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豊文堂日録

日々の事柄に対する感想意見等

紆余曲折を経て、最良のコースを選択(5)

2010年04月21日 23時14分29秒 | 自序
 
     -教育は時宜を得て受けないと取り返しがつかないー
もっとも学問の自由を尊ばなければならない大学人がその体たらくである。反対意見には聞く耳を持たない。いろいろな思想があり異なる意見を戦わせて発展があるのだと当時の私でさえそう思った。
この戦後30年間は無駄な時間であった。昭和40年代から50年にかけて天下の東大を始め、中央の有名大学に学ぶ者はその意味では本当に不幸であったのでなかったろうか。ほとんど大学で勉強が出来ていなかったようなのだ。
私が中学の校長時代に、「親子ふれあいコンサートを、毎年秋の夜長の時期に、夜間、体育館に保護者や生徒を集めて開催していたが、ある年に、ストローでいろいろな笛を作りそれで曲を演奏する演奏家を招待し2時間ほど聴いたことがある。その演奏家と校長室で話したことがあった。その方が昭和40年代初めに京都大学に在学して居られたという話から、専攻を聞いて驚いた。何と、「宇宙物理学です。」といわれたのである。「それで、全く関係ないことは初めから予測しながら、ストロー楽器と宇宙物理学との関係を聞いたら、「私たちの頃の学生は、大学紛争で勉強が出来ていないのです。だから、その頃の者は、私と似たり寄ったりのことをしているのです。」と意外な答えが返ってきた。
私は、その言葉にショックを受けた。当時、大学紛争の影響で学内での卒業式が出来なくて、学外の会館を借りて卒業式ができたのは、まだいい方で、卒業式を実施しなかった大学も多かったことは、当時のマスコミの報じるところであり私も承知をしていた。
しかし卒業したがその専門分野で全く役に立たなかったと聞いたのは初めてであった。文科系では
その点際立って分からないが、理科系では、受講時数と講義内容でも力が際立つことが想像つく。
1~2間の欠講ではない。大学紛争に明け暮れていたのであるから、力が付く筈がない。
大学紛争の犠牲者なのである。犠牲者は彼らだけではない。その時代をすごした国民もいろいろな意味で、大きなマイナスを蒙っている。
戦争反対を唱えながら、人の命こそ奪わなかったが、多くの犠牲を出したことには違いない。そのことによって、何が変わったというのだろうか。
大学で研究に勤しんで力を付けて、社会に出てその能力を発揮すれば、社会にどれだけの貢献ができたことだろう優秀な人材が学園紛争により、ただの人で終わってしまった。のである。
     -昭和40年代の大学紛争の影響はまだ続いている?-
社会も大きな損失であり、その影響は、まだ続いているのではなかろうか。今、当時学生だった人たちが、年齢的にはまだまだ政治経済の中枢にいると考えるならば、当時の影響が今出てきているとも考えられる。
いつの時代でも、どの国においても、教育の大切なことが身にしみて分る時代である。その教育が戦後ずっと日教組に握られ、今まさに、その影響が絶頂に達していると見える。ヨーロッパでは、20世紀の後半に葬り去られたマルキシズムの火が、政治の力を借りながら、焼け跡の火が再燃するがごとくに燃え上がりつつある。どこかで、それを止めないと日本国が潰れると危惧するのは私だけではないはずである。


紆余曲折を経て、最良のコースを選択(4)

