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新説!豊臣家を滅ぼした「組織運営」の大失敗 企業も後継者選びに悩み失敗する

2016-05-23 06:43:24 | 人間は心の生き物






わずか20年で滅亡した豊臣家
老いた豊臣秀吉は愛息秀頼を後継者としたい一心で、〈殺生関白〉の悪名高い甥の秀次に追放・切腹を命じ、その一族を大量処刑した――。史上名高い「豊臣秀次切腹事件」だ。しかし、國學院大學教授の矢部健太郎氏はその通説に疑問を投げかける。 『関白秀次の切腹』を著した矢部氏が、通説とは異なる事実とともに、人材マネジメントの重要性を説く。
秀次の切腹は「想定外」だった!
「豊臣秀次切腹事件」とは、文禄4年(1595)7月15日、高野山で起きた豊臣秀次の切腹とその妻子の集団処刑に至る騒動を指す。秀吉から譲られて関白となった甥・秀次は、いわば豊臣政権の2代目であるが、「殺生関白」と呼ばれるほど暴虐な振る舞いが多く、息子・秀頼を後継者にしたい秀吉によって、高野山へ追放、切腹を命じられたという通説が一般的に認識されている。

この事件は朝鮮出兵と並ぶ豊臣秀吉晩年の愚行の代表的事例とされる。織田信長の足軽から天下統一を成し遂げた英雄・秀吉も晩年はもうろくし、みずからの愚行により豊臣政権の寿命を縮めた、というイメージを後世にまで残したのである。

しかし、史料を丹念に読み込み、関係人物の行動、当時の武士の思考をも考慮すると、「秀吉に秀次を追放・切腹させる意図はなかった」事実が浮かびあがる。たとえば、以下の点などである。

①秀吉は秀次に召使いや料理人、番人をつけている

文禄4年7月12日付「秀次高野住山令」で秀吉は高野山に、秀次の身のまわりの世話をする者や料理人をつけるよう命じている。また、秀次の下山や、彼を見舞う者の侵入を見張るための番人を用意するよう、高野山の僧侶たちに命じている。いずれも、秀次をすぐに切腹させるつもりなら必要ない措置である。

②切腹を命じる一次史料が残されていない

「秀次高野住山令」は一次史料に写しが残されているが、秀次に切腹を命じたことを示す一次史料は見つかっておらず、江戸時代に完成した『甫庵太閤記』に形跡が残るのみである。しかも、それは秀吉の時代に作成された文書とは考えられない形式・内容のもので、「偽作」と断定すべきものである。


③秀次への切腹命令を高野山に届けられない

仮に文禄4年7月13日に発せられた秀次切腹命令が実在したとしても、秀次が切腹した7月15日午前10時までに高野山に届けることは物理的に不可能であり、この命令が存在しなかった可能性が高い。

④切腹は必ずしも罪人が行うものではない

切腹には「究極の請願の形態」という一面があり、自発的に行うケースがあった。同時代の日記からも、当時、秀次が自発的に切腹したととらえられていたことがうかがえる。

これらはあくまでも数ある根拠の一部だが、秀次出奔から切腹までの時系列を改めて客観的に見直すと、秀次の高野山への入山は秀吉の命令による「追放」ではなく「出奔」であり、また切腹も自らの決意によるものと考えられる。つまり、そうした秀次の一連の行動は、秀吉にとって想定外の出来事だったことがうかがえるのである。

「一族経営」豊臣政権の命綱


秀吉という圧倒的な存在感を持つ個人の存在なくして豊臣政権は誕生しえなかった。それは逆に、秀吉の死後に後継者が政権を運営していく場合、数々の困難が予想されることを意味する。そのことを熟知していた秀吉は、政権を永続させるためにある手を打った。豊臣家を「摂関家」にしたのである。

