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豊文堂日録

日々の事柄に対する感想意見等

ドクターヘリの運用が始まった

2010年04月23日 22時46分55秒 | 豊岡の街

 -「ドクターヘリ」ってなにー
先日、市街地区長会総会で、豊岡病院の担当が「ドクターヘリ」についての説明を行った。また、今夜、豊岡区長協議会が開催され、その中で、市長が「ドクターヘリ」が運用開始されたことの報告をした。
「ドクターヘリ」とは、救急医療に必要な医療機器や資材を装備したヘリコプターに救急専門医師や看護師が乗り込んで、救急現場に向かい、現場で速やかな救急処置を行い、救急医療機関にない搬送するヘリコプターのことである。別名「空飛ぶ救命室」と呼ばれている。
この「ドクターヘリ」が、今週の月曜日から運行されている。
ただヘリコプターなので、どこにでも降りられるということではない。予め、決められた指定場所にヘリが着陸し、救急車で運ばれた患者を診断し応急処置をして救急病院に運ぶのである。当然、空を飛ぶので所要時間短くて済むし、ヘリの中で既に治療が初めっているので、普通なら命を落とすような病状でも一命を取り留める確率は極めて高く、後遺症の出る確率は逆に極めて低くなる。山間へ基地では、画期的なシステムであり、大いに期待されるところである。
時速200~300kmで飛行するので救急車の約3倍の速度である。場合によっては、半径50km(15分)~100キロ(30分)のエレアにある救急病院への搬送も可能になる。
このヘリは、365日毎日運航しているが、おおむね午前8時30分から日没30分前までの出動になっている。これは、安全第一と有視界飛行を原則としているからである。
悪天候で視界が悪い場合や夜間は飛べないことになっている。豊岡では、晴れの日でも霧の発生で運行開始が遅れる場合がある。これを補完する意味でドクターカーシステムの導入が必要となり現在検討されている。
ドクターヘリには、通常は、操縦士1名、整備し・機関士1名、ドクター2名、
ナース1~2名が搭乗し、付き添い家族が1名付くときには、ドクターが1名になる。
ところで、ドクターヘリの利用料金は、ヘリコプターでの搬送料金は無料である。ただ、医療行為に対しては医療保険の範囲内で医療費が必要である。
現在全国で、ドクターヘリは、16府県で18機が出動しており、診療件数もかなりにのぼっているが、日本海側では、豊岡が初めてであり、大いに期待されているところである。
因みに、近畿地方では、大阪大学付属病院と和歌山県立医科大学に設置されている。
ドクターヘリの要請は、まず119番に通報し、それを受けた消防署が要不要の判断をし、必要を認めたら、指定場所にヘリを要請する。その場所までは、救急車で搬送し、ヘリのドクターにバトンタッチすることになる。
市長は、「このような救急医療の整備が進むことは、豊岡が少しずつ魅力のある街になっていくことであり、住んでみたくなる街に近づくことになる。さらに、秋には、ドクターカーの制度を実現すべく努力しているという。
現市長は、コウノトリ市長といわれているが、なんのなんのスケールの大きな理念を掲げ、それに向かって一歩々々着実に豊岡市を変える努力を懸命にされていることに敬意を表したい。


