今日は近江町いちば館にて講演会がありました。
因果の道理についてのお話でした。
すべての結果には、必ず原因がある。
原因なしでおこる結果はない。
では、私達が一番知りたい結果とは何でしょう?
それは、私達の運命です。
幸福な運命か、それとも不幸な運命か。
私達は、幸せになる為に生きていると言っても過言ではありません。
不幸になりたいという人はいないでしょう。
仏教では、私達の運命に関する原因と結果の法則が集中して説かれているのです。
幸せになるには仏教を聞かなければならないんですね。
因果の道理についてのお話でした。
すべての結果には、必ず原因がある。
原因なしでおこる結果はない。
では、私達が一番知りたい結果とは何でしょう?
それは、私達の運命です。
幸福な運命か、それとも不幸な運命か。
私達は、幸せになる為に生きていると言っても過言ではありません。
不幸になりたいという人はいないでしょう。
仏教では、私達の運命に関する原因と結果の法則が集中して説かれているのです。
幸せになるには仏教を聞かなければならないんですね。
昨日は親鸞会館で講演会がありました。
アニメ王舎城の悲劇についてのお話でした。
いろいろな話があった中で特に感動したのは、やはり親鸞聖人の解釈というか味わいというか、親鸞聖人の偉大さが改めて知らされました。
王舎城の悲劇を、イダイケという一人の女性が救われたという話でなく、この話全てが仏様のなされたドラマであり、私が阿弥陀仏に救われる為の方便なのだ、と。
イダイケは全人類の代表で、イダイケの立場になればどんなことも言うし、どんなこともやる。
そんな極悪人でも阿弥陀仏の本願は救うということを、王舎城の悲劇として、仏方が方便引入されているのだ。
このような解釈は、親鸞聖人でなければできません。
さすがは親鸞聖人
ますます親鸞聖人の教えを学ばせていただきたい、という気持ちが強くなりましたね。
ちなみに親鸞聖人はこのことを
「大聖おのおのもろともに
凡愚底下のつみびとを
逆悪もらさぬ誓願に
方便引入せしめけり」
と言われています。
今回はあまりお話の内容をお伝えできませんでしたが、たまにはこういうのもいいかと思いまして・・・
アニメ王舎城の悲劇についてのお話でした。
いろいろな話があった中で特に感動したのは、やはり親鸞聖人の解釈というか味わいというか、親鸞聖人の偉大さが改めて知らされました。
王舎城の悲劇を、イダイケという一人の女性が救われたという話でなく、この話全てが仏様のなされたドラマであり、私が阿弥陀仏に救われる為の方便なのだ、と。
イダイケは全人類の代表で、イダイケの立場になればどんなことも言うし、どんなこともやる。
そんな極悪人でも阿弥陀仏の本願は救うということを、王舎城の悲劇として、仏方が方便引入されているのだ。
このような解釈は、親鸞聖人でなければできません。
さすがは親鸞聖人
ますます親鸞聖人の教えを学ばせていただきたい、という気持ちが強くなりましたね。
ちなみに親鸞聖人はこのことを
「大聖おのおのもろともに
凡愚底下のつみびとを
逆悪もらさぬ誓願に
方便引入せしめけり」
と言われています。
今回はあまりお話の内容をお伝えできませんでしたが、たまにはこういうのもいいかと思いまして・・・
今日は親鸞会館にて講演会がありました。
正信偈の
「已能雖破無明闇
貪愛瞋憎之雲霧
常覆真実信心天
譬如日光覆雲霧
雲務之下明無闇」
についてのお話でした。
阿弥陀仏に救われたら、無明の闇が晴れたら、欲や怒りや愚痴などの煩悩はどうなるのか
という内容でした。
本当は一言ずつ説明できたらいいのですが・・・、あまりにも長くなりそうなので要点だけをお伝えします。
阿弥陀仏に救われても(正信偈では真実信心とありますが、別の言葉でいえば信心決定しても、信心獲得してもということです)、煩悩は無くなりもしなければ、減りもしない。
このことを親鸞聖人は譬えをもって教えられています。
太陽が出ていたら、どんなに雲や霧が覆っていても雲や霧の下は明るい。
真実信心という太陽が出ていたならば、煩悩の雲や霧が覆っていても心は明るい。
私達は、煩悩具足の凡夫といわれますが、自分が煩悩具足だとは思っていません。
阿弥陀仏に救われて、煩悩具足の凡夫だと知らされるのです。
煩悩具足と知らされるところまで聞かせていただきましょう。
↓話は変わりまして、今日の昼休みは(前回もあったのですが)、一万人広場のブロックを運び出すという作業がありました。
たくさん敷き詰められていたブロックがこの通りなくなってしまいました。
このブロックはF館の建立で使われるそうです。
いよいよF館の建立も楽しみになってきましたね。
正信偈の
「已能雖破無明闇
貪愛瞋憎之雲霧
常覆真実信心天
譬如日光覆雲霧
雲務之下明無闇」
についてのお話でした。
阿弥陀仏に救われたら、無明の闇が晴れたら、欲や怒りや愚痴などの煩悩はどうなるのか
という内容でした。
本当は一言ずつ説明できたらいいのですが・・・、あまりにも長くなりそうなので要点だけをお伝えします。
阿弥陀仏に救われても(正信偈では真実信心とありますが、別の言葉でいえば信心決定しても、信心獲得してもということです)、煩悩は無くなりもしなければ、減りもしない。
このことを親鸞聖人は譬えをもって教えられています。
太陽が出ていたら、どんなに雲や霧が覆っていても雲や霧の下は明るい。
真実信心という太陽が出ていたならば、煩悩の雲や霧が覆っていても心は明るい。
私達は、煩悩具足の凡夫といわれますが、自分が煩悩具足だとは思っていません。
阿弥陀仏に救われて、煩悩具足の凡夫だと知らされるのです。
煩悩具足と知らされるところまで聞かせていただきましょう。
↓話は変わりまして、今日の昼休みは(前回もあったのですが)、一万人広場のブロックを運び出すという作業がありました。
たくさん敷き詰められていたブロックがこの通りなくなってしまいました。
このブロックはF館の建立で使われるそうです。
いよいよF館の建立も楽しみになってきましたね。