daiozen (大王膳)

強くあらねばなりませぬ… 護るためにはどうしても!

ふりかへりだあれもゐない秋の暮

2014年10月04日 | 俳人 - 鑑賞
          

この句を観て佳句の条件は何だろうか‥そんなことを思います。
すなわち、この句を佳句と云わずしてなんとしよう。
して、その心は? \(◎o◎)/!

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
                 aruq aruq 2009年11月11日(水) 22:14:20

 ふりかへりだあれもゐない秋の暮   草間時彦氏

秋の暮…多くの人が、とかく物思いにふける時期かも知れません。
恋患い?仕事関係も?家族関係とか?将来の事とか?体調不安?
具体的に後ろを振返ってみる? 人生の来し方を振返ってみる?
あなたがこの句を「読んだ」場合には、如何なるのでしょうか?

マラソンで後ろを振り返ってみると、誰もいないって事はある。
後ろの人を引き離したのか、自分がどん尻になってしまったか?
マラソンなら自分の凡その位置は具体的に見えるものでしょう。
具体的に見えるマラソンなら、いっそう頑張るか諦めるかです。

それなら、私たちの人生についてはどう判断してるでしょうか?
私たちは見えている積りで喜んだり・愚痴ったりかも知れない。
なんにも努力せず・ほめられて横着な態度を取るなら傲慢です。
弱気になり自分から希望を失くし、敗残者になるなら愚かです。

ウサギの親子がキツネから逃れ・洞穴に隠れる時、どうするか?
子ウサギを穴に隠れさせた後で、親ウサギは穴に潜るでしょう。
後ろに子ウサギが残っていないのを確かめ・安心して穴に潜る。
後ろにキツネがいないのを確かめて、親ウサギは隠れるのです。

後ろに誰もいないからって、ガッカリして・落胆するだろうか。
後ろに誰もいないからって、安心すると決まっているだろうか。
その場の状況を正しく判断できてこそ、安心もガッカリもする。
即ち、人生という長丁場において一喜一憂するのは愚かである。

それで、自然を写生したとき、自然物は落胆しているだろうか。
私は、自然のどこにも落胆する要素はないと思っているのです。
自然が悲観的に見えるならそれは悲観的に見る人に原因がある。
兎を食べようとする狐でも、兎が見つからない事を愚痴らない。

予測する能力に秀でた人間は半歩先の獲物の不在を嘆きたがる。
明日を予測する人間は半歩先を嘆かず、希望に燃えるでしょう。
春を待って眠る熊や虫たちは自然に逆らわず・賢く生きている。
春を待って体を鍛え・心を富ます人間は頼もしく生きています。

☆ ふりかへりだあれもゐない秋の暮

俳句は詠み手が作るものですけど、読み方は読み手の自由です。
読み方が悪ければ秀句・佳句でも駄句として読んでしまいます。
読み方が良ければ駄句であっても佳句として読むことができる。
そう考えると、良い読み方と悪い読み方があると言えそうです。

俳句を読んで希望を失い・元気をなくす読み方は間違っている。
俳句を読んで己や他の誰かを憎むなら、読み方を間違えている。
俳句を読むなら朗々と力強く・元気が出るように読むべきです。
明日も頑張ろう・人を正していこう・人を勇気づけるのが良い。

希望を失くしたり・人を憎む者は他者の幸せを祈れるだろうか?
不幸な人間は己をもっと不幸に追い込み、他者をも呪うだろう。
不幸な人は不幸の渦を起こし広めて、周りも渦に巻込むだろう。
嘆きの波紋は家族・友人・知人へと広がりを見せていくのです。

それゆえに素敵な詩(俳句)は希望をベースに生まれるのです。
そして希望から生まれた詩(俳句)でさえも、歪んで読まれる。
即ち、詩(俳句)は「詠み方」よりも「読み方」が大事になる。
読み方しだいで佳句が駄句になり、駄句が佳句・秀句にもなる。

☆ ふりかへりだあれもゐない秋の暮

誰もいない今こそチャンスだ。しかも絶好の秋の暮じゃないか。
いつでも・素敵な読み方をしていきたいと思っているのですよ。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

この句の素晴しさ‥それは私にも分かる素晴しさだからですよ。
しかもこの句の素晴しさはこの私でも言葉を以って説明できた。
言葉で説明不能な素晴しさなら、どうして人の役に立つだろう。
お分かりだろうか‥分りやすい俳句、私は中々作れないのです(T_T)


_ブログランキングならblogram_にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ_


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。