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HiroGのフォト&トランペット

写真とトランペットに関する個人的雑感記録です。

After Hours

2010-02-06 | また聞きジャズ薀蓄
レストランのディナーとブロードウェイの舞台を楽しんだ後、クラブで酒を飲みながらジャズを聴く、などという贅沢な夜を過ごしていた1950年代のニューヨークでは、演奏が終わるのが午前2時頃だったそうです。仕事を終えたジャズマン達が明け方の店に集まり、演奏をしたり近況を語り合ったりしてストレスを発散し、ときには新しいアイディアを実験する場にもなっていました。これがいわゆるミュージシャンの残業(アフターアワーズ)です。個人練習をしてステージで演奏し、さらに残業でセッションをする、まさに音楽三昧の生活を送っていたニューヨークのジャズマンですが、最近ではこのようなアフターアワーズの店もみられなくなったそうです。

Spain

2010-01-27 | また聞きジャズ薀蓄
『マイルスから独立後、Return to Foreverとして活動を始めた頃、ロドリゴのアランフェス第2楽章を弾いているうちに・・・やがて"スペイン"になっていった。』
 こんな気楽にあの名演を創り出したなんて、やっぱり南欧の血が流れているからでしょうか。チック・コリアのアルバムをひっぱり出したのは30年ぶりくらいです。
 いずれぜひ、トランペットでこの曲をやりたいと思っています。そのためには、精進、精進。

にわとり組曲 -YardBird Suite-

2010-01-09 | また聞きジャズ薀蓄
「ヤードバード」は“雑役をする労務者または兵士”といった意味ですが、文字通り訳すと「ニワトリ」になります。これ実はチャーリーパーカーのニックネームでした。後に略して「バード」と言われるようになりましたが、彼の古い友人ディジーガレスピーはずっと「ヤード」と呼んでいたそうです。“YardBird Suite”のオリジナルタイトルは“What Price Love?”でしたが、今では「ヤードバードスィート(ヤードバード組曲)」としてすっかり有名なスタンダードナンバーになりました。美しいメロディーで、パーカー自身が歌詞をつけたことも特筆ものだと思います。著作権に拘らなかった彼らしく、タイトルも歌詞も他人による別バージョンが存在するのが、かえって面白いですね。私は、パーカーが作った失恋の詩より、エディ・ジェファーソンのパーカーを讃えた詩の方が好きです。両方の歌詞を下に紹介しておきます。パーカーがイゴール・ストラヴィンスキーを敬愛していたことは有名で、代表的なバレエ組曲「火の鳥(FireBird Suite)」をもじって、誰かがこのタイトルを付けたのでしょう。
 最近私は、ロイ・ハーグローブのデュオ演奏で、この曲を楽しんでいます。

YARDBIRD SUITE (Charlie Parker) 1946

It's hard to learn
How tears can burn one's heart
But that's a thing that I found out
Too late I guess, Cause I'm in a mess

My faith has gone ...
Why lead me on this way?
I thought there'd be no price on love
But I had to pay.

If I could perform one miracle
I'd revive your thoughts of me
Yet I know that it's hopeless
You could never really care.
That's why I despair!

I'll go along hoping
Someday you'll learn
The flame in my heart, Dear,
Forever will burn!


Alternate lyrics from Eddie Jefferson's Album "Come Along With me"

What is the musical topic of the day
Bebop so the critics say
Well that was OK

Who were the originators?
Do you know?
Yardbird and Diz they tell me
I think it's quite so

Now I'm just quoting fellas like
Toscanini and Stokowsk
As long as I'm hip to it
I think I'll hip it to the house
Explain it to the folks

Bebop my friends
Was just a whole lot of fun
You could take any old riff
And make a real long run

Speak Easy = PDT

2010-01-06 | また聞きジャズ薀蓄
スピーク・イージー(スピーク・ロウ)とは禁酒法時代にシカゴやニューヨークで流行った裏酒場のことです。一見酒を出す店とは無関係なのに、事情を知っている人だけは酒が飲める秘密の場所で、PDT(Please don't tell)「誰にも言わないで」とも言われています。もともとは堂々と酒を飲むことができないので生まれた商売なのですが、事情通しか入れない特別の場所という憧れもあって今でも健在だそうです。例えば、表はただのホットドッグ屋なのに、奥に秘密バーに通じるドアがあるなど。知っている人が優越感に浸れるんでしょうね。そういえば、東京ディズニーランドは園内禁酒ですが、一角に会員制秘密クラブがあって、店内でアルコールを楽しんでいるそうです。わざわざディズニーランドに行って酒を飲まなくてもいいのに、それも優越感なのでしょう。アメリカ企業らしいですね。
 公共の場所で喫煙することが難しくなってきた今、秘密喫煙クラブも存在するのかも知れません。

