再度、gooブログはじめました! 風来居士

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自分の価値

2019-08-30 19:39:16 | 呟いてみる
自分の価値
もともと自分の価値は、自分自身が決めていくものです。
自分自身で創り上げていくものなのです。
誰にも説明しようとする必要などはありません。
自分の価値は、今までの、過去の自分の感情や行動とは、全く関係のないところにあります。
現在までの結果で、将来を決定しようとする必要もありません。

想定外の事は常に起こりうることです。
それを承知(?)で騙されてみるのも、また一興かも知れませんね。
結果とは、常に今後の原因でもあります。
自分が望んでいる結果は、それが目に見えるまでに、多少の時間がかかっているだけの事です。
一分一秒後に、より良い結果が出る可能性だって充分あるのです。

選択肢は二つ、・・・現実を変えるか、現状の見方を変えるか。()
 
自分の身体を嫌うということは、言い換えれば、自分自身を人間として受け入れないということです。
自分にとって何が魅力的かについては、他人の指図や判断などとは、全く無関係です。
自分自身の基準に当てはめて考えてみれば、自分がより知的だと考えることも出来るわけです。
幸福になればなるほど、人は知的になるとも言われています。

自分を、あえて過小評価する必要などは全くありません。 
過小評価は、常に変化する、いわゆる「公的基準値」というものをもとに、自分と他人を比較してしまうからです。
知性とは、遺伝、あるいはその他の要因から「与えられるものではない。」
本来、他と比べられるものなどではないのです。
自分がどこまで賢くなれるかは、自身の素質、あるいは努力、つまりは自分次第だと言うことです。

・自己表現、自己評価、そして客観的評価
客観的評価というが、それが絶対的な評価であると、一体、誰が決めたのでしょうか?

客観とは、多数の自己の集積です。
つまるところ、客観的評価とは、多くの自己、個人的な評価の集積、もっと言えば、一般的な自己評価の平均値でしかありません。
多数意見は強力ではあるが、それが常に正しいとは限らないのです。
多数意見とは、良くも悪しくも、その時点、その場所での平均化された、謂わば、当たり障りのない意見の統合でしかありません。
総ての人間の行動には、常に自らの、個人個人の意志が反映します。
人生は、それらの意志を、今後の自分が、どう受け入れるか、あるいは拒絶するかを選択していくことなのです。

・幸福な人ほど「知的」になる。

自分の価値は、すなわち、自分の存在自体にあるのです。
自分の過去などには関わりなく、常に自分には価値があります。
自分の価値とは、いわゆる自分の業績、立場、周囲の評価とは関わりのないところにあることを忘れてはなりません。
「・・・過ぎるもの」など、どこにもありません。
それは、単なる比較の表現に過ぎないのです。

自分と、自分以外の存在との比較。
そう、自己否認などは、全く無用です。
自分が、自分以外と異質であるといって、自己否定する必要など、どこにもありません。
他人を相手に、いくら自己否定してみたところで、他人が自分を変えてくれるはずもないでしょう。
意見は言ってくれるかもしれません。

しかし、結局、自分を変えていくのは、常に自分でしかないのです。
恐ろしいのは、常に、自己否定、自己否認が、大抵(ほとんど)無意識下で発生し、さらに、それが習慣化してしまうということなのです。

「価値ある自分の存在」を常に自覚していくようにしなければなりません。
「現在の自分の能力」と「自分の価値」とを同一視してはいけないと思います。

幸福になればなるほど、人は知的になる。

自分を過小評価するのは、学校の成績評価にように、常に変化するものを基準にして自他を比較しようとするからです。
より成長していくために、自我像を、どう修正していくか。

現在、何かが苦手だというのは、過去の様々な選択の結果に過ぎません。
言うならば、会社における役職や人間関係。
そのような常に変化するものを基準に、自分と他人を比較しようとします。
それが、本当に、それほどの意味を持つとは思えません。

