goo blog サービス終了のお知らせ 

豊文堂日録

日々の事柄に対する感想意見等

「数え年」の発想は、生命を大事にする心が基

2010年03月30日 22時52分59秒 | 豊岡の街

    ー誕生日お祝いメッセージの交換は家族交流のよい機会ー  
先日、25日は、家内の誕生日であった。孫たちが次々に「おばあちゃん誕生日おめでとう」と電話でメッセージを言ってくる。家内は、そのたびに嬉しそうに対応していた。
もちろん、子や孫たちの誕生日には、こちらからも、メッセージを贈ることにしている。
ところが、先日の夜、神戸の孫から電話がかかってきた。家内が電話に出てさかんに誤っている。「ごめんなあ、今日電話をせんなんなあと思っていたのだけど、忙しくてつい忘れてしまって。こめんね」と。
「どうしたのだ。」「今日はたく坊の誕生日なんだけど、おめでとうと電話するのを忘れてしまっていて。」「ああそうだったなあ、今日は、たく坊の誕生日だったなあ。」
その後、「お祖父ちゃんに代わるよ。」と私に回ってきた。
「今晩は、今日はたく坊の誕生日だったねえ。それでいくつになった。」電話の向こうで、「9歳になりました。」「そうか、大きくなったねえ。それで、今年の四月からは、4年生になるのだねえ。早いなあ。遅くなったけど、たく坊、誕生日おめでとう。これからも、元気で一生懸命に勉強や運動をして大きくなるんだよ。」「はい。」「それからねえ、誕生日というのは、おめでとうと祝ってもらう日なのだけど、もう一つ、今日まで大きくしてもらったお礼を、お父さんやお母さん、そして、家族の人にいう日でもあるんだよ。お礼を言って、これからも、よろしくと家族の人に言おうね。」「はい、分かりましした。」
それでは、春休みには、また豊岡に帰って来なさいよ。」といって、電話を切ったのである。   
今、誕生日おめでとうのメッセージを送る範囲を、子供10人(5夫婦)と孫10人の計20人にしている。1年間に20人の誕生日は忙しい。ついつい忘れてしまうので、カレンダーにきちんと書き込んである。それでも、多忙でついうっかりと言うこともある。それゆえに、気がついたら、前日でも「おめでとう」ということもありにしている。
このように誕生日お祝いメッセージの交換は家族交流のよい機会になっていることを強く感じるのである。
―「数え年」の発想は、生命を大事にする心が基―
そもそも、私たちの子供ころは、誕生日を祝うと言う習慣はなかった。
数え年で年齢を数えた。数え年といのは、母親のお腹にいる10月10日の間を一年と数えたのである。だから、生まれたときが1歳、お正月が来たら数えの2歳になる。つまり、お正月を迎えることによって、誰もが1つ年を取ることになるので、家族一斉に「おめでとう」なのである。
お正月と言うのは、「新しい年を迎えておめでとう」という意味と、「一つ年をとっておめでとう」と意味が重なっているのである。
戦後は、アメリカの思想を押し付けられて、家族全体を祝うというのでなく、一人ひとりの誕生を祝うという個人主義的な発想により改められたのである。と同時に、お母さんのお腹の中で生命が芽生えたという発想が消えてしまった。つまり、受胎直後は、生命と認めないことから、わが子を堕胎するというようなことが行われるようになってしまったと思われる。戦後の思想がどうであれ、心ある日本の父と母は、授かった子供は全て尊い命としてこの世に送り出し、さらに生まれてきた子供たちを緊張しながら成人まで育て上げたのである。しかし、戦後の思想に翻弄され、経済的理由からわが子を堕胎した親も多く、戦後堕胎された胎児の数は、年間、百万とも二百万ともいわれた時期があった。
現在はその数がどうなっているか分からないが、それでも、堕胎は続いている。法律が許しているからである。生命を大事に、生命を大事にと言いながら、一方でわが子を堕胎して闇から闇に葬る行為をしているとするならば、以心伝心、子供たちが生命を大事にしない原因がここにもありそうである。