神武山は 往時の豊岡の子供たちの心の故郷

2010年04月10日 23時20分40秒 | 豊岡の街

 ―神武山の数々の思い出―
昨日は、久しぶりに神武山に夜桜見物に出かけたことを書いた。
この神武山は、私たちの子供の頃よく遊びに行っていた。昔は、城があったといわれるが、そのあたりの事情については、少し調べてみないと分からないが、終戦前は、樫原神宮に祭られている神武天皇陵を遥拝する場所ということで、神武山と呼ばれていたように聞いているが、神武山の名のいわれについては、先に譲ることにしたい。
この山は、春には椿がたくさん咲く。山遊びの傍ら、椿の花を取りに登ることもあった。よく道なき道を滑り降りたりもした。尻をついて滑って降りるので、ズボンの尻は山の赤土で真っ茶色になり、母に叱られた事も度々であった。
夏は夏草が生い茂り毛虫なども沢山つくので、出来るだけ山には近づかない事にしている。
秋、山に登ると、カラスの枕(烏瓜)があちらこちらにぶら下がり、青いのや真っ赤に赤らんだものがあった。このカラスの枕は、霜焼によく効くので私には必要が無かったが持ち帰って、翌日学校に持って行き、霜焼のできている同級生に分けたこともあった。
忘れもしない3年生の2学期も終わりの頃、学級会でクリスマス会をすることになった。学級会で話し合って、教室にクリスマスツリーを作ることになった。
担任の先生の勧めもあって、適当なツリーになる木を神武山に取りに登ったのである。
私のほかに5人ほどの同級生と山に上がり適当な木を切ることにした。9歳の子供の判断で、一番いいヒノキを見つけた。早速木に登り、上部から適当なところから切ってしまったのである。教室に立てたら丁度いい高さになるであろうと思うところから切り落とした積りであった。しかし、切ったところが結構低いところで、6人で持つにしても長く重かったので測候所側の階段を引きずって下りていった。途中、測候所の職員が登ってくるのに出会ったら、「そんな木を切ってきて、叱られるぞ。」と言われてしまった。教室に帰って担任の先生から、ヒノキのしかも大きな物を切ってきたことについて叱られた。
     ―立派な檜のツリーが完成したー     
当時、神武山の持ち主は京極家であり、その執事が京極家の隣に住んでおおられるので、行って謝ってきなさいといわれてしまった。担任の先生から叱られると思っていなかったが、仕方なく山から木を切り出した6人揃って執事のうちに謝りに行った。
優しそうなそのうちの奥さんが玄関先に出てこられた。事情を話すと「いいですよ、かまいませんよ。」と言って許して下さった場面が今もはっきりと目に浮かぶのである。
ツリーは、教室の天井いっぱいの立派なツリーであった。判断は間違っていなかった。
それ以後、神武山に登って木を切った場所を通ると、その日のことを思い出し、また、上から半分切り取られたその木が目に止る。成人してからも時々目にしたが、私がのこぎりを入れた直ぐ下から枝が出てそれがグングン伸びているのが分かり、それが結構背が高くなり太くなっているのを見て、当時のことを懐かしく思い出すのである。
冬になると、雪に覆われて山全体が真っ白になる。(現在は、そんなことはほとんど無いが。)木々は、文字通り、綿帽子をかぶっている。東側の登り口は、小さなスロープになっていて、雪が積もると、即席のスキー場になる。スキーを持ってそこに滑りに行ったことも、度々あり、懐かしく思い出される。
神武山での思いでは数々あり、当時の子供たちは、10人十色のかかわり方をしている。
各人の心の中に子供の頃の貴重な体験を、思い出として仕舞い込んでいるものと思われる。
まさに神武山は豊岡の往時の子供たちの心の故郷であった。