黒人からみたジャズ

2009-12-14 | また聞きジャズ薀蓄
奴隷制度下でも特定の主人をもたない自由奴隷や逃亡に成功した奴隷は港町で働きながら、広場にたむろして手製の楽器で歌い踊っていました。奴隷解放後、質屋に大量に並んだ軍楽隊の安楽器で合奏を楽しみ、街を練り歩いていた頃、音楽は黒人仲間だけで演奏され聴かれていました。ニューオリンズに歓楽街が出来てからは音楽が収入源になり、プロミュージシャンが出現しました。ピアニストはプロフェッサー、デューク、カウントなどの名称がつけられることが多く、音楽的教養に対する敬意とともに、絶対になれない地位への憧れでもあったと言われています。この頃は、アメリカで生まれ育った黒人が生み出した黒人のための音楽でした。
 ジャズがシカゴやニューヨークに広がってからは、スウィングミュージックとして白人の間に広がり、人気が出てジャズミュージシャンの社会的地位が向上しました。ある意味白人に近い存在になったとも言えますが、結局レコード、ラジオ、映画などビジネスで成功を収めたミュージシャンの多くは白人でした。
 バップは再びアメリカ黒人の衝動が生み出したと言われ、やがてファンキージャズ、ハードバップへと発展していく内に、洗練された黒人ぽい演奏が白人聴衆に受け入れられていきます。今でも人気のジャズスタイルですが、いつの間にか黒人の聴衆からは離れてしまったようです。多くの黒人(アフリカン・アメリカン)にとってブルース、ゴスペル、R&B、ソウルが自分たちの音楽で、ジャズは白人のためのものに映ったのかも知れません。



映画『ニューオリンズ』

2009-12-10 | また聞きジャズ薀蓄
Arthur Lubin監督1947年製作の映画『ニューオリンズ』のDVDを買いました。他の映画と4本セットで900円という特価。それはともかく、いい映画でした。ニューオリンズでのミュージシャンの暮らしぶりや、それを白人たちがどう見ていたかがよく分かります。さらに、シカゴでジャズが流行り白人たちに受け入れられていった経緯も明瞭に描かれていて、音楽史物として秀逸な作品だと思います。しかも、前編を通してルイ・アームストロングとビリー・ホリデーが出演していて素晴らしい演奏が惜しげもなく披露されています。クラシックピアニストとルイ・アームストロングの掛け合いもなかなか面白くて、何度も見返しました。

絶望音階

2009-11-29 | また聞きジャズ薀蓄
 CDEGA
 ABCEF
上段を四七抜き長音階、下段を四七抜き短音階と呼んでいます。古い唱歌や演歌、歌謡曲でよく使われていた音階です。私はこれが日本古来の音階だと思っていたのですが、実は明治政府が作ったものだそうです。明治維新後に学校教育に取り入れられた西洋音楽は、日本人に染み付いていた音感と相いれなかったため、時の文部省は伝統音階と西洋音楽を折衷させた5音音階を作り出しました。したがって、ドレミファソラシドの七音階から4番目のファと7番目のシを抜いたものであって、基本は西洋音階ということになります。この音階は日本人が西洋音楽に親しむのに最も平易な方法でしたが、本格的な西洋音楽教育を受けた人々からは蔑まれ、「絶望音階」と呼ばれたそうです。
 ACDEG
それに対して、二六抜きとも呼ばれるこの音階は民謡にそのまま符合する伝統へ回帰した音階のため、日本人の耳にぴったり来るのだそうです。音楽の背景にはその地域の文化があるので、うわべだけ真似たものよりずっと親しみやすい、ということでしょう。アメリカの黒人からブルースが生まれたのも同じ様な事情があったように感じます。でも、この二六抜き音階がブルーノートスケールにそっくりなのは、ただの偶然でしょうか?

