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豊文堂日録

日々の事柄に対する感想意見等

親は、危険予知能力を発揮せよ  

2010年04月05日 22時10分12秒 | 豊岡の街
      
ー親の不注意で失われる子供の生命―       
車に30分間残した幼児が4人とも焼死するというなんとも遣り切れない痛ましい事故が、昨日の新聞各紙に報道されている。悲しいことである。取り返しのつかない事故で、両親の悲しみは想像を絶するものがあるのではないだろうか。
それにしても、クルマと幼児、子供たちだけの留守番、そして、事故の巻き添えと、亡くなる子供の何と多いことか。
そもそも、炎天下に子供を車中に置いたままでパチンコや買い物のために車を離れる事故にしても、今回の事故にしても、人間が本来持っている危険予知の能力が全く発揮されていないように思えてならない。子供だけで留守番をさせたり、車に残したりするときに、まず最悪の事態を予測するのが親の子に対する最小限の配慮ではないのだろうか。
にもかかわらず、親の不注意でどれだけの子供たちの尊い命が失われるのであろうか。
また、今回の事故のテレビ報道を視ていて思うことは、「たった30分の間に」であったことが報道各社のニュースキャスターの口から異口同音に出てくることである。この言葉は、決して親の責任を考えるのでなく、それ位の時間離れることはそんなに問題ではないという風に聞こえてならないのである。30分が5分であっても、いたいけない乳幼児が4人も亡くなっているのである。4人が1人であっても、同じであるが、少なくとも親の不注意で亡くなっているのである。親の責任は重い。そのことをもう少し強調してよいのではなかろうか。要するに、例え1分であっても、親は子供たちを監督下に置きなさい。子供からから離れてはいけないということである。
少し厳しいようであるが、こんなとき、なくなった子供たちがもし一言いえるとしたら何というであろうか。

    ―危険を予知しその危険に近づかせないことが保護者の責任―
もう、随分年月が経つがいまだに検察への再審査請求等で結審していない事故に、明石の歩道橋事故がある。11人の尊い命が失われている。明石警察や、明石市当局の当時の責任者の責任が問われている。それはそれで責任を追及されることも当然である。
しかし、もう少しいうならば、そのような雑踏に小さい子供を連れて行くことはどうなのであろうか。つまり、そのような時の親の責任はどうなのであろうか。
私は、沢山の子供を育ててきた。そのような機会もたびたびあったが連れて行ったことは皆無である。なぜかと言うと、そのような雑踏では、何が起きるか分からないという危険性があるからである。危険性のあるところには近づかない。これが親の責任だと思っている。前にも書いたが責任は保護者が持たないと、当局も主催者も持ってくれはしない。
つまり、生命は保障してくれないのである。いくら賠償金をもらっても生命は戻らないのである。
何が1番大事かというと、危険を予知してその危険には近づかせないことであり、自然災害等であるならば、出来る限りの対策をして犠牲を最小限にすることであろう。
そう思っているときに、また別の同じような事故が起きた。やはり車に残され子供が、やはりライターを玩具にしていて誤って火が着いたということであるが、幸いにも気づくのが早く、子供は助かったようであるが、クルマは全焼した。もう少し保護者が気づくのが遅れたら、前日の北海道の事故の二の舞である。
諸外国では、クルマの中に子供だけ残すだけでも処罰の対象になるそうである。子供だけで家の留守番をさせることでさえ、法律で禁止じているそうで、そのときには、ベビーシッターを置いて外出することになっているそうである。
これが本当に子供の命を守ることなのだろう。
日本では、そのような法律ができないものだろうか。両親がそれによって子供の生命を真剣に守ろうとする姿勢が育つのではないだろうか。生命を守るということは、そういうことではないのだろうか。
 

