daiozen (大王膳)

強くあらねばなりませぬ… 護るためにはどうしても!

切れた関係も色いろ

2014年10月02日 | (転載・記事)  総 合

>去来によれば、芭蕉はいつも
上に宗因なくむば、我々がはいかい今以(もって)貞徳が涎れをねぶるべし。宗因は此(この)道の中興開山也。(『去来抄』)
>と語っていたという。

貞門派の俳諧三首と談林派の三首を読んで感じたこと。

それは貞門の三首は読み方にも由るでしょうが、温かい。
『貞徳が涎れをねぶる』の芭蕉の言を持出せるは、櫂氏の意図哉。

談林派の三首の弁護を試みたけれど、弁護のし難さを感じる。
奇抜性ばかりが強調されて、俳句からは遠い存在に思われた。
その原因を考えるに、長谷川櫂氏の意図的な選出に拠るか、
あるいは、談林派俳諧の品格のなせる業に違いないだろう。


貞門派の三種についての感想は「切れ字の底力」に載せています。
談林派の三首については「芭蕉は中身で選んだ」に載せています。


>軽佻浮薄のそしりは免れがたかったが、宗因の自由闊達な俳風は
>貞門を縛った古典の呪縛から俳諧を解き放ったというのだろう。

古典の呪縛を解くと言って酔い狂うが如きを自由闊達とは言わない。
森林に住む生物を動物園に保護しても「不自由なり」に似たるかな。
即ち、櫂氏は古典から離れるべき所と離れざるべき所を述べるべき。

於多福姉の既出ログ「読む価値がある本ですか」でも触れたけれど、
他者の文を引用して誰かを批判するなら、明快でなければならない。

長谷川櫂氏の『切字』は、対象を切って了とするかも知れないけど、
於多福姉の『切れ字』は、切れた対象なら繋ぐべく働く道具である。

「切れ」ている関係をつなぎ合わす「字」を…『切れ字』とします。


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