バップは白人向けビジネス

2009-11-28 | また聞きジャズ薀蓄
1940年代にハーレムのセッションから生まれたバップは、白人にも話題を呼びミッドタウン(ブロードウェイ)に進出しました。1949年、52丁目に開店した「バードランド」を初めとしたクラブは、その後に登場したバップ新人を生み出す宝庫となりました。しかし、それでもミッドタウンの主流がスイング・ジャズだったのは、客層が保守的なオフィスワーカーだったから、と言われています。
 50年代半ばになると、個人個人のアドリブが主体だったビバップから、ラテンリズムを取り入れたり、曲全体の構成を吟味した新しいスタイルが、若いジャズファン層に支持され、。「ヴィレッジ・ヴァンガード」があるブロードウェイ南のグリニッチ・ヴィレッジ界隈で発展していきます。後にハードパップと呼ばれたこのスタイルを受け入れなかったミッドタウンのクラブは次々と閉店し、名門バードランドも60年代にクローズしてしまいました。同じ頃、ハーレムでも時代の先端を行くジャズミュージシャンの演奏はほとんど聴かれなくなっていました。
 このようにニューヨークでは、白人客の支持によってジャズがビジネスとして成り立ち、発展していったことがよく分かります。ハーレムのバップがミッドタウンに進出し、グリニッチ・ヴィレッジでハードバップが支持されるにつれて、ますますメジャーになった黒人ジャズメンは、気がつくとずい分白人寄りのスタンスになっていたようです。チャーリーパーカーの破天荒振りやマイルスの方向転換も、もしかするとこうした黒人ミュージシャンのブレに対する反発だったのかも知れません。
 いずれにしても、バップリズムが好きな人にとっては、今でも素晴らしい音楽であることに違いありませんが。

ミントンズ伝説

2009-11-24 | また聞きジャズ薀蓄
ダンス音楽、あるいは白人のための大衆音楽となってしまったスゥイングミュージックに代わって、1940年代に彗星のごとく登場したビバップは今でも人気のジャズスタイルです。バップはスゥイングミュージシャンがハーレムのクラブ「ミントンズ・プレイハウス」に集まって繰り返したセッションで、ある時生まれたスタイルであり、中心となったのはチャーリー・パーカーとディジー・ガレスピーだと言われています、少なくても私はそう聞いていました。
 たしかにスゥイングからバップへの変化は大きなものですし、これを成し遂げたミュージシャンのパワーは凄いと思います。しかし、実際にはミントンズ以外の多くのクラブでもいろいろなミュージシャンが同じ様な演奏をしていたそうです。その内にバップスタイルが徐々に黒人の間で流行りだし、白人社会にも波及していった、というのが事実のようです。
 では何故、バップはミントンズで突然誕生したように言われているかというと、この頃の数年間に録音されたレコードがたったの1枚しか存在せず、それがミントンズで行なわれたバップのライブだったからです。当時ラジオでレコードを流すようになったためにミュージシャンの出演機会が減り、ギャラの補償問題がこじれて数年間のレコーディングスト、つまりミュージシャンがレコード録音を一切ボイコットした時期があり、スゥイングからバップへの変遷が全く記録されない事態となってしまいました。ミントンズライブの1枚は客が録音したテープによる海賊版だったとのこと。今では貴重な歴史的記録となっています。
 でもバップが生まれたことも、それを生み出したのがニューヨークに住む黒人ジャズメンのエネルギーだったことも事実ですね。

