チュエボーなチューボーのクラシック中ブログ

人生の半分を過去に生きることがクラシック音楽好きのサダメなんでしょうか?

プロコフィエフ偶然来日(1918年)~大田黒元雄との友情 ひのまどか

2014-05-21 20:15:23 | 来日した作曲家

プロコフィエフが1918年に来日したときの様子を知りたくて情報を探していたんですが、なかなか見つからずにいました。
それが先日、詳しく書いてある本をとうとう神保町で見つけました。なんと、児童書?
ひのまどか著『プロコフィエフ 音楽はだれのために?』(リブリオ出版)。



この本の「日本の夏」の章に、プロコフィエフの来日時の様子が書いてありました。
小学生用の本だとバカにしていたら、情報は細かいわ、貴重な写真・図解がたくさん載っているわで一人で興奮してしまいました。

その章をちょっと掻い摘んでみます。

・プロコフィエフは当初南米チリに行くことが目的でペテログラードを発ったが、中継地の横浜港に着いたときはチリ行きの船は既に出てしまっており、次の便は一ヶ月後だった。しかたなく、日本で夏を過ごすことにした。【日本に滞在したのは偶然だったんですね】

・プロコフィエフは横浜グランド・ホテルに泊まった。そこに、横浜港に着いた外国人名簿の中にプロコフィエフの名前を見つけた東京の帝国劇場の支配人が訪ねてきた。

・当然ながら音楽好きの帝国劇場の支配人は、大田黒元雄(1893-1979, 音楽評論家)の本を見せ、この本の中に『プロコフィエフ』の章があり、今ロシアで最も期待されている天才作曲家として紹介されていることを伝えた。支配人が帝国劇場でリサイタルを開いてくれるよう頼んだところ、プロコフィエフは快諾した。

・急な話のため、リサイタルは帝国劇場が空いている1918年(大正7年)7月6日(土)と7日(日)の午後1時15分からに決まった。【その宣伝チラシの写真も載っています】

・リサイタルの前宣伝として、7月2日、支配人がプロコフィエフの歓迎会を開いた。会場は赤坂の料亭「花月」であり、そこで大田黒と初めて対面した。その会話とは。。

大田黒「あなたはロシアの作曲家の中では誰がお好きですか?」

プロコフィエフ「スクリャービンが好きです。ストラヴィンスキーやミャスコフスキーも好きです。」(日本人にわかるワケないよな)

大田黒「ああ、スクリャービンはむずかしいですが、第5番や第6番のピアノ・ソナタはいいですね。第9番は彼自身の演奏で聴きました。」

プロコフィエフは大田黒の知識の深さに驚いた。しかも、話しているうち、2人はロンドンで1914年、同じ舞台(ロシア・バレエ団の「火の鳥」と「ペトルーシュカ」)を観ていたことがわかった。二人はすっかり意気投合し、周りの人のことも忘れて話に熱中した(英語)。

大田黒「グラズノフはもうかなりのご老人でしょう?」

プロコ「そうですとも。先生、ぼくの音楽には付いて来られないんです。いつだったか、とちゅうで出ていってしまいました。」

大田黒「じゃあ、あなたはリャードフにも嫌われているのでしょうね」

プロコ「もちろん。ぼくの先生でしたが、仇みないなもんです。」

大田黒「ラフマニノフはどうしていますか?」

プロコ「今たぶんスウェーデンにいるんでしょ。あの人もアメリカに行くと聞いています。ピアニストとしてはロシアで一番だとぼくも認めますが、作品は....バカみたいだ

大田黒は大森の自宅にはピアノがあるので好きなときに弾きにきてください、とプロコフィエフを誘った。

・7月6日と7日の帝国劇場のリサイタルはガラガラだった。練習もろくに出来ず、ピアノも日本で一番良い楽器と説明されたが、ひどい代物だった。それにも拘わらず、演奏は上手くいった。プログラムは自作を中心に、ショパンやシューマンの人気曲を不本意ながら日本の聴衆のために少し加えてある。テクニックの派手な曲ほど、拍手は盛大だった。プロコフィエフは日本人は静かで行儀のいい民族だと思った。

・リサイタル後、プロコフィエフは東京の暑さから逃れるため軽井沢へ行き、乗馬やテニスの二週間を送った。軽井沢から戻ると今度は大森駅前の「望翠楼(ぼうすいろう)」というホテルに宿を取り、さっそく人力車に乗って大田黒邸を訪ねた。

・それからの一週間、プロコフィエフは大田黒家のピアノを弾きまくった。大田黒の楽譜棚にあった譜面を片っ端から取り出し、一曲毎に評価を加えながら弾いた。ドビュッシー、ラヴェル、ストラヴィンスキー、チャイコフスキ-、スクリャービン、ラフマニノフ。。。

