daiozen (大王膳)

強くあらねばなりませぬ… 護るためにはどうしても!

切れ字の底力

2014年10月02日 | (転載・記事)  総 合

切れ字を使って作者に白黒をつける点で「左脳的」と云えましょう。
けど、作者も人間であると確認する点で「右脳的」でありましょう。
人間を切るだけなら左脳があれば好いけれど、右脳も必要でしょう?

第四章で、長谷川櫂氏の「切字」と私の「切れ字」を実際に比較します。
「切字」の使い手・櫂氏が切って、見えた物・見えなかった物とは。
「切れ字・関節」で於多福姉がジョイントした結果、何が見えたか。

>芭蕉以前の俳諧は言葉の表面で遊ぶばかりで言葉の奥にある心の世界には無頓着だった。

この主張の根拠となった俳諧に両者は何を感じたか見てまいります。
先ずは貞門俳諧から、三つ。

*霞さへまだらにたつやとらの年

櫂>今年は寅年だから霞までも虎の毛皮の模様のようにまだらに立つと洒落れ、
姉>人を労働力と見る人・人を金と見る人・人を玩具と見る人…
霞に虎の毛皮の模様を見て、家で待つ子を思う人もいるのです。

*花よりも団子やありて帰(かえる)雁

櫂>花の盛りを見捨てて北へ帰る雁は故郷で団子が待っているのだろうとふざけ、
姉>道化師の仮面の下の素顔を伝う涙を感じる人ならお分りになる。
花を愛でる余裕もなく北へ帰る雁の気持、私には判る気がする。

*しほるるは何かあんずの花の色

櫂>君が杏の花のように萎れているのは何か案ず(杏)るところでもあるんじゃないかとからかう。
姉>君が杏の花のように萎れているのは何か案ず(杏)るところでもあるんじゃないかと軽口を言って慰めたい。

>貞門俳諧とは古典を下敷きにした駄洒落であり、知的で他愛ない言葉遊びだった。

櫂氏がそのような考えかたを知る破目に陥った経緯がキッとあった。
私にはふざけ・茶化しが判るし、長谷川櫂氏を否定するのでもない。
そんな考えかたの先に待ち構えている結果・不幸を私は恐れている。

芭蕉は世の中を良く変えるための平和的手法を、俳諧に求めました。
そして、そんな考えかたを許せない人を芭蕉はキッと恐れたのです。
そして、そんな考えかたの長谷川櫂氏も芭蕉はキッと恐れたのです。

言葉は人の絆を分断する凶器になるし、人をつなぐ道具にも出来る。
人と人の心をつなぐ俳句(ジョイント)の機能を計画した松尾芭蕉。
私は、人に優しい「切れ字」こそが芭蕉の願いを叶える気がします。


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