人の成長には、自分を映す鏡が必要である

2010年03月29日 21時27分18秒 | 豊岡の街
 
    ー子供のいる生活は、大変であるー
昨日から、神戸の長男の家族が春休みになったので帰ってきた。当初は27日に帰って来る予定であったが、新たな予定が入って、2日遅れた。長男も仕事の都合が付かず、嫁が3人の男の子を車に乗せて帰ってきた。10時頃、電話が買ってきたので、「間もなく着くのか。」と聞くと、「今、まだ神戸なのです。」との返事。前日の夜、電話をしてきて「明日は、お昼前に着きます。」と言っていたので、てっきり、到着かと思ったのであるが。
「11時頃の出発になると思います。」とのこと。とすると所要時間が3時間として、午後2時には到着することになろう。そう思いながらしなければならない仕事を片付けていた。
11時半頃、孫から電話があった。「おじいちゃん、これから出ます。」えっと思ったが、「そうか、これから出るのだね。お母さんに、気をつけて運転して来てくださいと言ってなあ。」と言って電話を切った。
午後3時10分前になって、電話がかかってきた。「もしもし、お父さんですか。」「そうです。」と答えながら、頭は次のことを考えながら口からは言葉出ていた。「もう神戸を出発しましたでしょうか。」と。「はい、神戸は出まして、今、養父を走っております。」と嫁の声。
「早いねえ。もう養父まで来ているのか。(笑い)」「はい。(笑い)」「そしたら、もう40分くらいかなあ。」「それくらいには着くと思います。」
「気をつけて、来てください。」と言って電話を切った。到着したのが4時であった。
ご苦労様でした。神戸から来るのも大変である。私は大体2時間半ぐらいで走るので、その感覚で時間を計算するが、子供を連れて移動するのは大変である。そんなに思い通りには行かない。
    
豊岡に来たらどこかに連れて行ってやりたいと思っていたが、寒の戻りと言うか、風と時雨のような雨降りでどうにもならない。結局、家の中で、すごす事になるが、母親はそのあたりの子供のエネルギーのはけ口を心得ていて、「みんな、これから、SL公園に行こうか。」と誘うと、
子供たちにとっても渡りに船である。「行こう、行こう。」といって出かけていった。どうにか雨も止み、1時間ほどして帰ってきた。子供たちの顔は満足そうである。母親は大したものである。
     -人は、自分を映す鏡であるー
翌日の今日も寒く、霰が降ったり、霙に変わったり、それが雪に変わったりして、天気予報のとおりである。どこにも出かけることは出来ない。折角、遠方から来たのに何をすることも出来ない。お昼前から、長女が3人の子を連れてやってきた。
男の子が、6年生を頭に、4年生、2年生、1年生、そして、幼稚園前の男の子、それに、満2歳の女の子が今日はそろった。5人の男の子たちは、みな大きくなった。今までの動き方と少し変わったようである。今までは、告ぐに喧嘩が始まったが、少しずつ自分を制御する心が育っているようである。喧嘩が本当に少なくなった。それでも久しぶりの従兄弟同士の交流で、時々、喧嘩をしながらも、離れられない兄弟のような関係になっている。これこそ望む姿である。
「これからはなあ、兄弟や従兄弟がお互いに仲良く助け合って過ごさなければならない時代が来る。そのためにも、出来るだけ、機会あるごとに交流を深め、お互いの家庭を訪問し、訪問させることが、とっても、将来大きな力になるよ。お互いが、子供を預けたり、子供を預かったりすることによって、子供たちは、従兄弟の家での生活を通して、多くのものを学ぶことになる。」これは、子供が多いからら可能である。その利点を大いに生かすことが大事である。というのが私の持論である。わいわいといって喧嘩をしながらでも、それぞれが、自分というものが分かり、自覚していく。自分の姿が見えてくるという仕掛けである。自分の姿が見えないと人間は不安になり、暴れだすのだと私は思っている。
我々の子供時代は、家族が多かった。兄弟が6~7人。子供だけではない。大人も沢山いた。祖父母、父母、さらには、曾祖父母までいたのである。
しかも、狭い家で沢山の大人と顔を突き合わせ、また、兄弟たちとじゃれる中で、自分がどのような子供であるかを嫌というほど指摘され、否応なく自分自身の姿が見えてくるのである。そのことが人格形成にとても役立ち、引いては、自分が何者であるかが分かり安心するのである。
屋外に出れば、そこには沢山の悪たれがいて、そこでも喧嘩もあれば、罵倒し合うこともある。
そこでも否応なく、自分の長所・短所が指摘される。
ところが現代は、家の中にも屋外に出ても、人と触れる機会が極めて少なく、ふれあいの密度も低い。人は、自分を映す鏡である。そして、人の成長にはその鏡が必要なのである。にもかかわらず自分を映す鏡になってくれる人は周りのほとんどいない。自分自身が分からないのも当たり前である。
こうして考えると、子供が沢山いることは子供が育つ上で大変大事であることが理解できるであろう。昔から「少なく生んで、立派に育てる」と言われるが、それは虫のよい話であり、困難なことであろう。現代の世相がそれを証明してくれているのである。