他人の曲を弾き尽くすと、今度は自分の曲を弾いた。連日、プロコフィエフ自身と大田黒のためだけに盛大なコンサートを連日開いた。【すごすぎる!】

大田黒は感激して、目に涙を浮かべた。「あなたの曲をこうして独り占めできるなんて、夢のような幸せです

・8月1日、プロコフィエフは大田黒邸に来るや、明日お別れしなければならないことを告げた。別れにプロコフィエフはピアノ・ソナタの第4番を弾いた。

プロコフィエフ「これは本当の音楽通のための曲です。」



。。。プロコフィエフと大田黒元雄の友情、知らなかったです。

この本、プロコフィエフ好きには必読。ひのまどかさん、ありがとうございます。

↓60歳の大田黒元雄氏

 

写真家・大田黒元雄の作品「避暑地」。おリッチっぽい雰囲気。。

アサヒカメラ大正15年11月号


シューベルトは本当にベートーヴェンに会ったのか?

2014-05-18 17:28:34 | 音楽史の疑問

シューベルトは1827年、ベートーヴェンの死の床にお見舞いに行ったって話は結構有名ですよね。

学習漫画・世界の伝記ベートーベン(集英社1984)より。

ベートーベンもシューベルトが来てくれて心なしかうれしそうですね。

でもこれ、うそつきシンドラー(Anton Schindler, 1795-1860)の作り話である可能性が高いそうです。なんつーこった。

他に、シューベルトが自作の楽譜をベートーヴェン宅に持って行ったがいなかったという説、いたけど和声法上の間違いを指摘されてヘロヘロになった説などがあるそうですが真相やいかに?調査します。


カラヤンとハイフェッツ同時に来日(1954)

2014-05-16 23:43:32 | 来日した演奏家

カラヤンが1954年に単独で初来日したとき、ヴァイオリニストのヤッシャ・ハイフェッツ(Yasha Heifetz,1901-1987)もたまたま日本にいたんですね。

『週刊朝日』1954年5月2日号によると、カラヤンとハイフェッツはどちらも帝国ホテルに泊まっていた。ハイフェッツの東京におけるリサイタル第一夜にはカラヤンも聴衆として帝国劇場に来ていたそうです。帝国ホテルから帝国劇場ってめちゃくちゃ近いですからね。

「20万ドルの名器、ストラディバリウスを手にしたハイフェッツが舞台に出てきたとき、つい1時間ほど前までやっていた宝塚のレビューの名残りの花吹雪がヒラヒラと舞い降りてハイフェッツを面食らわせた。」

ださっ。宝塚の直後に同じ会場でヴァイオリンのリサイタルやっちゃうっていう感覚がちょっと信じられないです(東京宝塚劇場は1955年1月まで米軍に接収されていた)。

ちなみにリサイタルの曲目はブラームスのヴァイオリン・ソナタ第3番、クライスラーのレチタティーヴォとスケルツォ・カプリース、サン=サーンスのハバネラ、ビゼーのカルメン幻想曲だったようです。

ところが、カラヤンは「開演後しばらくして、ブラームスのコンチェルト(ソナタの間違いでは??調べます)が始まると、いきなり『ノー・インタレスト』と言い放ち、席を立ってしまったんです」佐野之彦著『N響80年全記録』(文藝春秋、面白い)より。

カラヤンとハイフェッツはこの時点で既にウィーンで数回共演していたみたいだし、同じホテルに泊まっているっていうのに、カラヤン様ク~ル!

ちなみに同著の116ページには「オフタイムのカラヤンは、どこでどうやって調達したのかわからないが、いつも美しい日本人女性をはべらせ東京の街へ繰り出していた。気がつくと隣にはミス日本が寄り添っていたりする」とか書いてあって、カラヤンもやっぱり男だったんだなー(普通じゃないけど)とか思ってしまいました~

 

↓ 1954年・東京でのハイフェッツとカラヤン(アサヒカメラ臨時増刊『国際写真サロン』1955年より。船山克氏撮影)

 

(参考)大正12年(1923年)に来日したハイフェッツ

「大正十二年の十一月、大震災でたたきのめされてから、まだ二か月しかたたぬ東京を、ハイフェッツは初めて訪問した。演奏会場として予定されていた帝国劇場が焼けてしまったので、彼の三晩にわたるリサイタルは、帝国ホテルの演芸場に移されたが、震災にひしがれた都人士の心を、彼の音楽がどんなに明るくしてくれたか。四晩目に、彼は日比谷の野外大音楽堂で臨時追加の義捐演奏会をやった。安い料金を払って入場した六千の聴衆が、静粛に、熱烈に彼の名演奏に聞き入った。その収益全部を彼は罹災者救済のために寄付した。」(週刊朝日昭和29年3月21日号)

。。。当時22歳のハイフェッツさん、ありがとうございました~(泣)

ちなみにこのときのピアノ伴奏者はイジドール・アクロン(Isidor Achron, 1892-1948)。1931年の来日時もアクロンが同行しました。


金額別レコード蒐集法(レコード芸術1965年4月号)