自分自身が変わっていく、あるいは変えていく。
そこに、選択肢は二つあります。
まず、自分自身を物理的に変えていく

もう一つは、自分自身はそのまま (もっとも、たとえ、自身か変わっていったとしても、それはそれで何ら問題はないが)、自分自身を見る、その見方を変化させるか。
そのいずれかでしょう。

情報が多すぎます。
そして、どの情報も、それぞれが、正しい部分を持っています。
今後も、そのような選択の中で、迷い続け、現状を抱えこんでいく必要など、どこにもありません。
自分が魅力的であるか、否かを、他人の判断に委ねなければならない理由はどこにもないのです。
自分のどこが魅力的なのかについて、他人の判断など無用です。

もともと他人の判断など、10人いれば、10通りの判断がなされます。
自分は、自分自身にとって、魅力的であり、価値がある。
それだけで充分ではないでしょうか。

自分自身への提言

2019-08-29 08:28:29 | 呟いてみる
・「自分の価値」は自分自身が決める 
 
✭自戒とともに
私はいつの頃からか、自分を「ダメ人間だ」と決めつけていました。

 
まずやることは、この「自己否定」から脱け出すことでした。
・自分の価値は自分自身が決めるものです。
・自分を価値ある人間として受け入れましょう。
・自分の考え、自分の行動、それを自分自身が信頼せずに、一体誰が信頼してくれるのでしょうか?
・もっと「わがまま」に生きてもいいのです。
・「わたしに出来ない事は何もない」・・・と、まず思うこと。

そこから、新しい自分がスタートします。
今現在、自分がやろうとしていることは、常に新しいことです。
一歩一歩が、未開の地へと踏み込んでいるのです。
未開の土地に、一歩進むごとに自分の足跡をつけていきます。
そういうことなのです。

「定年」、ここに至って、多少は、他人に迷惑を掛けることも減ったはず。
多少は (と付け加えるところが、何とも奥ゆかしいではありませんか?) 自分が思うように振る舞ってみてもいいのではないでしょうか?
不平不満を書き連ねてもきりがありません。

どうなるわけでもありません。
まずは現状を把握して、受け入れ、そこから何か出来ることがあるのか、何とかなるだろうかと考えてみます。
そして、何か一つでも見つかれば、まずはそれをもとに行動してみましょう。

✭もっと早く気がつけば良かった。
他人の忠告に耳を傾け、まずは素直に受け入れてみましょう。
また、逆に、自分の気持ちを素直にぶつけられる相手を探しましょう。

自分に好意を持ってくれる人はいますか?
そうでなくとも、自分に興味を持ってくれる人はいますか?
多分・・・、いや、きっといる。
必ず、いるはずです。
しかし、他人には他人の基準があります。
情報が多すぎるのです。
そして、どの情報も、それぞれが、正しい部分を持っています。

自分をもっと信頼しましょう。
他人に自分の価値を決めてもらう必要など全くありません。
たとえ失敗しようと、その失敗は自分の価値とは無関係です。
自覚しようと、するまいと、自分には、自分相応の価値・魅力があるのです。

そして、ほら、今、自分は、こうして、ここにいます。

「自己満足至上主義」

2019-08-25 18:23:15 | 呟いてみる
2019年8月5日(いつかと読んで下さい)・・・令和元年。

拾い、まとめ、捨てる。
解体し、集め、廃棄する。

白髪頭の皺だらけ爺。

朝の5時半、弟は今日も出勤していく。
妬くな、仕事がある者が出勤するのは、ごくごく当然の話なのだ。
私には仕事が無い、それだけの話だ。

まぁ、この歳で、ボーッとして、一連の仕事でヘマ、仲間に迷惑を掛けるよりは、今の状態の方がいいのかも知れない。

それにしても、ここずっと咳が止まらない。
あと2週間で何とかせねば・・・。

んっ、何で? 
まぁま、それはそれで良いじゃないか。

老人にも、何だかんだと、やる事はあるのだ。
ともかく、頑張る、鬱呆け爺さん・・・。

人と人、それぞれ自分自身の時間、生き方がある。
他人がとやかく言っても仕方のないことだ。

私は私で、この先、自分の道、当てのない旅を行く。
考えてみれば、人は総て、常に未知の旅路を行かねばならない。
そういう運命だ。

今夜もまた、ただ一人、酒を飲む。
う~ん、酒には、やはり相手が必要なのかも知れない。
共に飲み、あるいは共に語る、そんな相方が必要なのだ。

それはともかく、現状を認め、その上で自由気ままに生きていく。
「自己満足至上主義」というべきか。

短くて30年、まぁ、50年後の世界はどうなっているのか?
その時、私はどんな生き方をしているのだろうか?

