
なんで、あんなに大変な思いをしたのに、コーヒーを復活させてしまったのだろう?って、過ぎてしまえば、記憶の彼方に飛び去っていくものです。
思い出したので、記録しておきます。
16,000文字を超えてしまった、超プライベートな内容になってしまったので、読まない事をお勧めします。念の為。
昨年、父が逝きました。
私は地元から、移動に半日程かかる場所に住んでおります。
父は単身でヘルパーさんに助けて頂いたり、デイサービスに通ったりしながら、次弟家族の近くのアパートで暮らしておりました。
母は健在ですが、私が嫁いだ後に父と離婚し、現在は独身の長弟と2人で駅近のマンションで暮らしています。仏壇もそこにありますし、私の長女が独身の時は同居していたのもあって、なぜかその長女の使っていた部屋は、謎な私の部屋と母が呼ぶ部屋もありますので、そこを私は実家と認識しています。
離婚後、2人が顔を合わせたのは、多分、私の嫁ぎ先の葬儀の席だけだったと思います。
そんな状態の中、ちょうど世間はコロナ一色になった頃に、父は散歩中に路上で倒れ、心肺停止となりました。
幸いな事に、通りかかった方が救急車を呼んで下さり、その場で蘇生処置をして頂いて、命を助けて頂きました。幾つかの後遺症は残ったものの、基本的には元気になりました。
退院後、父の強い希望で、暫く、倒れる前の生活をしていましたが、世話をしてくれていた次弟が、これ以上は独居は無理と判断しました。
兄弟で相談しましたが、どの家庭も要介護の父との同居が出来る状態では無く、ケアマネさんからご紹介いただいた介護施設に入所させて頂きました。
それまでも、距離も有りますし、様々な事情があって、なかなか父と会う事は難しかったのですが、電話だけは頻繁にやり取りしていて、私も父も電話でおしゃべりするのが楽しみでした。
施設に入ってからは、電話も度々とはいかず、まして、コロナ感染拡大の影響で面会もかなわず、たまに、次弟が施設に届け物に行った際など、父の様子を知れせてもらうだけでした。
施設の生活にもだいぶ慣れて来た頃、父は突然意識消失をおこしたそうで、施設近くの病院に救急搬送されました。
次弟が病院から受けた説明では、盲腸炎から酷い腹膜炎をおこしていたようで、一時は心肺停止してしまったそうですが、幸い手術は成功して、命を助けて頂きました。その後3ヶ月ほど、そちらの病院で入院しておりました。
身体は回復しましたが、認知状態がだいぶ落ちてしまい、元の施設には受け入れて貰えず、系列の施設を病院から紹介していただいて入所しました。
その施設でも、施設職員の方々のお陰で、認知の衰えはあるものの、足腰も回復して、屋内でボールを使ったリュクリエーションにも積極的に参加するなど、元気に生活できていたようでしたが、昨年の1月に夜中に悪心を訴えて、廊下にフラフラと出て来て、その場で嘔吐してしまい、その際、自身の嘔吐した吐瀉物が気管支に入り、3度目の心拍停止となってしまいました。
深夜だった事もあり、対応にあたった職員の方は、卒中だと思ってしまって、対応してしまったそうです。19分間の心肺停止状態の後、救急隊員の方による蘇生処置で、一命は取り止めたものの、2ヶ月近くICUにおり、回復に努めて下さいました。
今回は自発呼吸は戻りませんでしたし、意識も無い状態だと言われました。
病院側からは、救急で入院したので、これ以上、当大学病院では引き受けられません。と伝えられたそうで、引き受け先の病院を探して頂きました。引き受け先はなかなか見つからず、幾つかの候補の病院のベットの空き待ちとなりました。
退院までの間、大学病院のきめ細やかで平等な対応に、次弟は、ひたすら感動していて、日々の丁寧な対応に申し訳なくて、1日も早く転院させたいと言っていました。
転院の連絡は突然届きました。空きベッドが出たので、介護タクシーを手配して、明日の朝、転院すると次弟から前日の夕方に連絡が来ました。
偶然、翌日から連休の予定を組んでいたので、迷う事無く、転院に立ちあっても良いかと聞くと、朝も速いし時間は変えられないけど、大丈夫?と聞かれたので、すぐに、長距離バスを調べて、間に合う時間の便が予約出来たので、立ち会う事に決め、すぐさま、バスの乗りました。
8:30に最寄り駅に着いて、次弟の車にピックアップしてもらい、大学病院に向かいました。
本当に久しぶりに見た父の姿は、予想は出来ていましたが、正直な所、胸をえぐられる様な様子でした。それでも父に会い、言葉をかけ、手を握り、身体を摩ってあげる事が出来、父の命に触れる事が出来た事は、とても、とても、ありがたく、貴重な時間でした。
2つの病院の管理下のすきまに出来た私には奇跡の3時間でした。
引き受け先のドクターとの面談で、積極的な治療は出来ない状態である事。生命維持に必要な人工呼吸器の維持と、栄養点滴は行う。もしも状態が安定したら人工呼吸器を外します。といった説明があり、わたしから、人口呼吸器が外れる目処と、点滴の拒否が可能か?と2点をお聞きしたところ、自分の経験上、呼吸器が外れるところまで、回復するかどうか---と言葉を濁され、点滴については、それは出来ません。入院条件に合致しなくなります。とのご回答を頂き、次弟と2人で了承しました。
