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学び、教育、学習塾
かつてのMBA(経営修士)学びレポート

PBL(problem based learning)

2008-10-30 23:29:19 | 大学教育・学び
PBLとは問題基盤型学習といわれるもので、学生にテーマ(課題)を与えて、学生自らが取り組む学習スタイルである。学生は仮説形成、情報収集、分析、一般化、提言に至るまで一連の過程に取り組んでいく。

PBLは仕事に似ている。仕事は事業計画に基づいて進められる。事業計画には、重点実行項目が策定されている。重点実行項目には、「テーマ」と「目標」が定められているだけで、具体的にどのように達成していくかは、社員に委ねられている。
つまり、PBLは社会人の実践力を身に付ける学習といってよい。現在、経済界から大学に対して、社会人基礎力の養成を求める声が強い。PBLは社会人基礎力を身に付けるために最も効果を発揮するスタイルであろう。

ところが、大学教育でPBLが導入されたのは、社会人基礎力養成が目的ではない。かつてのオーソドックスな教育は、基礎理論を学ばせ、それを事例に応用させる方法が取られてきた。初等、中等教育においては、教科書で基礎を学び、例題で応用を理解し、練習問題で定着させる、といったことである。これは「学習転移モデル」と呼ばれる。

しかし、医学、歯学、看護学といった医学分野では、これまで蓄積された知識体系が膨大である。さらに、新しい知識が急速に生まれている。であるから、学習転移モデルではとうてい追いつけなくなった。しかも、卒業後には学んだ知識を現場で応用しなければいけない。基礎理論、応用力に加え、実践力、課題解決力が必要になってくる。さらに、患者は人間であるから、症状には個人差がある。習得した知識体系では理解できないような症例に出会うことがある。そういった時は、情報を集め、知見のある仲間と意見交換し、時にはチームで事に当たっていく。それらは知識ではなく、スキルである。このスキルも身に付けておくことが求められる。
そこで、医学分野を中心として、理系学部ではすでに昔から取り組まれていた。効果やノウハウの蓄積も進んでいる。

日本歯科大学新潟生命歯学部のホームページには「近年の歯科医学・医療の急速な進歩と知識量の増加で、6年間における大学教育で全てを教えることは不可能になっただけでなく、教えられた知識はすぐに古くなってしまいます。このことは従来の講義形式に限界があるということを示していると言えます。PBLテュ-トリアルでは、自己学習能力の育成、コミュニケーション能力の育成、問題発見、解決能力の育成、生涯における活用技術の修得、情報収集能力の修得ができます。卒業後も生涯にわたり、自ら最新の知識を導入し、診療問題を解決していかなければなりません。そのためにもPBLテュ-トリアルは有効なのです。」とある。チュートリアルというのは、教員が少人数の学生を支援する教育である。

東京女子医科大学では「本学では、学生自身が問題意識を持つと同時に、自らの力で知識と技能を発展させてゆく「自己開発学習法」を中心に以下の教育を行う。第1学年から自学自習を主体とするテュートリアルを実施する。テュートリアルとは数名の学生を単位として、提示された問題をもとに学生相互の討議によって学習項目を定め、次いでそのための情報の調査・収集・選択・統合などをグループで進め、結論を導く 学習法である。 討議の調整と統合に助言するために1グループにテュータ(教員)1名を配する。また、 このなかで生じた問題点は講義または実習で補足し、解決していく。講義と実習は、自学自習を補うものとして位置づけ、余裕のある時間割とし、課題を解決するため学生自ら情報収集や技術の収得に努める。」とある。(東京女子医科大学ホームページより)

大学教育もどんどん進歩、変化していっている。僕は法学部であったが、グループで何かに取り組んだ授業なんて一度も無かった。4回生のときのゼミも、研究発表は個人だった。

今通っているMBAではPBLを取り入れている授業は多い。学生はほとんどが社会人であるからPBLのほうが慣れている。与えられた課題に対して、教授からあれやこれやと細かい指示はない。自分たちで文献を探し、情報を集めてきて、討議し、とにかく結論をまとめていく。
だからといって、基礎理論を学ばないというわけではない。本は読む。会計、ファイナンス、戦略、マーケティングは、理論が豊富だし、知識体系が構築されているから、出来るだけ多くの理論にあたったほうが良い。グループ発表やレポートが上手くできた時というのは、基礎理論をきちんと踏まえた上で、自分の独自の結論を出している場合だ。だから、グループで討議するワークと本を読む自学の両輪があってこそのPBLだと思う。本は読める以上に買ってしまう。ある教授から、「置いておくだけでもいい。毛穴から知識が入ってくる。」と言われたことがある。
とはいえ、今の一番の「課題」は時間がないことだ。この「課題」が解決できるPBLはないものだろうか?


