チュエボーなチューボーのクラシック中ブログ

人生の半分を過去に生きることがクラシック音楽好きのサダメなんでしょうか?

日本人初の快挙を成し遂げた2人の女性楽器奏者(大村多喜子と原智恵子)

2016-06-08 20:50:56 | 日本の音楽家

まず、日本人初のジュリアード音楽院への留学生であるヴァイオリニスト、大村多喜子さん(1916-2012)です。



左から多喜子さん、長女の隆子さん(当時4歳)、ご主人の吉村順三さん(1908-1997、建築家)。ピアノはグロトリアン・シュタインヴェーク(Grotrian-Steinweg)。

多喜子さんは1950年秋には1年4ヶ月にわたる2度目のジュリアードへの留学から帰国。娘の隆子さんは出発の日にはまだ何が何だかわからず、ちょっと街まで出掛けるくらいに思っていた多喜子さんがなかなか帰ってこないので「随分お帰りが遅いわね」とはじめの頃はよく言っていたそうです。写真はお母さんと一緒でうれしそう!



↑多喜子さんと恩師ハンス・レッツ(Hans Letz, 1887-1969 ドイツのヴァイオリニスト)




次に、1937年に日本人として初めてショパン国際ピアノコンクールに出場した原智恵子さん(1914 -2001)です。

↑1939年11月に映画監督の川添紫郎氏と結婚された、とあります。後にチェリストのガスパール・カサドと再婚することになります。


。。。おふたりとも、根性ありますなー!朝ドラ化してもらいたいです。

出典:『婦人の友』1939年1月号(原)、1952年3月号(大村)


東京フィルハーモニー交響楽団の前身、少年音楽隊・松坂屋シンフォニー

2016-05-30 22:28:04 | 日本の音楽家

以前、略称が同じ日本のオーケストラについての整理にも少し書きましたが、現在の東京フィルハーモニー交響楽団は楽団名をまるで出世魚のように変えていて、ややこしいです。

そのルーツは1911年(明治44年)に結成された「いとう呉服店少年音楽隊」にありました。いとう呉服店は現在の松坂屋。


↑1911年1月の音楽隊員募集新聞広告(新愛知新聞)。「12~14歳の男児12名を募集。市内在住者にして父兄監督の下に通習し得べきもの」とあります。

 


↑1911年発足当時のメンバー。海軍軍楽隊の沼楽長を招いて結成。

 

↑1917年(大正6年)5月12日 宙返り飛行の会場である名古屋築港埋立地で鳥人スミスとお母さん(画像左)のために演奏。

 


↑1932年(昭和7年)大阪中之島公会堂で松平里子独唱会にて交響楽団として演奏。【松平里子さんは1931年9月22日にミラノで亡くなったはずなのにヘンですね】

 


↑1933年(昭和8年)日比谷公会堂で演奏

 


↑名古屋新守座で佐藤美子(1903-1982)を迎えて演奏(交響楽団結成の頃。年代不詳)

 


↑1935年松坂屋シンフォニーの秋季大演奏会のチラシ。指揮は早川弥左衛門。
写真は左から斉田愛子(1910-1954)、藤原義江(1898-1976)、三上孝子(藤原義江の愛人で最期を看取った人だということです。いったい何人の愛人がいたんでしょうか?)

 


↑その秋季大演奏会のプラグラムの一部らしいです(ちょっと違うような?キナ臭い)。松平里子さんを看病した原信子さん(1893-1979)も歌っています。

(以上の画像は『松坂屋50年史』1960年より。)

情報を修正・追加していきます。


「諏訪根自子のようになれ」と言われた巌本真理

2016-05-20 23:09:17 | 日本の音楽家

アサヒカメラ1951年12月号の表紙はヴァイオリニストの巌本真理さん(1926-1979)です。



めっちゃ魅力的!女優さんみたいですね。吉岡専造(1916-2005)撮影。


1959年の松竹映画『乙女の祈り』にも出演されたそうです。


↑上の画像の真ん中は主役の鰐淵晴子さん。

そんな巌本真理さんですが、ヴァイオリニストを目指した当初はけっこう屈折していたようです。『藝術新潮』1959年8月号より。

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「真理は世間でいわれるような天才とは思っていない。しかし、異常な才能をもっているということは親馬鹿でなくともいえる」。これは今から十年ほど前、彼女の父親が語ったことばである。その異常な才能というのはどんなあらわれ方をしたのだろうか。やはり父親の言葉だが、四歳ごろから、ラジオのヴァイオリン音楽に興味をもち、メロディをすぐ覚えてしまう。そしてやや長じてからは指づかいの批判をした。

