数日前、「クローズアップ現代プラス」で
「つながり孤独」の特集をしていた。
SNSで8000人とつながっていたのに孤独で、誰もわかってくれず
アカウントを消したのだ、とか。
「あ〜わかる」と半分思い、半分は
「そりゃそうだろうよ!」と思った。
SNSが登場して早10年。インターネットが登場して20年。
ほぼデジタルネイティブである若い世代に罪はない。
というか、このおおよそ20年でコミュニケーションの「何が変化したのか」
これを、SNSネイティブは知らない。仕方ない。
いや、知らないといえば、スマホを使わない70代以上も知らないかもしれない。
何が変化したか、と言われるとその答えは
「会話の質」であるよ。
この質の変化で、コミュニケーション・ディバイドは起きている。
70〜80代の会話に混ざる。
ボランティアや市民講座でなされる会話、適当に横で聞いてたりするんだけど。
「ねえ、枝豆もらったんだけど、何か美味しい食べ方ある?」
「そうだよねえ、枝豆ってゆがいて、塩で〜」
「うち剥いてサラダに入れる」
これ、もし若い世代ならどうだろうと思った。
息子や甥っ子ならまず間違いなく「ググれ」というか、聞いたその場でスマホに「ハイ、Siri」
だと思う。
「こないだうちとこの近所でよう…」
そういう不確かな情報には「ソースは?」って聞き返すかもしれない。
「うちの嫁ったら」
「それ個人情報ですよね?」
お年寄りの、リアル会話メインの内容は、ググればいいような他愛ない質問に始まるが
会話に「主導権」は無い。
もしかしたら、枝豆の食べ方が「サラダ」なんて、聞いた側は「そんなのとっくに知ってる」かもしれない。
だが、それでいいのだ。情報自体が有益かでなく、会話自体がダラダラ続いていく。
一方でSNSの場合は現在の技術では
「発信する側」の主導権が強い。
受ける側には「いいね」「RT」がボタンで用意されてしまっているので
「応じる」方は発信側に消費される羽目になる。
くだらない質問はネットで調べたらいくらでも出るわけで
それでも尋ねるなら、尋ねる側の怠慢になるのかもしれない。
ネットの無かった時代の「他愛ない」会話は、ネットのシステムや利便性が奪ったのかもしれない。
上の世代が他愛ない質問と情報で会話していた部分は消えてしまい、
ツールの特性と相まってSNSでは絶えず承認されることを目指す。
「枝豆の美味しい食べ方ってある?」と発信するのではダメで
自ら開発した枝豆ケーキだの枝豆でフィギュア作っただのを写真に証拠としてあげて
「いいね」されねばならない。
これが「質」の変化だ。
他愛ない会話でよかった時代、会話はそもそも作品や主張では無かったのだ。
Twitter。
何か本音をつぶやいた時に「フォロー外から」やってくるのをウザいと感じる理由は
前後の文脈が見落とされがちだからだけではない。
1つの言葉が出るに至るまでの過程が分断されている。
これでは小説ですら、作者が敵対する概念を持つ主人公のセリフとして書いたことを
まるでその作者の意見のように取られてしまいかねない。
しかも、そのツールの質から、「有益なアドバイス」が主導権を持ちやすい。
これが「誰もわかってくれない」の原因だと思う。
「あんた何様?私のことをどれだけわかってるというの?」
Facebook。
こちらは大人のビジネスが主流になってしまった。
顔見知りだから安心だとはいえ、知らなくていい一方的な情報に溢れる。
まるで「常にスネ夫の自慢を聞かせれてるのび太」のようだ。
勝つには自らスネ夫化するか、さらにハイスペックな出木杉くんにでもなるか。
もしくはセールス。
「こんにちわ!(笑顔) うちのサービスを利用してね!(サービス利用する時だけはお友達だよ)」
おそらくは、恐ろしいまでの割り切った利害関係がありすぎると、これも難しいのではないかと思う。
とはいえ、もうSNSの無かった時代に戻ることはできないだろう。
ならば逆にこの分断をつなぐものさえあれば
飛躍的に解決するのではなかろうか。
「発信」する側は大事だ。しかし、受け止める方を消費者、「食われ側」にするのなら
つながり孤独は解消するわけがないのではないか。
少なくとも、SNSにおいて発信する側がその主導権を振りかざし
誰かの言葉を封殺する、何も言えない空間にするのは愚かだと思う。
その先にあるのはGoogleやSiriさんとだけの「他愛ない会話」でしか無いかもしれない。