父母たちが自らの手で築き導いた父母たちの人生

2010年03月28日 23時12分33秒 | 豊岡の街

   -三世代の生活なればこそー   
(前承)父母は、真剣に子育て、さらに孫育てにも随分尽力してくれた。
私は3男2女の子を授かり、その子たちは既にそれぞれ家庭を持っているが、長男が生まれた年に父は26年間勤めた米穀会社を退職した。父は、歩き始めた長男をよく散歩に連れて出て、子守もしてくれた。時間的に私が風呂に入れないときには、風呂にも入れるなど助けられたのである。家内も専業主婦で子供の養育に当たっていたが、それでも少しの応援で、随分助かったと今でも話すのである。
三世代の生活なればこそである。
ある時は、「今日は、お祖父ちゃんと、お宮さんにお参りに行ってきた。お掃除をしてきた。そこで、ジュースをもらった。」と、片言で話が少し出来るようになった長男の報告である。
父の補足説明によると、寿賀神社にお参りすると落ち葉がたくさん溜まっていたので、箒を探してきて境内を掃除したのだそうである。もちろん長男は、まだ箒を持って掃除ができる年齢でもない。その真似ごとを見ていた近くのうちの人が、ジュースを持って来て下さったのである。
「父はいい教育をしてくれているなあ。」とそのとき私は思ったのである。
父母は、私の5人の子育てに随分力を貸せてくれたと思っている。
毎日の生活の中のいろいろな場面で、子供たちはいろいろな躾をしてもらい、散歩に連れて出てもらい、風呂に入れてもらったのである。時には畑に連れて行き、草取りや芋ほりなども体験した。また当時は、いちごを沢山作っていてイチゴ狩りもしたこともある。
それら一つ一つが、子供にとっては肥やしであり生きる力として身についている。
その一つ一つが集約された結果を、私は目の当たりにすることになる。
それは、父が亡くなる前、4ヶ月間ほどのことである。
亡くなる前の年の11月末に、父がかわいがっていた姪が病気で亡くなったのである。当時明石に住んでいったが、葬式は豊岡でしたいとの家族の思いもあり葬式は豊岡で執り行われた。
その通夜には、父も元気に姿を見せ、親戚のものとも顔を会わし話もしていた。
「お父さん、明日の葬式どうする。」というと父は、「もう参列はしないことにする。」といって葬式には出なかったのである。
ところが、葬式が済んでしばらくすると、少しずつ食が細くなり食事がまともに入らなくなった。年内は、それでも、少しずつでも食事は入っていたし、暮れに搗いた餅も食べ、新年は、屠蘇も無事祝ったのであるが、七日正月が済んだころから食事が入らなくなりベッド生活が始まった。
主治医に寄る毎日の往診と点滴が始まった。
    -父母たちが自らの手で築き導いた父母たちの人生―
長男は、神戸で仕事をしていたし、二男は京都の学校に出ていたが、その子たちが日曜日ごとに帰って来るのである。もちろん、祖父を見舞うためである。また、家には保育園に勤める長女と高校生の三男と二女の3人がいたが、明治人間の父が、出来るだけ家族に世話をかけたくないとの思いから、トイレにも這って行くというのである。それを見た長女が、「おじいちゃん、そんなことしてトイレにかれへんで。」といって、父を前から抱えて、トイレまで運んだのである。また、足がだるいというと、母や家内はもちろんであるが、その3人の子供たちが代わる代わる父の足をさするのである。
その様なわが子の祖父に対する姿勢を見て、今更のごとく父とわが子たちと絆の強さに驚いたのである。ここまで、父母たちは、子供たちの心を培ってくれていたのだと思うと目頭が熱くなるのを覚えたのである。
父は、その四月に96歳で他界した。
納棺のとき3男が祖父に手紙を書いて棺に納めた。何を書いたのか聞くこともしなかったが、きっと、長い間世話になったことへの感謝の言葉だったに違いない。
そして、母はまだ、102歳でベッド生活であるが使命を果たすべく元気に頑張っている。
帰郷すると、まず、神棚と仏壇の前で、わが子とともに神仏を拝し、そして、ベッドに寝ている祖母に挨拶する。うれしい事である。これも、父母が、懸命に子育て、孫育てをしてくれたお陰である。言い換えるならば、父母たちが自らの手で築き導いた人生である。きっと、父母とも「老後も幸せだったなあ。」と満足に思っていてくれることを確信する。
そして、祖父母が涵養してくれた心を糧にして、その孫たちは、真剣にでも人生を楽しみながら、世のため人のため働く努力をしている。
親として、その様子を見るにつけ、父母に感謝すると同時に、私の父母のようなことは出来ないが、今、私たちが子や孫たちにしてやれることは何かを考えながら、少しでも生きる力が付くように頑張らなければと、家内とも話すのである。