父が収容されたフロアーは面会条件が厳しいフロアーで、私はその後、自分や家族が体調を崩したりと、様々な事情が重なり、父に会いに行くことが出来ずにいました。
入院から9ヶ月が過ぎた頃、次弟から「病院から父がもう危ないと連絡が入った、」とショートメールが入り、たまたま休日で自宅で連絡を受けたので、仕事中の夫と、職場に連絡を入れて、そのまま電車に飛び乗り、父の元に駆けつけたのが、父が亡くなる4日前の22:30でした。
職場には、以前から事情は話していたので、この時の為に貯めておいた有給休暇を全て使って、ゆっくりして来いと。気持ち良く送り出してもらいました。
遠方での親族の病気や介護など、時間が読み切れないケースは、収入の心配も出てくるので、職場のサポートの手厚さは、本当に心強いものです。
そこから臨終を迎えるまでの間、母と長弟の暮らす実家に泊めて貰いながら、父の入院先の隣町の病院までバスで片道1時間半かけて通って、1日30分の時間制限がありましたが、毎日、父に付き添う事が出来ました。
病院との往復や移動の待ち時間が多くなったり、時間潰しにcafeを使わざる得ない状況が重なったりで、疲労困憊している状態の時に、あま〜いカフェラテほど、瞬時に心身を癒してくれる飲み物は思い当たりませんでした。その一杯をきっかけに、まんまと、コーヒーを飲む生活に戻ってしまいました。
その後、父の葬儀まで火葬場渋滞で5日程かかってしまったので、葬儀の段取りを済ませて、一旦、新幹線で家に戻り、今度は葬儀に参列する支度をして、夫と次女家族と息子と一緒に車で葬儀に向かいました。
長距離移動でも、一回復活してしまったカフェイン依存状態は継続し、その1週間で、すっかりカフェイン漬けに戻りました。
振り返ってみると、父を失くすという経験のさなか、私はほとんどコーヒーのプラカップ片手に、スマホを見ながら、せかせかと歩いていたように思います。
父の入院先に通っている間は、母と長弟が暮らす実家に泊めてもらっていたので、3人で夕食を食べに行き、なんだか、毎晩、美味しいものを弟にご馳走になっていました。
本当は父の入院していた病院の側のホテルを取りたかったのですが、母が許すはずも無く、長弟とも母ともそれぞれと、詰めた話をしなければならず、自分の心身の負担より、父と次弟の為に、しなければいけない事を優先させる事にしました。
長弟は会社員ですが、父が危篤と言う事で、在宅ワークにして自宅待機していましたが、父と母の確執の中で、彼も思うところが多々あり、病院には行かないと決めていました。
次弟は 病院からの連絡を受け、すぐに駆けつけてくれていましたが、逆に自営業者なので、今後の予定の為に、とても忙しい状況になり、私が毎日、病院に行けるので、自身の用事がこなせて助かった。と言っていました。それ程までに、子育てと事業に忙しい中、次弟には、父の事を任せっきりにしていたのでした。
家族とは、とても密に連絡を取り合っていましたが、身体的には単独で行動していました。比較的、病院に近い所で働いている長女が一回は一緒に面会に行けましたが、時間の調節が難しく、無理はしなくていいよ。と私から言って、結局一人で病院に通っていました。他の子供や夫は遠方な事も有り、先が見えないから、来なくて良いと伝えました。
父に付き添うのと、父の葬儀を穏便に執り行えるように段取りするのは、私の役目だと思っていましたから、その私の思いを家族みんなが支えてくれて、私は自分の勤めを果たせたのだと思います。特に夫には毎晩、沢山、話を聞いてもらって、精神的なサポートをしてもらっていました。
その他にも、思い出すと切りが無いほど、沢山の支えを頂いた4日間でもありました。
父は最後まで、意識はあったと思っています。
声かけには、しっかり反応してくれていました。
だいぶ耳も遠くなっていたので、大きな声でないと聞こえにくいので、周りの患者さんもおられる中、周囲を気にして、声をかけづらい状況ではあったのですが、看護師さんが、気にせずに声をかけてあげて。とおっしゃっていただけたので、通っている間は毎日、声を届ける事ができました。
担当してくださっていた看護師さんから、入院中の父の話を聞かせていただけました。
意識はないと言われての転院だったのに、看護師さんは呼吸器が外せないから、声が出せないし、身体を動かす事も出来無いけど、看護をしていると、聞こえてるし、わかってくれているようなんです。
それでいて、余り苦しい様子も無く、笑っているような、穏やかな様子でいてくださっているので、私達みんな、お父様のファンなんですよ。と話して下さいました。わかっておられると思うだけに、ご本人はおつらかったと思います。娘さんがこうして毎日来て下さって、本当に良かった。と私より泣いて下さったのが心底ありがたかったです。
