して「莫大な費
用で建物をつくっている」のが実態である。
だから、文化施設への批判が噴き出すのである。
行政の担当者は「文化振興のために文化施設を建設する」と言う。しからば、その文化振興とは「何をどうすることであるのか」「文化施設がどのような働き
をしていかなる文化がどのように変わるのか」との問いに、明確な答えは返ってこない。文化振興という言葉があって中身がない。行政には内容空疎な言
葉が多すぎる。「文化振興」とは中身のない言葉である。今の行政のままでは文化施設をつくっても地域に文化を根付かせ花咲かせることは出来ない。
まちづくり派の公務員も一皮むけば伝統的な公の施設論者である。これら「無難に大過なく」の「行政文化」では「住んでいることが誇りに思えるまち」にな
らない。統治支配の官庁理論が役所内には根強く浸透しているのである。
協働するのは市民と行政職員である。行政ではない。市民と行政職員の「相互信頼」によって前例のない「不確定要素を覚悟した」実践が可能となる。そ
の実践がまちへの愛情を育てるのである。人々の心にまちへの愛着と公共心が芽生えなければ「安心して暮らせて」「美しくて楽しくて」「住み心地のよい」
まちにはならない。
協働とは住み心地のよい公共社会を創出する営為である。
「今の行政のまま」では「市民と行政との対等な関係」は存在しないことに何の顧慮もない。言葉だけの「協働」である。
そうそう、個人的には
酒蔵交流館は、酒造文化に代表される石鳥谷の文化を発信する機能を有した市民交流施設だと理解していたのですが、プロレスごっことはねぇ…
さて、
南部杜氏の里を僭称し、わざわざ公費を投じて地元の酒造会社の藏を取得し整備した筈の石鳥谷酒蔵交流館は下記で述べる「文化施設」では決して
ありませんから、あまり気にしないでください。しつこいけど、酒蔵交流館=文化施設ではないですよ、教育委員さん。
石鳥谷「酒蔵まつり」のプロレス興行
人間らしい感性を豊かに開花させる文化施設を建設するのは必要である。
例えば、美術館は「人間の心自然」を守るものであるのだから、道路建設や福祉事業とは異質である。だが、今の行政にはそこのところが分からない。
分からないで文化施設を役所流でつくり役所流で管理するから問題が噴き出す。問題は美術館だけではない。博物館も資料館も図書館も、そして文
化会館などにも問題が噴出する。
・行政は建物を建てることが目的で運営のことを考えない。
・明確な設置目的がなくて無難に安易につくるから多目的施設になって何に使っても中途半端な無目的施設になる。
・実際に利用する人の声を聞かない。だから使い勝手の悪い欠陥施設になる。
・芸術芸能の空間は「大は小を兼ねない」ことが分からない。だから客席数の多い大ホールをつくる。
・舞台の役者の顔が見えない大ホールをつくるのは、成人式や表彰式などの行政行事に使うためで「文化」は付け足しである。
・規則と前例で何事も万事無難に大過なくやってきた行政職員が行政財産とし管理するから閑古鳥が鳴く建物になる。
なぜ、このようなことになるのか。 何のために文化施設をつくるのかを真剣に考えないからである。行政の担当者は「そんなことはない、考えている」と
反論するであろう。「文化施設を建てるのは地域の文化振興のためである」のだと。しかし、文化施設を建てるだけでは文化の振興にはならない。しかも、
行政財産として管理したのでは文化施設は地域で呼吸せず地域に文化は育たない。文化施設は運営が問題である。「文化施設は運営次第であり運営
は人次第である」のだ。
公の施設は行政財産である。行政財産は行政の責任で建設し管理する。住民は行政が提供するサービスの受益者である。住民は公共政策の主体で
はない。「行政が政策執行の主体で、住民はまちづくりの主体ではない」である。公の施設論では文化施設をつくっても役所が管理する建物になる。だが、
地域に文化の種を蒔き育て花を咲かせる文化施設、市民文化の拠点にはならない。
役所の担当者や首長は言うであろう。「運営も考えているのだ」と。しかしながら、考えているとはとても思えないのが現状である。文化施設は、基本設計
の前に「誰がこの施設で、何をどうするのか」を見定めて、そのような構造の建物をつくるのが重要である。だが実態は、「文化施設については何も分かっ
ていない実直な公務員」が「さしたる見識もない首長の意向を伺い」つつ「発注を受けたいだけの建築屋」と「市民不在の場で密かに協議」して「莫大な費
用で建物をつくっている」のが実態である。
だから、文化施設への批判が噴き出すのである。
行政の担当者は「文化振興のために文化施設を建設する」と言う。しからば、その文化振興とは「何をどうすることであるのか」「文化施設がどのような働き
をしていかなる文化がどのように変わるのか」との問いに、明確な答えは返ってこない。文化振興という言葉があって中身がない。行政には内容空疎な言
葉が多すぎる。「文化振興」とは中身のない言葉である。今の行政のままでは文化施設をつくっても地域に文化を根付かせ花咲かせることは出来ない。
まちづくり派の公務員も一皮むけば伝統的な公の施設論者である。これら「無難に大過なく」の「行政文化」では「住んでいることが誇りに思えるまち」にな
らない。統治支配の官庁理論が役所内には根強く浸透しているのである。
協働するのは市民と行政職員である。行政ではない。市民と行政職員の「相互信頼」によって前例のない「不確定要素を覚悟した」実践が可能となる。そ
の実践がまちへの愛情を育てるのである。人々の心にまちへの愛着と公共心が芽生えなければ「安心して暮らせて」「美しくて楽しくて」「住み心地のよい」
まちにはならない。
協働とは住み心地のよい公共社会を創出する営為である。
「今の行政のまま」では「市民と行政との対等な関係」は存在しないことに何の顧慮もない。言葉だけの「協働」である。
そうそう、個人的には
酒蔵交流館は、酒造文化に代表される石鳥谷の文化を発信する機能を有した市民交流施設だと理解していたのですが、プロレスごっことはねぇ…