2010年04月20日 23時21分56秒 | 自序

-教育学部勤務と聞き、それは偶然とは思われなかったー
新しい仕事につくまでのこの一連のことは、僅か高校を卒業して1年間足らずのことであるが、この間に学んだことはその後50年の生き方に大きな示唆を与えるものになった。
本当に偶然と思われないことが多く重なり、私にとって最良の方向に進んでいた。まるで、何か大きな力に導かれるがごとくである。当時の私は、何か大いなる力、見えない力によって、最良のコースに導かれていたと思っている。その力の一つに先祖の導きなども考えられる。このことは当時母にも話したことがある。
例えば、大学の試験に失敗したところから始まるが、一時進学を断念し、鞄工場で仕事をしたことは無駄ではなかった。それでも、自分の性分に合わないことが分かり、公務員の道を選んだこと、そして、地方公務員を選ばずに、国家公務員を選んだこと、そして、決まっていた法務局を断り、改めて面接を受けなければならない神戸大学の道を選んだこと、そこに到るまでに、沢山の分岐点がある。その分岐点で上手く方向を選択して進んできたのである。
   神戸大学は、今こそ大学の本部近くに全ての学部が集まっているが、当時は、蛸足大学といわれ、経済、法律、経営学部、理学部は六甲台に、教育学部は赤塚山に、工学部は西代に、農学部は篠山に、そして、ジュニア課程は御影と姫路に分かれていた。
そのように、採用されてもどの地に赴任することになるのか知れないのである。しかし、幸運に教育学部勤務になったのである。
何を隠そう、神戸大学教育学部は、私が受験に失敗した大学・学部そのものであった。
偶然にしては、あまりにも偶然過ぎる。偶然も重なれば偶然でなくなるのである。私が、大いなる力に導かれてと思うのは、当たり前でしょう。
恐らく、誰もそのような体験が一度や二度はおありなのであろうが、多くの人はそれを偶然として片付けているのではないかと思うのである。私はその後もいろいろな場面で偶然としては片付けられない事象・事柄に出会うのである。
     -最高学府大学とは思われない、あるまじき姿を見たー
神戸大学の事務員の時代には、いろいろなことを体験したし見聞きした。そのことがさらに広い視野で物事を考えるうえで、大いに役立ったと思っている。
まず大学の裏を知ることが出来た。大学で一番の中心は、教授陣である。教授陣というよりも一人ひとりの教官のお人柄である。本当に人間性の豊かな方や、成績など事務室に提出しなければならない書類をキチンと期限までに提出する方、それがキチンと出来ない方、とりわけ、言われることと、されることが全くチグハグな方、あまり多くは語られないが、為すべきことはキチンとされる方など、まさしく千差万別といったところである。私なんかは、大学の先生といえば、本当に人格,識見等申し分のない方ばかりであると思い込んでいた。
また、当時は、60年安保騒動の熱さめやらない時期であり、前庭には赤旗が乱立し、まさに革命前夜の気配さえ感じられる雰囲気で、その中で反対を唱えようものなら、生命に危害が及ぶのではないかとさえ思われる雰囲気であった。
教官全てが同じ考えであったとは考えられないが、しかし、反対の考え、例えば日米安保条約賛成の意見を持っている教官は、学生たちの妨害にあい、大学で一番大事な講義さえまともに出来ない時代である。最高学府大学とは思われない、あるまじき姿であった。
リベラリストとして自他ともに認める多くの教官も口を噤んでしまわれたのである。その期間が、70年安保改定期までの10年余り続くのである。


紆余曲折を経て、最良のコースを選択(3)