2014-05-14 22:27:56 | どうでもいいコーナー

レコード芸術昭和40年4月号に「金額別レコード蒐集法」という記事があります。

初めてレコードを集めたいという人のために、予算別、ジャンル別のレコード収集例が推薦されています。

5千円、1万円、3万円、5万円の予算別になっています。さらにジャンルは「交響曲・管弦楽コース」、「協奏曲・室内楽コース」(なんでこの2つが一緒?)、「声楽曲コース」、「一般コース」に分かれていますが、今回は宇野功芳先生担当の「交響曲・管弦楽コース」の、一番ビンボーな5千円の部に注目してみます。

【交響曲・管弦楽の5千円コース】
1.驚愕交響曲 クリップス ¥500
2.おもちゃの交響曲(ハイドンとあります)、ハフナー交響曲 ベンダ、カイルベルト指揮 ¥400
3.ジュピター交響曲 ベーム ¥400
4.運命交響曲 ヨッフム ¥400
5.田園交響曲 カイルベルト ¥800
6.シュトラウスワルツ集 クリップス ¥500
7.モルダウ セル ¥500
8.アルルの女第2組曲 モレル指揮 ¥450
9.ペールギュント カラヤン ¥500
10.マドンナの宝石間奏曲 P.ワルター(誰?) ¥400

なお、「好みによって一部を下記に代えても差し支えない」そうです。
1.軍隊交響曲
2.タンホイザー序曲他
3.金と銀

→50年前って5千円でこんなにたくさん買えたんだー!?って一瞬思いましたがちょっと違いました。

宇野先生は「5千円で30センチ盤を買えば三枚が限度なので、思いきって全部17センチにした。最近では盤質、録音共にたいへん向上しており、特にロンドンのエリート・シリーズには30センチをしのぐレコードさえ見られるからである。」と仰っていて納得。

↓(参考)17センチ。「運命」が一楽章ずつ4面(2枚)に収録されています。



。。。この後、雑誌の記事は1万、3万、5万コースに進みますが、目を引くような曲目がほとんどなく面白くないので割愛します。ドイツ系7割、それ以外3割というドイツ音楽崇拝定数はほぼ変わらないです。

自分がもし評論家だったら交響曲入門としてペッテションとかティシチェンコ入れますけどね(?)

この種の記事はクラシックに興味はあるけど、どのへんの曲から聞き始めていいのかわからない人々にとっての一つの指針になったことは確かだと思います。真面目な読者はここに書かれているとおりにレコードを集めていったんでしょうね。

しかし「これだけを聴いておけば大丈夫、他はいらない」っていう姿勢はお勉強や実用品に対してはしてはイイかもしれないけど趣味にとってはどうなんでしょう?掃除機や洗濯機選んでるわけじゃないんで。
雑誌等のこういうベスト・テン的な企画はクラシック音楽に対するイメージを固定化しちゃって、いつも同じような曲ばかりで退屈っていう悪い印象を一般の人たちに与え続けてきたに違いないです。

趣味の世界くらい、「これが絶対イイ、あれはダメ」でなく、もっと勝手気ままに、自由に好きなものを選びたいです。そういう雰囲気を作るお膳立てをもう少し音楽雑誌が昔からしてくれていたら現在のクラシック界はもっと楽しくなっていたんじゃないでしょか?(エラそ)


ショスタコーヴィチが楽譜を一冊だけ無人島に持っていくなら(クイズ形式)

2014-05-10 20:05:58 | クイズ

クイズです。作曲家名と作品名をあててください~(答えは一番下)

 

1965年。ショスタコーヴィチとシチェドリンはニヶ月の夏休みをアルメニアで一緒に過ごしている。

 

ショスタコーヴィチ「もし一生どこかの島に送られて、たった一つしか楽譜を持って行けないとしたら君は何を持って行くかい?10秒で答えて。」

シチェドリン「バッハのフーガの技法。あなたは?」

ショスタコーヴィチ「(1.作曲家名)の(2.作品名)。」



1975年。ちょうどショスタコーヴィチの死の2か月前、モスクワ郊外の彼の別荘ではシチェドリンがコートを取り帰ろうとしている。

シチェドリン「アルメニアでの会話を覚えていますか?あなたの(1.作曲家名)についての考えは変わりましたか?」

ショスタコーヴィチ「変わっていないよ。君のバッハへの考えは変わってないのかい?」

シチェドリン「変わっていません。」

 

 

 

 


。。。答え:1.マーラー 2.大地の歌

("POLYPHONIC DIALOGUES"(2L063SACD)のブックレットより)

半分意外でしたー。そこまでショスタコーヴィチがマーラーのこの作品を大切にしていたとは。。。凡人には大地の歌の本当の凄さがわかっていない?

 

↑ 大地の歌・最初のページ