風俗とミュージシャンと戦争と

2009-11-20 | また聞きジャズ薀蓄
奴隷、農産物の貿易で栄えた港町ニューオリンズには、当然のように色々な人が集まり売春も横行していました。これに対して市助役のストーリー氏は娼館経営を容認する区画を設定して治安を維持しようとしました。この歓楽街がストーリーヴィルです。ここの店は1階が賭博と酒場、2階が売春宿になっていて、階下ではBGMやダンスのための音楽が付き物、というわけでミュージシャンに安定した稼ぎ口が生まれました。風俗の良し悪しはともかく、プロのジャズメン誕生は売春宿のおかげだったわけです。そういえば昭和の日本も、駅前のキャバレー毎に専属バンドを抱えていた時代があったそうですね。
 しかし、1917年にアメリカが第一次世界大戦参加を決めると、ニューオリンズ港は海軍基地となりました。大切な軍人が性病にかからないように、基地から5マイル以内の売春宿は即閉鎖、あっという間にジャズメンも仕事を失いました。
 この前後よりアメリカ経済は南部の農業よりも北部の商工業のウェイトが大きくなっていて、黒人労働者は鉄鋼業、自動車産業を目指してシカゴ周辺へと移動していたため、ミュージシャンも新たな仕事場を求めてミシシッピ川を北上していきました。
 シカゴではジャズが白人の間にも広がり、新たな発展へとつながったのですから、結果的にはよかったのかも知れません。

主役はトランペットだった

2009-11-13 | また聞きジャズ薀蓄
ジャズまた聞きウンチクの第2弾です。今回は楽器について。
 ジャズで使われる楽器といえば、まず思い浮かぶのがピアノ、ベース、ドラムスでしょう。この3つだけでコンボバンドが成立しますし、もっと大編成でもこの3つがリズムセクションとして演奏の基盤を作ります。
 しかしジャズがまだジャズと呼ばれる前のニューオリンズでは、主役は高らかにメロディーを奏でるトランペット(実際はコルネット)でした。その他にはトロンボーン、クラリネット、テューバ、ドラム(太鼓)、バンジョーなど、ほぼマーチングバンド(ブラスバンド)で使われる楽器でした。当時のニューオリンズでは冠婚葬祭の行進や街角での演奏が主だったため、持ち運べないピアノ、ベースは仲間入りできなかったわけです。
 ただ、ピアノがジャズに使われなかった要因はもう一つあるそうです。それは、ピアノの音程が良いことでした。トランペットは唇や息、指の使い方で音程も音色も変えられます。上手い人がやれば、まるで肉声で歌っているような表現が可能です。当時はまだ使われていなかったサックスが後にジャズの主役となった要因も、音程や音色が変えられる多彩な表現力にあると思われます。私などはこの音程の不安定さに悩んでいるのですが、黒人にとっては、ブルースに通じる言語表現が楽器で出来る大きなメリットと捉えられました。
 一方、ピアノは調律してある限り、誰が鍵盤を叩いても正確な音程が出ます。ヨーロッパが用意した正しい音しか出せないことが、逆に黒人の体質と合いにくかったようです。それでもやがてラグタイムとして独特の奏法を確立していき、屋内で演奏する機会が増えると、ブラスバンド仕様のジャズにピアノが溶け込んでいきました。最も黒人らしくない楽器だったピアノが、ジャズの中心に入っていくに連れて、ジャズのスタイルもミュージシャンの意識もグローバルになっていったと思われます。売春宿(ストーリーヴィル)以降のジャズは決して黒人だけのものではなく、さらに現代では世界中の民族がジャズを演奏していますから。

ジャズとスイング

2009-11-07 | また聞きジャズ薀蓄
音楽に携わる人と話す機会が増えるにつれて、主にジャズに関するうんちくを聞くことが多くなってきましたので、これらのミニ情報を、トランペットカテゴリーと分けて紹介することにしました。暇を持て余している時、よかったらちょっと覗いてみてください。

 今回はスイングについて。ジャズとはどういう音楽か、あるいはスイングとは何かを定義することは簡単ではありませんが、「スイング」という言葉はある時から意識して使われるようになりました。それは、1934年に始まったラジオ番組「レッツ・ダンス」で、白人クラリネット奏者ベニー・グッドマンが抜擢された時です。
 ラジオのお陰で演奏会に足を運んだりレコードを買わなくてもタダでジャズが聴けるようになり、格段に多くの人に親しまれるようになりました。当時「ジャズ」は、まだ根強かった黒人差別の象徴的な言葉であり、また売春宿や密造酒場など裏社会で演奏されていたので、白人にとってはダーティーなイメージがありました。そのためメディアでは「ジャズ」とは言わず「スイングミュージック」という呼び方を使ったそうです。お茶の間に浸透させるためのイメチェンだったわけですね。この目論見は見事に的中し、グッドマンに続いてトミー・ドーシー、グレン・ミラー、アーティー・ショーなどの白人スイングリーダーが次々と活躍しました。
 スイングという言葉はジャズの大衆化に貢献したのは間違いない事実のようですが、聴衆の要求によって次第に聞きやすいメロディーやリズムへと制約が強くなっていきました。「スイングしなけりゃ意味がない」の作者デューク・エリントンの言葉「ジャズは音楽だが、スイングはビジネスだ。」が、本質をついているのかも知れません。