2010年04月19日 22時01分47秒 | 自序
 
   ―神戸市東灘区住吉町の但馬寮に住むことになるー
試験の結果を問い合わせた12月中旬は、母の叔母の家が日高で食料品店を営んでいたが、その店の手伝いを頼まれて、暫く行っていたが、その店から、神戸大学に問い合わせの電話をしたと記憶には残っている。
昭和36年1月21日採用である。従って、1月17日には神戸に出た。とりあえず、住まいを捜さなければならない。住まいが決まるまで、母の姉のうちが西宮にあるので、そこに厄介になることになった。翌日から住居を捜して歩いた。
ちょうど、神戸東灘区の魚崎町で米屋をしておられる赤木さんを訪ねた。その方は、父の知り合いで、父からお願いして、貸間等を一緒に捜してもらうことになっていた。
大変寒い時期であり、六甲おろしの吹く中、その日は、雪がちらちらと舞う日でもあった。3日ほど魚崎町や住吉町界隈を探し回っていたがなかなかない。当時は神戸といえども、まだ今のように斡旋屋もそれほど多くなく、知り合いや知り合いの知り合いを尋ねて、捜して歩いたのである。
三日目のその日も見つからなくて阪神住吉駅の方向に歩いていると、偶然、(ほんとうは偶然ではないと思っているが)阪神住吉駅から御影駅に到る高架の横の道を歩いていると、向こうから、同級生のY君が歩いてくるのに出会った。彼は予備校に通っていて、近くの叔母のうちに帰るところであるとのこと。事情を話し、どこかないだろうかとたずねると、「但馬寮なら空いているだろう。そこを訪ねてみたら。」と言って、道筋を教えてくれた。
但馬寮は今来た道を500mほど戻ったところにあった。直ぐにその事務室を訪ねたのである。
但馬寮というのは、但馬の高等学校を卒業した者が、都会の生活に慣れる間の約1年間、住むことのできる2食付の寮なのである。
事務室の管理人は、Tさん御夫婦であった。Tさん御夫婦は、豊岡の私の家の近くに家があり、この寮の管理のために暫くこちらに来ておられており、私のうちのことも良く知っておられた。即、入寮が決まった。これで、住むところが決まったのである。翌20日には、手回り品を持って但馬寮に入寮した。神戸という大都会に来ても、本当に多くの知人に会い、そしてお世話になり、何もかもスムーズに運んだのである。
   ―神戸大学教育学部教務掛に配置されるー
翌21日は、いよいよ新しい生活が始まる。緊張しながらも、胸を躍らせながら、大学の事務員としての生活が始まるのである。
指定された時間に、神戸大学本部のある六甲台に出向いた。そして、そこで、君は、教育学部に配置するといわれた。「これから、赤塚山にある教育学部の庶務掛に行ってください。」といって、道順を教えてもらった。
赤塚山の教育学部の庶務掛に行き、そこで、諸手続きした。そのときに出会ったのが、
掛員のHさんであった。
いよいよ、これから、昭和37年12月31日までの約2年間の神戸大学教育学部事務員としての生活が始まる。きょうは忘れられないその記念すべき日になった。


 紆余曲折を経て、最良のコースを選択(2)

2010年04月18日 22時42分20秒 | 自序

   ―多勢より、一人の行動を評価したー
意外であったが、幸いにも国家公務員と兵庫県職員試験の両方の合格通知をもらった。
県の試験では作文があり、「民主主義について」という題で作文を書けというものであった。試験は夏休みにあった。その2ヶ月ほど前に日米安保条約の10年更新反対で、日本中が揺れ動き大荒れをした。そんな中で浅沼稲次郎当事の社会党委員長が、山口二矢という右翼青年に演説の最中に刃物で刺され亡くなり、デモ隊に加わっていた大学生の樺美智子さんが国会正門前で圧死した。日本国中が大荒れに荒れた2か月後、その熱の冷めやらぬ中での受験であった。    
作文に、山口二矢をとデモ隊の暴挙を比較して、山口二矢の行動のほうが立派であるとの見解を書いたのである。もちろん、どのような事があっても、他人を傷つけてはいけないし、ましてや命を奪うことはもってのほかだとの意見を前提に、民主主義は一人ひとりが自分の意見を持ちその意見を戦わしてこそ意味があり、そのことが民主主義の大前提である。にもかかわらず、多勢に力を借りて自分の意見を通そとするデモ隊の姿勢は、暴力の力を借りるという点では、山口二矢と同じレベルであり、自分の考えで動くと行く観点で見るならば、山口二矢のほうが上である。しかも彼は、命を懸けて行動を起こしている。(彼は、獄中で自殺したと記憶している。)というような内容のことを書いたことを思い出すのである。面接で作文のその部分ついて、改めて質問されたのであるが、上のような説明を繰り返し、多勢よりも一人の行動を評価した意と言ったように記憶している。
その後、音沙汰がないので、てっきりあの作文の内容で試験は落ちたと思っていた。しかし、暫くして合格通知が手元に届きほっとしたことを憶えている。
ところで、国家公務員試験の方はどうかというと、そちらも合格通知が届いたのである。
そこで、どうするかを考えた。単純に考えて、県より国の職員のほうが上のような気がして、国家公務員のほうを選択し、県職員のほうは、人事委員会に丁重にお断りの手紙を出した。ところで、当時もその後も、国よりも兵庫県の職員のほうが、給料の面では多少多いということを後日知ったのであるが、当時は待遇には思いも及ばなかったのである。
     -採用通知の来た法務局を断り、神戸大学の面接にー
国家公務員の方は合格することにより名簿に登載された。その後、まず、加古川刑務所から面接にくるようにとの案内があったが、同時に神戸法務局から面接の案内があった。
刑務所よりも法務局のほうがいいとの判断で、加古川刑務所は丁重にお断りし、法務局の面接を受けることにした。
法務局の面接を受けて、暫くして採用通知が届いた。いよいよ法務局に勤める腹になった時、法務局の採用通知が届いた日と同じ日だと記憶しているが、神戸大学の本部から、面接の案内が届いた。さて、そこで迷った。右するか、左にすべきかである。
結果、もうすでに採用が決まっている法務局より、神戸大学という名前に惹かれた。まだ少し大学に未練があったのだろうか。三度丁重に、今度は法務局にお詫びをしてお断りをした。そして、いよいよ神戸大学の本部がある六甲台に面接試験を受けに向かった。
面接を受けて、1月がたった頃、とうとう痺れを切らして、神戸大学の本部の庶務課に問い合わせをした。年も押し迫った12月14日頃だったと思う。
結果、「採用することに決まりました。本日採用通知をお送りします。採用日は、1月21日です。当日、本部に来てください。」とのことであった。やれやれである。