豊岡の原風景が次々に消えていく

2010年04月09日 23時42分36秒 | 豊岡の街
    
―長い時間の経過の中で、豊岡の町も随分変わっだー
夕方、静岡から小学校の同窓会に参加するために、弟が豊岡駅に着くので、出迎えに行った。久しぶりの豊岡駅であるが、駅舎を含む駅前のロータリー等を改良するための工事がもう始まっている。工事用の囲いが出来ていた。弟は時間通りに着いた。時間が少しあるので、少し、市内を回ることにした。
「もう、宮津線の鉄橋は架け換わっているのだろうか。その方に回ってみようか。」
2月に来たときに、工事の状況は見せたが、今は、古い鉄橋を取り除き、少し上流で組まれていた新しい鉄橋を7メートル余り下流にスライドさせて、橋脚に乗せるといった工事であるが、すでに、主工事は完了し、列車が走っているはずであるが、どんな風になっているかが見たいこともあって、そちらに回ることにした。
近くでは見られないので少しはなれたところから見ると、余り大きな変化は内容であるが、古い鉄橋は、確かにこちらのほうにずれている。そして、新鉄橋が線路の延長線上に移動していることは確認できた。
「上手いこと工事をするもんだなあ。」と2人で感心するのである。
そうしている内に、「コウノトリはどれくらい孵っているのかなあ。」と弟が尋ねる。
「人工巣塔は、この辺はどこになるかなあ。」という。「それなら、百合地地区にある。そこに行こうか。」と車をその方面に走らせた。新田の六方田圃の北の端に位置するところに人工巣塔はあるが近くには寄れない。遠くからではあるが人工巣塔が見える。巣の中にはひな鳥の姿が見えるようだが、親鳥はいない。少しその辺りを見ていると親鳥らしき姿が、巣から少し離れた田圃で餌をついばんでいる。確かに親鳥である。車を止めることが出来ないのでそのまま走り続けた。
もう寄るところはないが、最近開通した円山大橋から京極南線にいたる200メートルほどの道が開通して2週間ほどになる。その道を走って見ることにした。この道はさらに伸びて山陰線をくぐり豊岡病院への道に繋ぐ計画になっている。完成までにまだ数年かかるそうだ。この道が完成すれば車の流れが大きく変わることになる。出石方面や日高方面から、香住、鳥取方面に行く車は、全く豊岡の旧市街は通らなくてよくなる。戸邊羅トンネルを抜けると信号があり、まっすぐ進むとそこが新豊岡病院、右に回ると香住方面へのバイパスになる。道がつけば町の様子が変わってくる。道によって車の流れが変わるからである。旧市街地は閑静になる。商店街が住宅街に変貌していくのである。
今年は、桜が早く咲くといわれながら、寒の戻りで花が比較的長く持った。入学式に桜が式場や校庭を飾ることができた。
     -久しぶりの神武山の夜桜見物―
夜、弟と一緒に 久しぶりに神武山の夜桜見物に行くことにした。出掛けに雨がぱらついたが大降りはしないだろうと山に登った。
いつもは、もう少し人が多いのだろうが、今夜は数人が桜の下でお酒を飲んでいた。桜は、盛りを過ぎて花は散り始めていた。
みんなが花見の宴会をする場所には、すいぶん昔、豊岡測候所が立っていた。子供の頃好きで格好のいい建物であった。木下秀峯先生がその姿を描かれ、豊岡小学校の記念誌の表紙を飾っている。私が何年か豊岡を離れている間に、測候所は、神武山の南側の平地、桜町に新しく設置されたが、数年目に無人の観測所に変わってしまった。
この山の夜桜は久しぶりである。現職の頃は毎年上っていたが、考えてみれば退職後に来たのは今晩が始めてである。弟も夜桜を見たのは初めてであろう。
この桜は、昭和47年秋に起きた豊岡高校の大火で神武山の南側に沢山あった欅の木が焼けてしまった。その跡に桜の幼木を植えたのである。以来、約40年、桜の盛りは少し過ぎているようだが、変わらず時期が来ればきれいな花をつける。
夕方から、市内を案内しながら、長い時間が経過しているが、豊岡の町も随分変わってしまった。そして、間もなく豊岡駅が変わる。市役所も新しくなる。
豊岡の原風景が次々に消えていくことに、一抹の寂しさを感じるのは私だけであろうか。