豊岡の原風景がまた一つ消える

2010年04月04日 16時56分18秒 | 豊岡の街
   
―310mの新橋梁を7.5m川下にスライド移動―  
昨日の産経新聞(但丹版)に、「さよなら円山川橋梁」という記事が目についた。
旧国鉄宮津線(現・北近畿タンゴ鉄道・KTR)の円山川に架かる円山川橋梁の架け替え工事が最終段階に入ったようである。現橋梁の渡り収めのイベントの開催について市の広報で一般に知らされている。
ところで、現橋梁から新橋梁にどのようにして変更をするのかが、架け替えの工事が始まった時から私の関心事であった。今ある橋梁の少し上流に新橋梁がほぼ完全に組まれているのを先日確認したが、川の左岸と右岸で新鉄橋とどんな要領で取り付けられるのかが疑問であり興味のあるところであったが、その記事で凡そ判明した。
その記事によると、素人では思いもよらない手順である。つまり、現鉄道を3日間運休にして、その間に現橋梁をすべて取り払い、すでに現橋梁のところに作られている新橋脚に、少し上流で完全に組み終わっている310mの新橋梁を7.5m川下にスライドさせて、新橋脚の上に乗せ、右岸と左岸で現線路と接続するというものである。
新橋梁が総トン数どれほどになっているのか分からないが、その310mもある新橋梁を
平行移動させるというのである。今の土木工事は何でもできるようである。その記事を読んで私も漸くその夜からゆっくり寝られるようになった。
ところで、折角の機会なので、記事の中から、少し拾ってみたい。
現橋梁は(全長290m)は昭和4年に開業した当時の姿のままであったが、平成16年10月の台風23号台風がきっかけに防災対策として平成19年10月から始まっている。
橋梁の高さが当初から変わらないために、堤防を高くしてもその部分がネックになることと、橋げたを高くし、また、橋脚の数を10基から5基に減らすことによって、上流から流れてきたゴミや流木が停滞せず、流れをスムーズにするのが狙いである。概要は、産経新聞の記事から拾わせてもらったが、こんな形で、現橋梁が新しく生まれかわることは懐かしい風景が消えることになるが、防災の観点から大変喜ばしいことである。
ー「さよなら宮津線の鉄橋」- 
現橋梁は数日後には消える運命であるが、円山川と宮津線との交叉点に架かるいわゆる「宮津線の鉄橋」といわれ、長い間、円山川の一風景として、我々の世代の心に刻まれている。この風景は、故郷を離れている人達の心にも懐かしい風景として何時までも残ることであろう。
堀川橋側から北を望めば、頂上付近に薄っすらと雪が残り、円山川の河川敷には黄色い菜の花がいっぱい。そして、その中間どころにある茶色く塗装された宮津線の鉄橋が納まっている風景は、豊岡の原風景であったが、その風景も大きく変わろうとしている。
いまひとつ思い出すのは、市教委にお世話になっていたときに、当時、「県下を走る鉄道と橋梁」をシリーズで掲載していた兵庫県教育研修所からの依頼で、宮津線橋梁を渡る北近畿タンゴ鉄道の青い電車が「兵庫教育」の表紙を飾ったこともある。
きっと、市民の心には、あるいは、遠く故郷を離れて生活する人たち心には、この鉄橋の姿が何時までも心象として記憶されることであろう。
 

明治の教育は、自己を制御する力をつけた?

