羊の歌

見たこと。聞いたこと。考えたこと。
感じたこと。・・・思いのままの手記

松尾芭蕉翁の墓

2011年04月23日 13時39分35秒 | 地域

 昨日(4月22日)、私の出身大学の静岡県東部地区校友会の役員会議が三島市で行われた。定刻より早めに着いたので、会場周辺を散策していたら、近くのお寺の案内が目に入り、そこに「松尾芭蕉翁の墓」とあった。「どうして、芭蕉の墓が」と思い、時間もあったので、お寺に入った。「君澤山(くんたくさん)」と額が掛かっている山門を通り抜けるとすぐ右側に「松尾芭蕉翁の墓」があった。私は、早速その墓を携帯電話のカメラに収め、庫裏の方に歩いて行き、住職さんを訪ねた。住職さんは外出中でいなかったが、奥さんが出てきて、「松尾芭蕉翁の墓」の由来を説明してくれた。

 

 芭蕉翁は、全国各地を訪ねて歩き、その句碑は、いたるところに建立されている。それをまとめた本は、A4版の500ページ以上もの厚さがあり、いかにたくさんの句碑が建立されているのかがわかる。だが、「墓」ということになると別で、そんなに多くはないようだ。芭蕉翁は、東海道の交通の要所である「箱根」を越えて、あるいはこれから「箱根路」へといったところで、「三島宿」にしばし滞在していたことがあったようだ。その宿所がこのお寺であったようだ。当時の住職は、当然のことのように、芭蕉翁の弟子となり、俳句を習っていた。そして、芭蕉翁が亡くなられたことを聞き、翁の遺髪をもらい受け、それを埋め、墓を建立したのだという。江戸時代に建立されたもので、年季が入った「墓」で、側面に芭蕉翁の「句」が刻まれていた。残念なことに読めない。もちろん鮮明でないこともあるが、「くずし文字」で書かれていて、私にはさっぱり分からなかった。

 さすがに「三島宿」には、歴史があるもので、東海道の有数の宿場町であったであろう。三島は、水が澄んでいて、近くには、富士山の湧き水である「柿田川湧水」もある。小川のせせらぎが、心地よく、しばし我を忘れて、芭蕉翁の生きた江戸時代の「三島宿」の賑わいを想像したひと時であった。

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