大震災や風水害・火災に備えて区自警団を再編

2010年04月08日 23時29分19秒 | 豊岡の街

    ―久しぶりに夜回りに出たー
夜回りというのは、「火の用心」を促すために、拍子木を打ちながら町内を回るのである。
今町内には、自警団組織がある。一昨年までは、自警団は、任意の組織で、区民であってその趣旨に賛同する人が自警団員となり、主に災害防止の啓発や火災発生時の初期消火や火災鎮火時以降の見張り等を行うこともある。
しかし、区の規約改正を行い、自警団を任意団体から、区の組織として位置づけたのである。それは、高齢化、老齢化、少子化により、一部の若い自警団員に頼ることは出来ない、区民の数に比べて余りにも老人が多い、高齢者が多いのである。それで、区民全員を自警団員という提案をした。これはかなり思い切った提案であったが、区民一人ひとりが団員としての自覚を持ち、自分の判断で自分の命を守って欲しいという願いからである。まだ具体的には活動していないが、新しい自警団には老人部と青壮年男子部、そして、青壮年女子部の3つの部に分け、本来の自警団が受け持っていた部分を青壮年男子部が受け持ち、あとの2つの部は、いざという時に何が出来るか、またそのために普段から何が出来るかを考えて貰うことが、自警団を組織しなおした目的の一つである。
今、但馬で気がかりなのは、北但大震災から85年経過する中で、約70年周期が15年も過ぎている関係で、何時大きな地震が発生してもおかしくない状況の中で、阪神大震災以来その対応が急がれるのである。
    ―大震災や風水害・火災に備えて自警団を再編ー
本区には、以前は防災部が設置されていたが、これは、水害防災が中心であり、土嚢つくりや土嚢積みのための防災部であったが、阪神大震災後、県の指導により各区単位の自警団を組織するように指導があり、平成12年に組織された任意の自主防災組織であった。
新しく区の組織として出来た自警団をさらに充実させることを急がなければならないが、かといって、急いでもできるものではない。文字通り蝸牛の歩みでしかないが、それでも、
少しずつ充実させることが大切だと思っている。
この自警団組織の主たる目的は、大きな地震災害時の対応が大きな狙いであるが、風水害や、火災等の災害についても当然その範疇に入っている。幅広い防災を視野に入れて、体制作りをしなければならない。
自警団の活動の一つとして火災予防啓発の夜回りがあり、自警団員が3ヶ月に1回くらいの周期で順番が回ってくる。
その昔、私たちの小学生の頃は子供会がその勤め果たしていたが、子供会は現在ノータッチ。それもそのはず、一時期60~70人もいた小学生は、今は10人足らずで、これからどうなっていくのか一抹の不安もある。
子供会が夜回りをしなくなった理由は他にもある。一番の理由は交通事情が変わってきたからである。子供会の夜回りは、日暮れからそんなに遅くならな時間に回ったが、今その時間帯はまだまだ車も多い。事故にでもあったら大変である。また、最近の社会の状況から考えてみても、子供たちだけで夜回りをさせることはできない。
止めになったのは、ここ10年や20年前からではない。もう、私の子供が小学生になった頃には、既に夜回りは無かった。
夜回りが始まったのは、小学生の頃に経験がある年代が、50歳も60歳にもなってから、自警団員の自覚を高めるために始めてはどうかということになり、夜回りを始めて7~8年になる。それでも辛抱強く続いているのは嬉しいことである。
基本的には一人であるが、夫婦で仲良く回っている微笑ましい状況も時々伺うことができる。
久しぶりに回っていると、「今晩は、ご苦労様です。今日は少し暑かったですねえ。」と声をかけ,すれ違っていく隣町のAさんに出会った。