2010年04月03日 21時41分47秒 | 豊岡の街
     
ー灸は気の流れを円滑にし健康維持の働きをするー
私は、小さい頃は病弱な子であった。にもかかわらず、中学生の頃から、完全に病抜けしたように病気をしなくなった。そして、今日まで大きな病気をした覚えがない。これは本当にありがたいことだと思っている。
私の兄弟も大病を患ったことがない。母を見ても本当に健康になり、今は6年前にこけて骨折して骨折部分は回復したが脛が曲がらなくなった。以来ベッド生活こそしているが、往診に来られるお医者さんも、どこも悪いところはありませんよと太鼓判を押してくださるのである。私はこの様な健康な状態でおられるのは、日課として父が据えてくれたお灸のお陰であると思って、本当に父には感謝している。
どうして、灸がいいのかということについては、私自身はっきりとは言えない。
最近読んだ書籍によると、よく、灸のつぼとか、鍼のつぼと言うことが言われるが、体を切り開いてもそのつぼらしい部分は見当たらない。しかし、つぼはあることは確かだ。
人間の体には、血脈といって血液の流れる道筋がある。それが血管であるし、神経といって、脳から体の各部分に送られる信号の通り道がある。そして、もう一つ、「気脈」というものがある。これは、「気」の流れる道筋であって、この「気」は健康維持にきわめて重要な役割を果たしている。
いま、電磁波が人間の健康に大きな影響を与えると言われているが、なぜ悪いのかと言うと、気の流れを妨げるからいけないのだというである。
そして、鍼灸が健康のためにいいといわれるのは、その気脈の働きを活発にするからいいのではないだろうかと書かれていた。
私はその説を信じている。自分の体を観察するとその説がきちんとはまっているような気がしている。健康の秘訣は気の流れを円滑にすることであろう。
父は明治35年生まれで、なくなるその朝まで頭がしっかりしていて、本当に眠るがごく、身体の消耗できるものは全て消耗して他界した。文字通りの老衰であった。
その5ヶ月前までは、本当に病気らしい病気をすることもなく、その歳まで健康で過ごしてきたのである。その秘訣は、自己管理であろう。
ただ、父も弱いところがあり、二十年に一度くらいの間隔で扁桃腺を腫らし、ある時などは、正月の三が日の医者の休みの時に扁桃腺からくる高熱にうなされて、家族が心配したことがある。職を退いてからは、扁桃腺も出ることもなかったが、血圧が少し高めであり、投薬をしてもらっていたが、それ以外に薬を飲んだことがなくほんとうに丈夫であった。
ある時,といってももう80歳を少し出た頃であっただろうか、隣保の新年会に出かけていって、会場の料亭の階段から落ちて鎖骨を骨折したことがある。
翌日、竹田の整形に連れて行ったのである。行くときには入院するつもりで身の回りのものを持っていったのである。
医者は、「鎖骨が折れていて、骨折した部分で少し骨同士が重なっていますが、引っ張ってあわせることも出来ますが、歳も歳ですから、もうそのままにして縛っておきましょう。但し、重たい物は持てませんよ。」といわれただけで、治療は終わってしまった。そして、「歳に似合わない丈夫な骨格ですねえ。・・・」と褒めて貰ったのである。
その後、患部が接げたようで、医者の言にも関わらず、しばらくして畑仕事にも出かけ、結構重い物も運べるところまで回復したのである。
     -明治の教育は、自己を制御する力をつけた?-
父は、軍隊経験もあり、身体もよく鍛えられていたが、明治の教育の効果であろうか、精神面でも強健で自己管理が実によく出来た。食事は決して、大食いはしない。少し大きめの茶碗であったが、必ず2膳が決まりであり、例え好きな混ぜご飯でも、決して3膳は食べなかった。酒は全く飲めなかったし、酒の粕で作った汁を飲んだだけで酔ってしまう始末。タバコは好きでよく吸っていたが、70歳台の中頃だったであろうか、声が出にくくなり、それがきっかけで、すっぱりと煙草を止めてしまったのである。
また、その他に健康管理の方法として、毎朝起きるとその場で簡単な体操である。上半身裸になり腕の体操が日課であったし、寝る前にも簡単なストレッチ体操をしていたのを思い出す。明治の教育は自己制御力をつけたのであろう。
自分の健康管理には気を配っていたことが、その歳に近づいた私にも理解できるのであるが、真似は出来そうにもない。
 