Writing down

2009-09-21 | また聞きジャズ薀蓄
"When he played, everything was scientifically laid out. He was into writing ideas down; he would always tell me to write things down."
クリフォード・ブラウンの高校時代の友人がこう述懐していました。

 私のお気に入りブログで、ゴールに焦点を当てると行動を起こし易くなる、どうすれば出来るようになるかを考えていれば、出来ない理由を考えるのが苦手になり成功パターンになっていく、ということを教えてくれていました。そして、頭の中だけで考えていると混乱して複雑になりがちなアイデアも、文字に書き出せば意外とシンプルになり、考えがまとまりやすくなるそうです。そうすれば更に行動を起こしやすくなるわけですね。
 朝から晩まで暇さえあれば楽器を手にしていたクリフォードも、アイデアを書き出すことには積極的でした。書くこと、これは意外と成功の鍵なのかも知れません。

事故の背景

2009-09-01 | また聞きジャズ薀蓄
1950年と56年に大きな交通事故に巻き込まれ、残念ながら帰らぬ人となってしまったブラウニーですが、実はこの時代のミュージシャンたちは思ったより多く事故に遭遇していました。1956年の初めに、マックス・ローチ、クリフォード・ブラウンとクインテットを結成していたメンバーのソニー・ロリンズ、リッチー・パウエルがフィラデルフィアで事故に遭い車は大破、重傷を負いました。その数カ月前に別の事故を目撃していたマックス・ローチは、運転によるメンバーの身の安全を大変案じたそうです。何しろバンドの仕事はデトロイトからボストン、フィラデルフィア、ピッツバーグ、トロント、ニューヨークなど複数の都市にまたがっていて、1つの仕事が終わると次の町に移動しなければなりません。これらの都市は互いに200キロ~1000キロも離れています。日本で言えば東京から札幌や福岡まで移動するようなものです。
 50年代のアメリカでは都市間を繋ぐ航空便は一般的でなく、運賃も高額なためミュージシャンが利用することはありませんでした。ビッグバンドはバスで移動し、みんながホテルに宿泊していたのに対して、小さなバンドの仕事では都市間の移動の合間に個人個人が自宅に立ち寄ったりしていたため、どうしても交通手段は各々の車にならざるを得ませんでした。長時間の演奏後に長距離ドライブのハンドルを握り、また次の仕事に入る。過酷な労働条件の中で、マックス・ローチが危惧していた大事故が遂に数カ月後に起き、貴重な2人のメンバーが急逝する事態となってしまいました。トップアーティストの移動くらいはプロのドライバーに任せて、その分音楽に集中させてあげたかった、とつくづく思います。
 私も旭の田舎から100キロ以上離れた東京に車で行く機会が多かったのですが、ブラウニーの本を読んでからは極力バス、電車を利用するようにしています。運転自体を生業とする方に任せた方がはるかに安全ですね。

More STUDY in …

2009-07-14 | また聞きジャズ薀蓄
"More Study in Brown"

Clifford Brown, Sonny Rollins, Harold Land, Richie Powell, George Morrow, Max Roach

Recorded in New York, 1954-1956

 クリフォード・ブラウンが事故死した翌日、音楽界には衝撃が走りました。日本には、バークリーに留学中だった秋吉敏子から連絡が入ったとのことです。有能なトランペッターが居なくなったということ以上に、一人の大切な人間を失ったことに多くのミュージシャンが悲しんだそうです。みんなに慕われていたクリフォードの人柄が偲ばれます。
 わずか4年のプロ活動中に残された録音を少しでも公表しようと、彼の死後に発売された未発表音源がいくつかありますが、この「モアスタディ・イン・ブラウン」もそうです。どうして没になったのか分からないくらい、素晴らしい演奏が続きます。生きていた頃のクリフォードを少しでも感じていたい、という想いはファンだけでなく、仲間のミュージシャンも同様だったようです。有難いアルバムですね。