「摂関家」とはその名のとおり、国政を取り仕切る摂政と関白になれる家格のこと。近衛・一条・二条・九条・鷹司の5家のみの、貴族社会の頂点に君臨する、まさに選ばれた家である。秀吉は、近衛家の猶子となることで武家として初めて任官したわけだが、その時の彼は「藤原姓」を名乗ったことになる。その2カ月後、朝廷から新たな武家の本姓として「豊臣姓」を下賜されたことにより、豊臣宗家は「豊臣摂関家」の家格を得たわけである。これにより「位人臣を極めた」秀吉は、個人としてのみならず、豊臣宗家にも絶大な権威を帯びさせることに成功したのである。秀吉は、ようやく手に入れた関白の座を秀次に譲ることで、豊臣家による関白職の独占、そして豊臣政権の正当性を担保しようとした。その秀吉が、みずから関白・秀次を殺したとなれば、それはいわば究極の「自己否定」である。そのようなことが、現実的にありえるだろうか。

さて、現代の一族経営の企業では女性社長は珍しくないが、戦国時代はとにかく男子の数がものを言う。秀吉が一代で築いた豊臣政権の弱点は、豊臣家の男子が少ないことだった。系図を見てもわかるように、秀吉は長男・鶴松を幼くして失い、もっとも頼りにした弟・秀長とその息子(養子)・秀保も天正19年・文禄4年に亡くなってしまった。文禄4年7月の時点で数え3歳の秀頼が成人するまでの間、政権を託せる一族の男子は秀次以外におらず、まさに命綱といえる重要な存在だった。その秀次を切腹させるなど、やはり政権の寿命を縮める愚行以外の何物でもないのである。

上司が部下の様子を気にかけ、マネジメントするのはもはや常識である。ましてや、敗北が一族の生死にもかかわる戦国時代であれば、その重要性は言うまでもない。戦国大名は一族や家臣団の結束を強めるため、さまざまな対策を講じている。

「人たらし」といわれ、全国の大名をまとめあげた秀吉は個人的魅力もさることながら、人材マネジメントの天才でもあった。諸大名を取り込み、豊臣姓・羽柴名字を下賜することで「ファミリー」を形成したのである。

上司・秀吉による部下・秀次のマネジメント失敗







大学の先生らしいね。ある意味当てはまる所も有りますが、

秀吉の年齢と茶々姫の怨念、三成の権勢欲全然考えていない。

おかしくないですかね?

そもそも秀吉は女好きで相当女遊びしているのは有名ですよね。

何故、そんなに女遊びが盛んな秀吉に茶々姫だけが懐妊したんでしょう、しかも二度も?

おかしいと思いません。

この時点で大学の先生は考え方がおかしいんです。


秀吉の寵愛を受け始めた茶々は同時に三成に急に接近しているんですね、

何かと三成に相談している訳ですね。

茶々は父、長政の仇を討つ執念が強い、秀吉など好くはずもない。

三成は秀吉亡き後実権を持ちたい野望を持っている。

双方の思惑が一致すれば、おのずと秀次は三成が茶々に生ませた子供のはず。

秀吉は種無しは承認済みだから。あり得ないんです、茶々だけが二度も子供を産めるなど。

そう考えると茶々と三成は秀頼が邪魔になる。

秀吉も可愛い秀次に家督を継がせたい、三成、茶々の思惑どうり秀頼はまんまと罠にはめられて

切腹させられた。権力者の後継者争いに良くあるパターンじゃないですか。


的外れな著書を出している大学の先生の名前が下がるだけでしょう。

現代の企業も権力や地位ばかり狙い、会社を立て直す為の人事が出来ずに

潰れる企業が後を絶たないが、後継者選びを間違えると例え一流企業と言えども

瞬く間に倒産すると言う良い見本と受け止めなければいけないんじゃないですかね。

良い部下が必ずしも良い後継者では無いでしょうし。

企業のトップが次のリーダー育成にどれだけ必死になるかが本当の一流企業なのでしょうね。





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2016-05-22 03:02:03 | 日記

「6人に1人が貧困状態という不都合な真実 - 人間関係から始まる、悩み、苦悩、不安」 blog.goo.ne.jp/hitachimusasi/…



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