 「灸で健康の基礎作り」は父からの贈り物

2010年04月02日 22時03分05秒 | 豊岡の街
     
    ー約7年間、お灸を据えることが日課であった―   
この前、神戸の息子たちが帰って来た時のことだった。何の話からだったか、お灸の話になった。その時に長男が、お灸をすえられたことがあると言い出した。
「あれは、子供への虐待だで、・・・」と真剣に言うのである。それを打ち消しはしたが何時どんな場面で長男にお灸をすえたのか私は憶えていない。子供にお灸をすることは虐待になるのだろうか。
お灸については、私はある思いがあって本当に感謝している。感謝しているのはお灸に対してと言うよりもそれを日課として据えてくれた父に対してである。
兄や弟はそのことをどのように思っているか確かめたことはないが、私の小学校低学年から中学校の2年生頃までの約7年間、父は、母と私たち3人の兄弟にほとんど毎日、背中に灸を据えてくれたのである。
お灸は、知っている人は知っているが、全く知らない人のために。私が知る範囲で少し説明しておきたい。人間の体には、多くのつぼと言われるところがあって、そこを刺激することによって、体の健康な状態が保てるというのである。
鍼をうって刺激を与える方法もあるようだがその経験は全くない。そのつぼと言われる箇所は資格を持った鍼灸師がきちんと最初の墨付けをし、そこに灸を据えてくれるのである。その後は同じ箇所に、父が毎日据えてくれるのである。私の場合は、背中に11箇所におろされていて、その場所に艾(もぐさ)といって蓬(よもぎ)を揉んで乾燥させたものがあり、それを底面がマッチの頭くらいの三角錐にして、その箇所につけてその頭に火をつけるのである。因みに艾は伊吹山で取れた蓬が使われたものが良いとされていた。今、市販されているかどうかは確かではない。
     -「灸で健康の基礎作り」は父からの贈り物ー
据え始めは熱いがだんだん慣れてきて平気になってしまうのである。お灸を据えると一晩中背中がほこほこして本当に温かい。体を温める効果も随分あったと思われる
それを毎日続けるのであるが、確か丑の日には休むことになっていた。どうして丑の日は休むのかが分からないのだが、とにかく、11日据えて1日休みということになる。
それと、一日に一つのつぼに据える数は、9つとか11とか、奇数の数だけ据えることになっている。ほとんどが11であったと記憶しているが、時々用事があって急ぐときには、回数が減るのである。とにかく来る日も来る日も特別のことがない限り、4人が順番に父の前に背中を出してお灸をすえてもらうのが日課であった。時間にすれば、一人20分乃至30分はかかったのであろう。終わると、鉄製の火箸の頭で、11の灸跡の上を押さえるのである。これは水ぶくれ防止であり、実によく効くのである。昔の人の知恵であろう。それを怠るとその箇所が必ず水を持つことになり、翌日の据える時間までに、皮が向け、
そこに灸をすえることになるから、結果、随分熱い目をすることになる。
まさしく灸を据えることが日課であった。我が家では、家庭学習をしない日があっても、灸を据えない日はなかったのである。
父は、それほど真剣に家族の健康を気遣ってくれたのである。戦後は、西洋医学が中心になり、だんだん洋薬が沢山出回るようになってきたので、漢方には余り目が向いていないが、私の大きくなる時期には漢方はまだまだ活用されていた。
私の母は、若い頃、結構体が弱く、リュウマチや腎臓を患った。しかし、漢方により完治した。そして、その母が昨年の暮に、百歳になった。
父は家族の健康については、本当に真剣に取り組んでいてくれた。その一つが日課のお灸であろう。こんな真似は、到底私には出来そうにない。「灸で健康の基礎作り」は父からの尊い贈り物である。(この項続く)