明治・大正生まれの親たちの生きる目的の第一義は子育て

2010年03月27日 21時18分45秒 | 豊岡の街

    -戦前・戦中・戦後の両親の暮らしー   
(前承)私たち子供時代の親たちは、自分のしたいことは後回しにしてでも、子育てを第一義に考えて生きてきた。
私の両親も同様である。特に明治生まれの両親は、私たち3人を懸命に育ててくれたと思っている。父は母と結婚して一年ほどは、兄夫婦、甥2人、姪5人、そして、自分たちと2所帯11人の家族であった。その中で大家族の家から独立することを考えた。
その日のために、毎月15円ずつコツコツと貯めてきた千円を元手に店舗を借り、その店を改築し、さらに300円のお金を借り入れ、小さな本屋を始めた。店には、書籍以外に文房具類も置かれていた。そして、平行して、当時少しずつ広がっていたファイバー鞄(いわゆるトランク)の製造工場を親戚の者と共同で立あげている。
しかし、時代としては、日本が大東亜戦争に突入する前後であり、物資も少しずつ入らなくなるという状況になっていくことになる。日米の開戦後から終戦にかけては、書籍は思想統制の影響で何かあると当局の事情聴取を受けることが多くなり、嫌気がさして、終戦になる前に廃業してしまった。僅か10年余の営業であった。
一方、ファイバー鞄の製造工場も、トランクにつける金具が不足し廃業を余儀なくされたのである。
父は、知人の勧めで当時の食糧営団に入りサラリーマン生活が始まるのである。
戦後は、食糧営団が食糧公団に変わった。さらに、民間に引き継がれ、米の卸を主とする米穀会社に発展していくのである。
70歳で退職するまでの26年間をその会社で働いた。
その間、今の家を買い求めた。昭和19年に商売を止めて前の場所でなくてもよかったのと、前の家は北但大震災後に駅どおりを中心に建ち始めた鉄筋コンクリート製の家屋で、今のように空調設備は無論無く、普段でも壁面が結露し、梅雨時期なると押入れの布団が湿り、健康のためには極めて悪かった事もあり、その家を離れて今の場所に移り住んだのである。移り住んで間もなく、幸運にも家主に金の入用ができ家を手放すことになった。戦後の大変な時期であったが、当時40万円の一時金と、後は毎月3000円の今でいうローンで売ってもらう事になったのである。決して、豊かでなかったのだが、チャンスを逃さなかったのは、両親の賢明な決断であったろうと当時のことを思い起こしている。
    ―明治・大正生まれの親たちの生きる目的の第一義は子育てー
そのような状況の中で、兄が大学に入学した。戦後10年経ったころの話であり、父母は随分苦労をした。特に父は、毎日の仕事から帰って夕食後、夜なべに内職として従兄弟がしていたビニールかばんの仕上げの仕事をしていた。12時を過ぎることもざらで、夜中にトイレに起きるとまだ仕事をしていることがあり、鞄の仕上げが急がれるときなどは、午前3時といった時間になることもよくあった。それでも、翌日は時間通りに出勤していった。
私は中学生であったが、知人の紹介でNHKの聴取料の集金業務に携わったこともある。
私は、一旦は、国家公務員として勤め始めたが、兄が卒業をして3年後に大学に進学に進むことを決断し、さらに、弟がその二年後に大学に入学をした。2人とも国立ではあったし、アルバイトをしたとは言うものの、学資と下宿料との仕送りは大変なものであったろう。
そんな中でも愚痴一つこぼすことなく、私たちを一人前に仕上げてくれたのである。両親の内職は何年間続いたのであろうか。私が卒業して豊岡に帰ったときには、かばんの仕事もなく、またその必要もなくなっていたのであるが。
お陰で、我々兄弟は大学を卒業し家庭も持ち、社会人として幸せな人生を歩むことが出来たのである。両親への感謝はし過ぎるという事はないし、感謝の気持ちを忘れたことはない。
明治・大正生まれの親たちは、本当に子育てが人生の目的の第一義であったのである。



