日本庭園と社寺建築

日本庭園の魅力と巧みの建築を紹介

兼六園

2012-06-02 | 兼六園
日本三名園の1つに数えられる池泉回遊式庭園の大名庭園です。兼六園の名称は宋代の詩人、李格非の洛陽名園記に記されている「宏大」、「幽邃」、「人力」、「蒼古」、「水泉」、「眺望」、の6つを兼ね備えている名園といことから、松平定信が名付けたと言われています。延宝4年(1676)、に5代藩主、前田綱紀が金沢城内に蓮池御亭と称する別荘を建て、周辺を庭園として整備したのが始まりとされ、その後、11代藩主治脩、12代藩主齊広、13代藩主齊泰が主に作庭に力を注ぎ、齊泰の代になってようやく現在に近い形になったとされます。

「宏大」と「幽邃」は相反する意味を持ちます。広々としたところは、明るく開放的であるのが定石。これに対して、幽邃の境地は、静寂と奥深さを持っています。

「人力」と「蒼古」も矛盾する関係にあります。人の手が加われば、そのままの自然が失われてしまいます。しかし、兼六園は人の手が加わっていたにもかかわらず、「巨木樹林陰翳(いんえい)し」ていて、「所々に苔むしたるが其数を知らず」という状態を保っています。

「水泉」とは、池や滝などの水を指します。水が流れるのは、山間や谷底などの低いところ。このため、水と戯れながら遠望を楽しむことはなかなかできません。しかし、兼六園では、すぐそばに様々な水の競演を楽しみながら、遠くは内灘砂丘や能登半島、眼前には卯辰山から白山、さらに医王山を眺めることができます。

六園のほぼ中心部に位置する園内で最も大きな池。面積は約5800m2、深さは最も深いところで1.5mあります。栄螺山、内橋亭、徽軫灯籠、虹橋、唐崎松、蓬莱島などの名勝がこの霞ヶ池の周辺に配されています。



池の中にある島は、蓬莱島といい、不老長寿をあらわしており、また亀の甲の形をしていることから、亀甲島ともいう。


瓢池
瓢池周辺はかつて蓮池庭(れんちてい)と呼ばれ、兼六園の作庭はこの辺りからはじまったと言われています。名前の由来は、池のなかほどがくびれて、瓢箪(ひょうたん)のような形をしていることから名付けられたものです。池の中には不老長寿の島、神仙島をかたどった大小二つの島があります


夕顔亭
瓢池(ひさごいけ)の東岸にある茶亭。安永3年(1774)に建てられました。蓮池庭にあった四亭の一つで、当時のままの姿を今に伝えています。また、その美しい名は、茶室内の壁にしつらえられた夕顔の透彫りから名付けられました。


時雨亭
5代藩主・綱紀が兼六園を作庭した頃からあった建物で、廃藩の後、惜しくも撤去されてしまった時雨亭。それを、平成12年、新しい庭園の完成とともに復元したものです。


内橋亭
かつて蓮池庭内にあった四亭の一つで、霞ヶ池の西南岸に設けられた水亭。蓮池馬場の馬見所に建てられていたものを、明治7年(1874)、現在の場所に移築しました。


翠滝
霞ヶ池から流れ出て瓢池に注ぎ込む大滝。夕顔亭の対岸に懸かっています。高さ6.6m、幅1.6m

海石塔
瓢池の中島に建つ、高さ4.1mの塔。虫が喰ったように穴の空いた淡茶色の笠石が、六重に重ねられています。3代藩主・利常(としつね)がつくらせ、金沢城の庭園にあった13層の石塔の一部を移したという説と、朝鮮出兵の際、加藤清正(かとうきよまさ)が持ち帰ったものを、のちに豊臣秀吉(とよとみひでよし)が、前田利家(まえだとしいえ)に贈ったという説があります。


