daiozen (大王膳)

強くあらねばなりませぬ… 護るためにはどうしても!

トライ(2)

2014年10月05日 | 詩篇
             

わたしが散文詩を意識した初めはボードレールだった。そして今ここにわたしの最初の詩を書き始めるにあたって思うことがある、それは短く仕上げることで主張の星をしっかり押さえておけて、また綴った内容は掌にあって掴んでおける、つまり短編詩は書き手から勝手に放れてあらぬ方向へ暴走することはないと記して、一番目の道標としたい。

散文詩の何たるかを展開する知識は今の私にも具わってなく、ただボードレールの小説か詩だか分らないアレを世間の人は散文詩と呼ぶ。アレは何人かが日本語に翻訳しているのでそれに依るつもりだったが、どの翻訳物も読むのが苦痛になったのはどうしたことか。二番目の道標として読みやすくないのは駄目だとしておく。

ボードレールはわたしの散文詩の切っ掛けになったがアレを詩と位置づけるのに戸惑いを覚えて、結果的にも読むつづける作業から遠ざかって数年間のブランクが空いたが、今はこうして詩篇なら書きたいと想うわたしがいる。例えば「パリの憂愁」は詩篇だというかも知れないが散文は部分観、詩篇は全体観だよね。全体観に比べて部分観はセコくない?

詩篇論で道標が大事なのはお分りだろう、読者を過たず導かずして詩篇の目的は達せられない。目的が曖昧だったり隠されたとしたら、つまりなんのためにそんな工作をするのか? 面白くすることで人気を得る‥つまり面白い目的・人気目的の文章は集客目的のキャッチコピーという分野に入るだろうな。詩篇は目的観が大事‥これが三つ目の道標かな。

それにしてもこの文章で道標に沿った内容になっているか‥アセ



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