日本庭園と社寺建築

日本庭園の魅力と巧みの建築を紹介

詩仙堂

2011-09-26 | 詩仙堂
詩仙堂

石川丈山が隠居のため造営した山荘。詩仙堂の名前の由来は、中国の詩家36人の肖像を狩野探幽に描かせ、その絵に各詩人の詩を自らで書いて、四方の壁に掲げた『詩仙の間』を中心にしていることからそう呼ばれています。庭園造りの名手でもある石川丈山自身により設計された詩仙堂の庭園は回遊式庭園で、地面の白砂と、藤や花しょうぶ,四季折々を楽しむことができ美しい姿を見ることができます。




白砂にサツキの刈込が美しい庭も作庭の名手といわれた丈山の作。庭には丈山が発明した鹿おどしがあり、竹筒がコンッと石を叩く風雅な音が時折こだまし風流です。

龍源院

2011-09-13 | 龍源院
龍源院の名称は大徳寺の山号『龍宝山』の『龍』の字と、現在の臨済宗で唯一存続している松源一脈の『源』の両方の字をとっています。龍源院の庭園は、方丈を中心として南庭「一枝坦(いつしたん)」、北庭「龍吟庭(りょうぎんてい)」、東の壺石庭、開祖堂前庭、及び庫裏南側の庭園により構成された禅宗庭園です。


方丈前庭「一枝坦(いっしだん)」は、庭の中央右よりの石組が蓬莱山を現し、右隅の石組が鶴島、左の円い形の苔山が亀山。
白砂で敷き詰められた大海に、苔と石組みで造られた鶴島と亀島を配置した蓬莱式庭園です。蓬莱山とは、仙人の住む不老長寿の吉祥の島。

龍源院


室町時代特有の三尊石組から成る須弥山形式の枯山水庭園。

青々とした杉苔は洋々と果てしない大海原を現し、石組が陸地を現している。中央に高く突出する奇岩が須弥山で、ここは人間がたどり着くことができない真実の自分本来の姿、つまり悟りの境地を形容しています。



屋敷内にある我が国では最も小さい壺庭。日本一小さい枯山水である。

源光庵

2011-09-05 | 源光庵
京都市北区鷹峯にある曹洞宗の寺院。山号は鷹峰山。正式には鷹峰山寶樹林源光庵という。

悟りの窓と迷いの窓で知られる源光庵堂内の「悟りの窓」と「迷いの窓」。

臨済宗大徳寺の徹翁義亨の隠居所として開基。当初は復古堂と呼ばれた。その後、卍山道白により曹洞宗に改宗された。






悟りの窓
円で大宇宙、悟りとし、禅と円通の心を、悟りの窓は円型に「禅と円通」の心を表し、円は大宇宙を表現しています。迷いの窓は角型(四角)に「人間の生涯」を象徴、迷いとし、生老病死・四苦八苦を表している。



天井板
天井板は伏見桃山城から移築したもので、徳川家家臣鳥居元忠らが石田三成に破れ自刃したときの跡が残り、血天井となっている。

常照寺

2011-08-27 | 常照寺

1616年(元和2)、日蓮宗の日乾上人[にちけんしょうにん]が本阿弥光悦の寄進で創建した。数百人の学僧が学ぶ鷹峯檀林として栄えたが、今では江戸前期の遊女・吉野太夫ゆかりの寺として知られる。


常照寺は、日乾上人に帰依した吉野太夫ゆかりの寺として知られ、太夫の墓や太夫が寄進した「吉野の赤門」と呼ばれる山門、吉野窓(茶室)、吉野桜も有名



吉野太夫
吉野太夫とは、江戸時代の初期、京の遊郭で天下の名妓とうたわれていたのが二代目吉野太夫。

太夫は日頃から熱心な法華経の信者。

ある日、人として生きる道を仏法に求めようと日乾(にちけん)上人を頼って常照寺へ訪れ「法華経こそ一切女人成仏の印文なり」と導かれた太夫は、日乾上人への帰依の証しとして私財を投じて山門を寄進したのである。

無燐庵

2011-08-22 | 無燐庵
無鄰菴
山縣有朋 別邸
「無鄰菴」と名付けられた山縣邸は三つある。最初の無鄰菴は山縣の郷里、長州・下関の草庵である。名前の由来はこの草菴に隣家がない事による。

第二の無鄰庵は、京都の木屋町二条に購入した別邸、そして第三の無鄰菴が京都・南禅寺参道前に造営した別邸で、「無鄰菴会議」の舞台ともなった場所である。


この洋館2階の間は、しばしば要人との会見に用いられた。日露戦争開戦前の1903年(明治36年)4月21日にはここでいわゆる「無鄰菴会議」が行われた。その時の顔ぶれは、元老山縣有朋、政友会総裁伊藤博文、総理大臣桂太郎、外務大臣小村寿太郎である。





作庭 小川治平衛
山縣有朋、伊藤博文、桂太郎、小村寿太郎の四者によって日露開戦直前の我が国の外交方針に関する会議が行われた場所です。山縣有朋公自ら設計、監督する。造園家小川治平衛が作庭した池泉回遊式庭園で無地の代表的な庭園の1つである。