人間の生きる目的の第一義は生命を繋ぐことである

2010年03月26日 22時31分28秒 | 豊岡の街

    -人間は、どうして子育てが上手く出来ないのかー
長女から電話があり、これから、ケン坊をこれから目医者に連れて行きたいので、少しの間、ほかの二人を見ていて欲しいとのこと。了解して待っていると、長男のター坊と下のレー子を連れてきた。
外は寒の戻りで寒くどこのにも行けない。
「おじいちゃん、『ダーウィンが来た』が見たい。」とうので、撮りためたDVDを取り出して、再生した。私は、この番組が好きで、欠かさず収録し、編集して貯めてある。
これを見ていると、実に上手に子育てをするのである。万物の霊長であるのに人間は、どうしてこのように上手く子育てが出来なのだろか。
人間を教育するということは、そんなに難しいことであろうか。それぞれの動物は、家畜として、人間に飼われている動物は別にして、ジャングルで子育てをしている猛獣にしても、樹上でヒナに懸命に餌を運んでいる小鳥にしても、それぞれ親の責任において命がけで子育てをしている。これはどうしてなのかと考えるときに、これが生きている第一の目的であり、それ以外に生きている目的がないということがわかる。つまり、命を繋ぐために生きているのだ。人間以外の動物が子供を生んで育てることに懸命になることが理解できる。ただ、さらにいうならば、命を繋ぐと言う目的をさらに確実にするために、出来るだけ強い遺伝子を持った命を繋がなければならない。だから、動物の雌は少しでも強い雄、雄らしい雄を選ぶ。また、雄は、最も優秀なオスとして雌に選ばせるために雄同士が闘い、相手を打ち負かすことに命がけになる。彼らの動きを見ていると優秀な子孫を残すことのみに懸命になっている様にみえる。本当にそのとおりである。
それぞれの種は、それぞれのやり方で、でも確実に優秀な子孫を残すことに成功している。
もちろん、人間と言う獰猛な種?が、その営みの邪魔さえしなければの話である。
    ―人間の生きる目的の第一義は、命を繋ぐことであるー
それでは、当の人間は、生きる目的をどのように考えているのだろうか。少なくとも、今の日本人は、命を伝えることを第一義に考えている人は少ない。少し前にも、ある女優が討論会の中で、「女には、子供を産まない自由がある。」と言っていたが、それに対して、ほかの人からは、一言も反論はなかった。それを聞いていて、「本当にそれでいいのだろうか。基本的には結婚して
子供を授かって、子育てをすることが、人生の第一義と考えるべきでないだろうか。」と、テレビの前で家内とも話したのである。この世に生を受けた以上は、また、そのことに感謝する人生であるならば、同じように、その命を次の世代へ繋ぎ、さらに命が広がっていくように考えるのが、人間として当然のことではないであろうか。人間は動物と違い、どのような考えも持てるし、どのように考えてもいいが、ただそれでは、本来の生物が持っている命を繋なぐという目的を果たすことは出来ないであろう。自分が生まれてきていることを否定するならば、それはそれで仕方がない。しかし、自分は生まれてきて好き放題することには賛成しかねる。例え、命を繋ぐことが第一義でなくとも、第二義、第三義であっても、生まれてきた以上は、次の世代へ命を繋ぐ努力をしなくてはならない。それをしないのは、身勝手であり気侭であると考えるがどうか。
(この項続く)