雁行橋
11枚の赤戸室石を使用し、雁が夕空に列をなして飛んでいく様をかたどった雁行橋。石の一枚一枚が亀の甲の形をしていることから亀甲橋とも言われ、この橋を渡ると長生きするとされてきました。


根上松
大小40数本もの根が地上2mにまでせり上がったこの松は、13代藩主・斉泰(なりやす)が土を盛り上げて若松を植え、根を深く土で覆い、成長後に土をのぞいて根をあらわにしたものだと伝えられています。


黄門橋
青戸室石でできた反橋は、橋台石に斜めに架けられているほか、一枚石を二枚石に見えるよう立体感を持たせて細工されています。


徽軫灯籠
足が二股になっていて、琴の糸を支える琴柱(ことじ)に似ているのでその名が付いたと言われています。この灯籠は水面を照らすための雪見灯籠が変化したものである。


唐崎松
近江八景の一つ、琵琶湖畔の唐崎松から種子を取り寄せて育てた黒松。


七福神山
竹沢御殿から眺めた築山。自然石を左から順に恵比寿、大黒天、寿老人、福禄寿、布袋、毘沙門天、弁財天にみたてて配している。別名「福寿山」ともいう。


この五重之塔は御室御所「仁和寺」の塔を模したものといわれている。

金沢城

2011-11-22 | 金沢城
金沢城では、前田利家の入城後、本格的な石垣づくりが始まりました。

出入口や庭園といった場所に応じて、特殊な技術やデザインが工夫されたこと、また何度も修築が繰り返されたことなどから、現在、さまざまな種類の石垣を見ることができます。


 

1583年に前田利家が入城し1869年(明治2年)まで加賀藩前田家14代の居城として金沢城が置かれました。金沢城はその後終戦まで陸軍の拠点として用いられ、その後1995年まで金沢大学キャンパスとして利用されていましたが1996年から金沢城公園として一般に開放されるようになりました。度重なる火災によって消失した金沢城は1999年に着工され2001年7月に菱櫓・五十間長屋、橋爪門続櫓が完成しました。菱櫓・五十間長屋、橋爪門続櫓は1809年金沢城再建時の姿に可能な限り忠実に復元されているそうです。

 

林泉寺

2011-11-22 | 林泉寺
新潟県上越市にある曹洞宗春日山林泉寺は、戦国時代を代表する名将上杉謙信公ゆかりのお寺として知られております。境内には上杉謙信の墓所、川中島合戦戦死者の供養塔がある。惣門は春日山城の搦手門を移築したものと伝えられ、現存する唯一の春日山城の建築物となっている。

上杉謙信公(幼名ー長尾虎千代君)は、7歳から14歳までの7年間を、この林泉寺で過ごされました。当時の6代目の天室和尚さまから色々な教えを学ばれたといわれています。
大人になってからの謙信公は、7代目の益翁和尚さまより、厳しくも慈愛に満ちた禅の奥義を学ばれ、和尚さまの謙の一字を頂戴してー『謙信』ーと名乗られたのでした。 。



林泉寺は、今から約500年前の明応5年(1496)、越後国高田(現・上越市)に建立された曹洞宗の寺です。長尾景虎(上杉謙信)の祖父長尾能景が、亡父重景の菩提を弔うため建立したもので、寺名は重景の法名林泉寺院殿からとったものです。

景虎が7歳の折、当寺に預けられ天室光育(七世)の指導を受け仏道に励みました。さらに、景虎は長じて八世益翁宗謙の下に参禅し、禅の「達磨不識(だるまふしき)」の境地を悟り、不識庵謙信(ふしきあんけんしん)を号するようになりました。

また、景虎は永禄四年(1561・川中島合戦のあつた年)に関東管領上杉家を相続、林泉寺は上杉家の菩提寺にもなりました。山号の春日山は、上杉家(藤原氏)の氏神である春日明神を勧請したことによります。



龍をイメージした石段


川中島の戦死者を弔う供養等

春日山城址

2011-11-22 | 春日山城址
守護所のある府中(直江津地区)からは約4㎞の距離にあり、関東・北陸・信濃への交通を監視する要衝に位置し、城は守護代の長尾氏が代々守っていた。