紆余曲折を経て、良のコースを選択(1)

2010年04月16日 22時30分11秒 | 自序
 
   -昭和36年1月21日は、私の再出発の日―
「ゲゲゲの女房」の時代背景は、昭和36年1月の下旬。
その頃私は神戸大学教育学部に国家公務員として歩み始めたころであった。忘れもしない昭和36年1月21日(土)が着任した日であり、その日は土曜日で、亡くなった教育学部長の黒田先生の学部葬が午後挙行される日であった。勤務初日であり土曜日でもあったので、午後はフリーになった。住まいが決まり部屋の掃除などもしなければならない日であったので言われるままに下宿に帰った。
ここに至るまでには、紆余曲折があったが、それでも今考えれば一番いいところ就職できたのだと当時を振り返っている。
高校を出て大学進学に失敗したことから、進学をあきらめ、従兄弟の経営する鞄製造業の仕事をすることになった。父も過去に鞄の仕事をしていたこともあり、「そのうちに鞄の仕事を一緒にしようや。」との内々の話もあり、そこに勤めることになった。
主な仕事は、鞄の材料の組み立てであったが、一日中座り込んで釘のかしめをしたり、鞄にトッテをつけたりする仕事で、なかなか慣れるには時間がかかった。今の豊岡の鞄業界は、あまりいい状況ではないが、当時は大変盛況で全国シェヤ―80%の時代であり、従兄弟の会社も比較的よい状況であった。
鞄の仕事は、農繁期になるとになる。それは、農家が忙しくて旅行に出る時期ではない。
「たーさん、今の暇な時期に車の免許でも取りに行ったらどうだ。」といってもらい、当時この周辺では自動車学校はまだない時代で、唯一あった八鹿の「全但バス自動車講習所」に通うことになった。そこでは、毎日10分間の実技(自動車の運転技術の獲得)と法規と車の構造を教えてもらう。そして、自信がついたら明石の試験場に行き、そこで試験を受けることになるのである。
昭和35年6月23日に明石の試験場で受験した。幸いにして一発で合格。こんなに簡単に取得できるのならば、思い立ち大型免許の取得に向かったのである。申請して3回は受験できることになっており、ペーパーテストは一発であったが、大型だけに技能試験が難しく、それでも、三回目に大型免許を取得することが出来た。
この経験は、私の今日まで生き方にかなりの影響を与えることになった。
そのうちに、どうも鞄製造の仕事は私には向かないことが分かってきた。夏には、鞄の仕事を辞めることにした。
夏休みに、国家公務員と兵庫県職員の採用試験が行われた。父の友人の勧めもあり両方を受験することになったのである。
(以下に続く)