「南無大師遍照金剛」「南無阿弥陀佛」・・・は、魔法の言葉

2010年04月01日 22時49分07秒 | 豊岡の街

    ー孫たちの「南無大師遍照金剛」にびっくり―   
「南無大師遍照金剛・南無大師遍照金剛」・・・・・
神戸の孫たちが帰ってひっそりとした我が家に、真言宗の「南無大師遍照金剛」が聞こえてきた。先ほどまで沢山の従兄弟がいて賑やかであったが、その従兄弟たちが帰ってしまい、残された格好になった娘のところの孫三人が、仏壇の前に座って手を合わせている。ちょっとびっくりした。我が家は浄土宗で「南無阿弥陀佛」であるが、娘の嫁ぎ先は真言宗で「南無大師遍照金剛」である。ただ、娘たちの家族は、両親は大屋に住み自分たちは日高に住んでいる関係で、我が家に仏壇はない。にもかかわらず、孫たちの口から自分の家の宗旨の「南無大師遍照金剛」が、仏壇の前に座ったときに自然に口をついて出てきたと言うことは、きっと父親の里に帰ったときには仏壇の前に必ず座ってお参りをしているのだろうと推測できるのである。そのことは、大変結構なことでこの孫たちがこれから人生を歩んでいく時に大変大事なことだろうと思ったのである。
     -「南無大師遍照金剛」は、母の口癖であったー
ところで、久しぶりに真言の「南無大師遍照金剛・南無大師遍照金剛」を聞いた。実は、私の母の里も宗旨が真言である。従って、私の小さい頃には、何かあると「南無阿弥陀佛」ではなく、「南無大師遍照金剛」だったのである。私が成人した頃には、母も我が家の宗旨のお寺に行くようになり、私が気づいたときには、「南無大師遍照金剛」が「南無阿弥陀仏」に変わっていたのである。
子供の頃、腹痛が起きると、母が「南無大師遍照金剛・南無大師遍照金剛」・・・と唱えながらお腹を摩ってくれた。すると不思議に腹痛が治まってしまうのである。その威力は子供心に凄いと感じたのである。
そのように母は、何かあると「南無大師遍照金剛・南無大師遍照金剛」・・・である。
「南無大師遍照金剛」が、生活に活かされていたと言っても過言ではない。
私が、今、一番印象深く覚えているのは、平成21年12月21日午前4時19分に発生した昭和南海地震(南海道地震)のときである。(と言っても私の記憶にあるデータは、昭和21年で月日が分からない。母が方の祖母がなくなった年と言うこと。その法事に母の里に父だけが出かけ、母の里に泊まったので、私のうちは、母と、兄と、私とそれに6月に生まれた弟の4人がいて、父の留守に起きた地震であったこと。1階の寝室で寝ていたということなどが記憶にあり、それを手がかりにインターネットで調べると、昭和南海地震に行き当たったのである。)かなり長い時間、激しい揺れであったことをいまだに体が覚えている。記録によると、震源は潮岬沖40kmキロほど沖の海底で、M8.0 の大地震で同時に津波も発生し、1443名もの死者を出している。)
その時にはかなり激しく、しかも長時間揺れたような感じが残っている。その時に母は、兄と私とそして生まれて6か月の弟を抱いて壁際に寄り、その時に母の口から発せられたのが、真言宗の「南無大師遍照金剛・南無大師遍照金剛」・・・・・だったのである。
時間が12月の午前4時19分ですから、真っ暗な中で、揺れを感じながら、それでも、大きな恐怖心が残っていないのは、母の唱える「南無大師遍照金剛・南無大師遍照金剛」のお陰であったと信じているのである。
平成7年1月17日午前5時46分に発生した阪神淡路大震災のときは、確かに大揺れがした。そのとき、長男は神戸に、二男は京都に、長女と三男、そして、二女と私の両親は一緒に住んでいたのであるが、家族の者は大変よく揺れて、怖かったと異口同音に言うのであるが、私はそれほど恐怖を感じなかったのである。怖くなかったし、そんなに長かったとは思わなかったのである。
これはきっと、小さいときの経験が大きかったので、今回の地震が大きかったにもかかわらず、それほど大きく感じなかったのではないかと自分なりの結論を出している。
それぞれの宗派には、「南無大師遍照金剛」「南無阿弥陀佛」「南無妙法蓮華経」「南無釈迦尼佛」といった言葉がある。そして、これらの言葉はそれぞれがみな大きな威力を持っていると思えてならない。きっと本当に大きな力を持っている。言わば「魔法の言葉」に違いないと思うのである。