危篤の連絡で会いに行って、実際には身体に触れる事も出来ない様な身体状態なのに、父は入院時に見送った時よりも、健やかそうに見えました。
どれほど、手厚い看護をしていただけたか想像がつきます。
もう、今はね、この辺をふわふわしてるんじゃないかしらねぇ、などと笑顔でおしゃっていただけて、救われた思いがしました。
亡くなる前日は、多分、明日の朝、発つのだろうと分かったので(*1)近くのホテルを取ろうかと迷いましたが、急な予定変更は母には負担が大きいので、あきらめて実家に戻って、母と弟達にその旨、伝えました。
父の最後は、やはり、朝の早い時間に病院からの呼び出しがかかり、弟達と急いで車を飛ばしましたが、少しの差で父は事切れていました。それでも、病音側の配慮で、なんとか兄弟3人で一緒にお医者様からの死亡宣告に立ち会わせていただく事が出来ました。
その際も、フロアー長さんから、担当医が抜けられない学会の出張で不在になってしまった事を詫びて欲しいと伝言をされていた事と、朝の引き継ぎでゴタついてしまい、呼び出し連絡が遅れてしまって申し訳なかったと、こちらが恐縮するほど平謝りされて、出立の際には、とても多くの職員の方々がお見送りに出て下さって、驚くばかりでした。
それから後の事は、弟二人は社会的にも、しっかりされている方々なので、ツツがなく運び、次弟と私がびっくりする程に、しっかりした葬儀となり、さすがに長弟は、父が出て行った後、檀家としての勤めを長年担ってきただけの事はあるなぁと半分呆れながら感心しました。
結局、母は葬儀にも出ませんでしたし、安置されていた斎場にも行ってはいないようですが、葬儀に出席する子や孫の準備を手伝うのは、嬉しそうでしたし、納骨を終えて、忌中払いは、良い目の精進料理のお弁当を叔母様方とそのご家族にはお渡しし、お寺で解散とさせて頂きましたので、わたし達家族もそのまま帰宅するつもりでおりましたところ、母はちゃっかり、自身の行きつけの和食屋さんに自分で予約をしており、3人の子供とその連れ合い2人、5人の孫と連れ合いが1人、そして2人のひ孫に囲まれて、何事もなかったかの様に、輪の中心で嬉しそうに食事しておられました。
一方で父の事は、立派な葬儀は上げてもらいましたが、父の遺影と位牌は実家の仏壇には入れてもらえず、(なんとか骨は墓に入れてもらえましたが)次弟が引き取って、毎日、小さい甥っ子達がお線香を上げてくれています。
最悪の場合、お葬式も無く、ただ火葬式だけでお別れを済まして、父の骨壷と位牌を持って帰る覚悟はしていて、夫にも事前に同意してもらっていました。
それが、兄弟3人で臨終に立ち会えたし、しっかりとお葬式も出せたし、骨もお墓に入れてもらえたし、叔母達にも納得してもらえたし、お寺さんとの関係もうまくできたしで、少しは、父の娘としての仕事はやらせてもらえたかなぁと思うんです。
父は元来、ええカッコしいの人でしたが、私が嫁いでからは、ほとんど父の苦境も、母との確執も、私の耳に直接入る事は無く、娘達や叔母達から、母の事として聞かされて、私は後から知る事ばかりでした。知った所で何かが変わったはずも無く、私に対しては心底優しい両親と弟達のお陰で、家族間の苦しみも憎しみも葛藤も、当事者として知る事もなく、呑気に生きてきたのです。
実の娘でありながら、当事者ではない立場にしてもらっていたので、お墓の事や位牌の事、葬儀の事など、母の思いに忖度せずに、忌憚無い意見を言わせてもらいました。母にはきつい事も言いました。また、私は母を追い詰めてしまったのではないか?その事だけは、少し後悔していますが、その分、母に甘々な長弟と孫娘達が沢山フォローしてくれていました。
一連の流れを、思い出して、書き留めておけてよかったです。
今回、書き出してみて、最初はうろ覚えで、パーっと書いたんですが、書いていたメモ書きや、兄弟や家族、親族と連絡を取ったラインやショートメール類と照合すると、大分独りよがりの記憶違いをしていた事に驚きました。
今回はお金の記録や身体記録までは、チェックしなかったので、それらも見直すと、もっと忘れている事を思い出せるかもしれません。(両方とも念の為にオートで記録出来る様にしておきました。)
通算でコーヒーを何杯飲んだか?とかね。
それに、一周忌で、家族で顔を合わせて、色々な話が出来たら、私には見えていなかった所で、きっと様々な気働きや具体的な支援をいただいていた事が、きっと様々話に登る事でしょう。それらもふまえて、修正版が書けると良いなぁと思います。
あらためて思い起こせば、父はコーヒーが大好きでした。
一周忌が終わるまで、コーヒーは飲む事にしようと思います。
(1*)義父と義母の介護と看取りを家族として経験させてもらっていた事と、仕事として看取りまでさせていただくグループホームで職員としてサポートをさせて頂いた経験があったので、父の様子から推察した事と看護師さんの様子で確信が出来ました。
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