 両親は天才....はともかくとして娘の才能を認め、これをなんとか伸ばしてみようとしたことはたしかだ。それは父親自身が、ヴァイオリンを志し、家庭の反対にあって断念したからだともいわれているが、父親のその方針は彼女の記憶のなかに生きている。数え年六歳で小野アンナ(1879-1979)のもとへ入門させられた時、父親からの「諏訪根自子みたいになるんだよ」という一句を今日でも印象深く覚えている。それは諏訪が小野門下の先輩として、すでに"天才少女"という形容詞で紹介され、今日でいえばマスコミの世界で華やかに活動していたからだろう。エルマンやジンバリストの演奏会にも連れてゆかれた。

 このような両親の教育を彼女自身は相反する心理で受けとめていた。一つは「諏訪根自子みたいになるのは大変だぞ」「なるためには、今でさえいやでたまらない練習をこれ以上やらなければならない」という嫌悪感であり、もう一つは「諏訪根自子みたいになってみたいな」といういわば少女的なあこがれである。このあこがれは一般的な少女のスター崇拝熱の一種にはちがいない。だが彼女の場合にはもう一つ別な感情がからみつく。それは混血児の悲しみと、それに対する猛烈な反発心である。今にみろ、という感情だ。

 後年、バスのなかで女性が彼女に挨拶をした。「ざまあみろ」と思ったそうである。その女性は小学校で彼女をもっとも苦しめた同級生だったからだという。ともかく小学校は三年で中退した。病気もあってか、ちょっと想像に難いような激しい圧迫(同級生からの)に耐えられなくなったためでもある。学校へ行かれなくなった時、ヴァイオリンを選ぶ決心をした。「ヴァイオリンは好きではない。しかし学校へ行くよりはよい」という消極的な意味であったらしい。

 昭和十二年、第六回毎日音楽コンクールに第一位入賞。決心はここから積極的になる。当然うれしい。それと、友だちをみかえすことができたという高揚した感情が方向を決めさせたのだといえる。"絶対負けられない"というその反発心は今日まで支えになっている。

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。。。どこまでが真実なのかは不明ですが、とにかく巌本さんはすごく負けず嫌いだったんですね!自分はどっちかというと負けず好きなので嫌いになるべく、さっそく巌本真理弦楽四重奏団のCD「日本の弦楽四重奏曲」を購入しました。興味深い曲ばかり。



一回通して聴いてみただけで、かなり根性入っている演奏であることがわかりました。さらに繰り返しきいていきたいです!

 

↑ 藝術新潮1959年2月号より


1959年ロン=ティボー国際コンクールで1位の松浦豊明と3位の石井志都子

2016-05-14 23:29:05 | 日本の音楽家

『藝術新潮』1959年8月号より、第8回ロン=ティボー国際コンクールのピアノ部門で日本人として初めて1位になった松浦豊明氏(1929-2011)です。

(↑この画像は1958年のチャイコフスキー・コンクールのときのもの。)


同誌の記事にはこんなことが書いてあります。

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「朝日新聞」の山根銀二の記事によると、「松浦はああいう席でちっともあがらないから、コンクール向きだ」とあるが、逆にまた、その妙におちついたところが気に食わないというものもあったわけだ。もう大分昔のこと、レヴィ(Lazare Lévy, 1882-1964)が公開レッスンをつけたとき、彼の「告別ソナタ」をきいて、あまりの無表情におどろいて「とにかくこれは告別なのだから」とさとした話を覚えている向きもなくはないだろう。

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→その冷たさが魅力だったりして?


また、この年のヴァイオリン部門では、ほとんど期待されていなかったという石井志都子氏(1942年生まれ)が3位に入賞しています。



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石井のほうは、また、びっくりさせられる。何しろ十六歳、高校一年修了でパリにゆき、文部省留学試験の時、フランス語を一口も返事しなかったといって、教師のイスナール女史(Jeanne Isnard)を地団太ふんでくやしがらせたくらい、内向的な子が、三位とは、よく、いったものだ。

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→石井さんのほうも、もう少し良いエピソードがなかったんですかね?というか、当時の日本人の日本人奏者の実力を測る能力がイマイチ。。?


バーンスタインYoung People's Concertの新聞広告と小澤征爾(1962年)

2016-05-10 22:08:41 | 日本の音楽家

1960年頃の、レナード・バーンスタインのテレビ番組"Young People's Concert"の新聞広告です。(博報堂「外国新聞広告」1960年1月~10月、定価680円より)



この回"The Young Performers"では15歳のチェリストと14歳のヴァイオリニスト、そして二人の若い指揮者をバーンスタインが紹介したようです。

CBSテレビ"Young People's Concert"については、かなりの番組がネットで見られるようになっているようなのでそのときの出演者である「若い演奏家たち」が誰だったかのかは判明し次第追記しますが、このシリーズの3回目、1962年の放送では26歳の小澤征爾さんが登場していました! フィガロの結婚序曲を指揮する姿は余裕シャクシャク。

バーンスタインのこのテレビ番組はきっと山本直純「オーケストラがやってきた」のルーツに違いないし、若者がクラシックに無関心ないまの時代にこそ「題名のない音楽会」には頑張ってもらいたいと思いました。