53年ぶりの同窓会で門外不出の話の封印を解いた

2010年04月06日 21時31分42秒 | 豊岡の街

     ―鉄橋を渡りトンネルを抜けるのが日課―
「宮津線の鉄橋」は、もう、架け替えられているであろう。ちょっと行ってみればいいのだが、ばたばたしていてそこまで行けずにいる。
この鉄橋の左岸は、豊岡と城崎方面を結ぶ豊岡―港線と宮津線が平面交叉して踏み切りになっている。その踏み切りの所から鉄橋に入ることが出来るのである。
今から、57年前の4月の終わりから5月にかけてのことである。当時小学6年生であった悪がきども5人が、この鉄橋を渡り当時の国鉄宮津線但馬三江駅(現・北近畿タンゴ鉄道:こうのとり駅)まで行くことを日課にしていたグループがあった。
踏み切りのところから、鉄橋に入るのであるが、戦後間もない時期であり、鉄橋の線路の間には、一枚の幅の狭い薄い板が渡されているだけであり、ところどころ腐って穴が開き、円山川の河川敷や川の流れが見えるのである。板のないところは枕木に足をかけて渡っていくのである。鉄橋を渡りきり右岸に着く。そこからさらに線路に沿って進んでいく。
船町という小さな集落の上を通りさらに進むと、その先には小さな、それでも、4~500mのトンネルがある。そのトンネルは中間どこで短いがゆるいカーブをしていて、トンネルの口から少し入ると、全く明かりが見えない。文字通り鼻を摘まれても分からない暗さである。その暗さがしばらく続いて、向こうに明かりが見えてくるのである。通称・愛宕さんのトンネルといっていたのだが、そのトンネルを抜けてしばらく進むと、但馬三江の駅に着くのである。
学校が終わると、お天気の日はほとんど毎日そのコースを通って目的地の但馬三江の駅に行くことが日課になっていたのである。
その5人が誰であったのかはっきりしないのだが、H君、O君、E君、そして私の4人、それにもう一人いたのだが、それがはっきりしないのである。
平成18年の秋も終わりの頃、小学校卒業以来初めての同窓会を、気比の民宿で開催したときのことである。小学校当時の6年2組は人数が58人であったと記憶しているが、名簿を整理して、35人の住所が確実になり案内を送ったら、宿泊の同窓会であるにもかかわらず、22名の参加者があり、懐かしい小学校の頃の話に夜遅くまで花が咲いたのである。
その中の一人、大阪で、町工場を経営しているM君が、「よく宮津線の鉄橋を渡って但馬三江駅まで行ったなあ。」と話し出したのである。「えっ、君もあの時一緒だったのか。」と思わず言ってしまった。「そうか、それで分かった。確か5人だと思い、4人までは分かっていたが、もう一人が誰だったのかはっきりしないでいたのだが。」
そんな話をしていると、周りの者は全く何の話か分からない。「何の話だ。」ということになり、同窓会参加者にそのときの話をし始めたのである。実は、この話は、門外不出にしていたので、当事者の5人以外は、誰も知らないはずであった。
もう、57年も昔の話だし、時効をとっくに過ぎている、といっても決して法に触れた事をしたと言うわけでもない。しかし、余り人には話せない内容であったので、恐らくその5人は、誰にも話していないのではあるまいか。そのうちの一人は、数年前に他界している。一人は大阪に転居して行ってから音信普通である。豊岡に在住のH君は病床にある。会いたいが会ってくれない。もう一人のM君だけが、まだ元気に現職で働いているとのことが、今回の同窓会を契機に判明したのである。
そんな訳で、53年ぶりの同窓会(当時)を機に、門外不出の話の封印を解き、懐かしい、そして怖い話をし始めたのである。
     -予想さえしなかったことが・・・ー
「但馬三江の駅まで線路伝いに行くことを日課にして何日目だったろうか。いつものとおり、小学校6年生なりに信号機を確かめ、列車が来ないことを確認しての行動開始である。宮津線の枕木に渡した細くしかも薄っぺらな板の上をゆっくりと歩いて鉄橋を渡り、船町高架橋を通過し、愛宕さんのトンネルに差し掛かった。さらに進んで、いよいよトンネルに入った。しばらく進むとだんだん暗くなり(現在はどうなっているか知る由もないが、当時、トンネル内には全く明かりがなかった。)、さらに進むと、トンネルの中間どこは真っ暗で、何も見えないところがしばらく続いた。トンネルが、カーブしているからである。その地点に差し掛かったとき、全く入予想さえしなかったことが起きたのである。来るはずのない列車の音である。(この項続く)