現在のように規模が拡大され、名実ともに天下の名城と呼ばれるようになったのは謙信の普請によるものである。

城は天正7年(1579)景勝に引継がれ慶長3年(1598)堀秀治の入城によって越後上杉氏の時代が終り、さらに慶長12年(1607)堀氏が福島城を築いて移ると、春日山城は城としての役目を終る。

春日山は、山頚城平野の西北に位置する標高182m、比高169mの別名鉢ヶ峰山上と山麓にあった。

戦国時代に八つの要害な山城と称せられた七尾城、一乗谷城、稲葉山城、観音寺山城、小谷城、吉田郡山城、富田月山城とともに春日山城は堅城としての名が高い。

春日山城の特徴は、山頂の本丸跡から山裾まで連続する屋敷跡群と、裾野に巡らされた総延長1,200mの総構え(通称監物堀)である。

城郭は、山頂に本丸があり楼閣を設け、眺望に富み、付近の属城を充分に監視することができた。

本丸跡の後方西に一段低い所に大井戸があって夏でも水の枯れることがない井戸郭、山里郭があり、その北の峰に毘沙門丸及び御花畑があった。

また西方には、鐘撞堂や景勝屋敷跡等があって、南方に柿崎郭、三の丸、東に二の丸などの郭があり、重臣たちの屋形が構えられた。

山麓にも館や政庁があったが謙信のころの城郭の主体は山上であった。




上杉景勝のころになると、山上の生活が不便なため、いろいろな建物が山麓に造られ、城下町が形成されていった。




しかし、近世大名の居城としては不便なことが多かったので、堀忠俊が城主のとき、平地の海辺に福島城を新しく構築して移ったのである。

春日山城が廃城になった時期は、慶長12年(1607)だったが、山が高いため郭跡の形状は割り合いに残り、戦国期山城の構想を良く伝えている。




天徳2(958)年に春日山山頂に創建、越後守護代上杉氏の氏神として栄える。奈良春日大社の分霊を祀り、春日山城の名前の由来ともなった。春日山城築城の際に、城の鬼門となる現在の位置に遷座させられたといわれる。天を突くように伸びる杉木立の参道と、急勾配の石段が印象的な名跡。境内に立つ春日灯篭は江戸時代の作といわれる。

春日社は、鹿島・香取・枚岡・比女神の藤原家と関係の深い神を祀る。ここの春日神社も、この四神が主祭神で、相殿に厳島・諏訪・天神社が祀られている。


正傳寺

2011-10-04 | 正傳字

五山送り火の舟山の山腹、西賀茂のひっそりとした地にある正伝寺。鎌倉時代に来朝された宋の兀菴普寧禅師(ゴツアンフネイゼンシ)の法を継がれた東巖慧安禅師(トウガンエアンゼンシ)が創立。現在の本堂は承応2(1652)年に伏見城から移築されたものである。

正傳寺は血天井でも有名。関ヶ原の戦い、家康の忠臣・鳥居元忠の居城である伏見城の攻撃で鳥居軍は篭城するも落城、城内は凄惨な血の海となった。


本堂内部の天井には、伏見桃山城遺構の鳥居元忠一党が自刃したときの血痕が残り、血天井といわれています。
正伝寺の他にも、鷹ヶ峰の麓にある源光庵、三十三間堂の近くにある養源院、大原の宝泉院、宇治の興聖寺にあり、血の手形や足跡などを今にとどめている。






訪れる人も少なく、美しい枯山水を前に、落ち着いた雰囲気が漂う。創建の禅師はこう詠んだ。「末の世の すへの末まで 我国は よろずの国に すぐれたる国」。庭の向こうに雄大にそびえる比叡山を眺めながら、彼等が必死の思いで守り抜いたこの国の素晴らしい景色に、心を動かされる