考えてみれば、興味津々だ。

ふと思う。

2019-08-24 18:52:03 | 呟いてみる
ふと思う。 
他人へのプレゼントは、後々まで残らぬものにしたい。
 
相手が何を求めているのか、聞いてみたところで、いきなり尋ねられた当の相手にもはっきり答えられるわけがない。
結局、互いに分かった振りをして過ごし、やがては自己欺瞞に耐えきれなくなっていく。
世の中には、思いも寄らぬ事が起こる。
もっとも、思いも寄らぬ事といっても、よくよく考えてみれば、こちらの想像力、思考力が足りないだけという事でもあるのだが。
 
このところ、熟睡が出来ない。 
体力は落ちるばかり。
現状を保つというのも、なかなか難しい事だと、そんな事を最近になって気が付いた。
100歳まで生きようと、150歳まで生きようと、人間である以上、いずれ、「死」を逃れる事なぞ出来はしないのだ。
 
お元気ですか? お天気ですか?   
 
見捨てられ感・・・。

直接、他人からどうしろと言われているわけではないが、心理的な圧迫感を逃れられないこの頃。
 
しかし、やりたい。
何かやりたい、残したい。
だが、考えてみると、ことさら、今、やらねばならぬ事が何も思いつかない。
ただただ、やりたい、それだけでしかない。
 
やっとやる気が出そうになった矢先のブログの転籍か・・・などと、言い訳がましく、独りこっそりと呟いてみる。

わたしは、無力、不要の者だ。
体力減少
集中力が無くなった。
本1冊、読み終えるのに1ヶ月以上かかるようになった。
 
まぁ、それほど慌てねばならぬ事もないのだが。
いくら知識を溜め込むことが出来たとしても、それを天国に持ち込む意味が無い。
ただの自己満足。
今さら格好つけて何になるというのだ?
 
そろそろ寿命・・・、それならそれで何か残したいと思う。
それって贅沢な望みなのだろうか?
もっとも、残したいとはいっても、残すべき相手、受け取ってくれる相手がいない、思いつかない。
 
しかし、やりたい。
何かやりたい。
だが、考えてみると、ことさら、今、やらねばならぬ事が何も思いつかない。

ただただ、やりたい、この所、ただ、それだけでしかない。

夢から始まる。

2019-08-23 15:58:16 | 呟いてみる
階段を昇ってきた小さな集団の中から一人の女性がすいと私に近づいてきて言った。
「××建設の本橋優子と言います。」
すらっとした背の高い美女だった。
「はいっ・・・?」
戸惑う私に、爽やかな笑顔を見せると、もとの集団に戻って、そのまま3階への階段を昇っていった。
 
夢だった。
それにしても、考えてみれば、何と物欲しげな、さらには物足りない、そして悲しい夢なんだろう。
 
いずれにせよ、今の文章では、自分を他人にアピールすることなど出来やしない。
しかし、もし何か書けたとして、それが一体何だというのか?

書いただけ・・・、それだけでは、ただの自己満足に過ぎない。
が、やらねば、書かねば、作らねば、今、ここには何も無いのも事実だ。
その意味では、第一歩、踏み出したのだとも言える。
 
次の段階として、書いたものを発表する。
人の前にさらし出してこそ、良いにせよ、悪いにせよ、何らかの反応が得られるのだろう・・・無反応も反応のうちだ。
いかに、それが人目にしょぼくれて見えようと、それはそれでいいのではないか。
 
それが今の私自身なのだから。
人には、それぞれ見え方・考え方がある。

・・・と、これは無反応に対する予防線。