創発的学習

2008-10-16 00:42:05 | 大学教育・学び
創発的学習
フィンランドの教育学者であるエンゲストロームの理論。会社や学校といった組織内で共同で取り組む活動の有用性に焦点をあてた。とりわけ、組織内で起こったり、もたらされるトラブルや葛藤といった「問題」の効用を重視した。

顧客からのクレーム。クレームがきちんと届く仕組みを取り入れているかどうかで、組織が成長するか否かの分かれ目になる。クレームがお客様相談室に入ったとしたら、開発、生産、営業の担当者が集まって問題点を共有し、原因を深堀りし、対策を立て実行していく。組織全体がクレームから学び、成長していくことができる。

部門や専門性が違う社員を集めて行うクロスファンクショナルは、多様な意見がでる。葛藤が生まれる。その葛藤を乗り越えて、組織は学習する。

こういった組織、コミュニティの場における学習はますます重要性を増している。我々の仕事の環境は過去の成功体験が通用しにくくなり、変化するスピードが速くなっている。教えるべき「解」がない場合のほうが多い。だからこそ、このような場に参加し、「共同体」の中で学んでいくことが重要だ。これからの学習スタイルの主流になると思う。

MBAでも、学生同士、学びあうことが多い。私は昨年、MBA学生の1年目にマーケティングリサーチの授業をとった。4人のグループで討議し、まとめた内容を毎回授業でプレゼンする。1年生は私一人で、他の3人は2年目の学生だったのだが、2年目の学生から、学ぶことがたくさんあった。MBAでの課題の取組み方や、グループワークの取り組み方、仕事との両立の仕方など、それらは今に至るまで、大いに役立っている。直接、教えてもらうこともあったし、見て聞いて学ぶこともあった。
毎週末、大学に集まって、1日中とか深夜に至るまで一緒にいると、体で覚えるというか、MBAの生活が身についてきたと感じることがあった。よく「○○っぽくなったね」と言われるが、これは、場に参加することで、その共同体がもつ行動や思考様式が自然と体に染み付いてくることを言っている。

学習理論では、熟達者がいてその人から学ぶ場合、その課程のことを「認知的徒弟制」とよぶ。一方、状況主義の立場からは、共同体に参加することを学習ととらえ、それを「正統的周辺参加」とよぶ。教えてもらうのではなく、自ら学んでいくという考えだ。

企業のOJTを考えてみると、かつては、センパイが新人を教えることがOJTであった、しかし、近年は先述したように解がない時代なので、OJTも自ら学ぶ方法へとシフトしている。コーチングとかファシリテーションがOJTに取り入れられる所以である。
いずれの立場にせよ、共同体の中で人は学んでいく。

さて、大学教育ではどうであろう。学生同士が学びあえる学習環境になっているかどうか?私は学びあえるためには、1年生と先輩学生が一緒に学習活動できる環境が必要だと思う。パソコンの使い方、情報の集め方、レポートの書き方、プレゼンの仕方。これらは、初年次教育として、行われている。1回生だけを集めるのではなく、先輩と一緒に取り組むようにすれば、学びの効果はあがると思う。

認知構造のギャップ

2008-10-11 02:32:39 | 大学教育・学び
学習理論には大きく3つの考えがある。行動主義、認知主義、状況主義。どれが正しいとか最適だとかではなく、学び方の方法と捉えて、学習の対象領域や学習の主体者、つまり自分がどのレベルかによって、使い分けるのが良いと思う。

この3つの中から、認知主義について考えてみたい。認知主義とは、「理解する」、「分かる」ことに重点を置く。人間の頭の中をコンピューターの情報処理の仕組みになぞらえながら理解の仕組みを明らかにする。例えば、分数の足し算で、小学1年生が回答すると、分母と分子をそれぞれ足してしまうだろう。しかし、6年生だと、分母の概念を知識としてもっているので、通分することに気づく。ここでは分母の概念と通分の知識を持っていることがポイントになる。また、高校生に「現在のグローバル経済の現状と日本への影響について小論文を書きなさい」、という問題を出したとしよう。既有の知識として、サブプライム問題、中国やインドなどの新興国の経済成長、情報技術の発達と世界市場の動きが誰でも瞬時に把握できるようになったことなどが頭の中の引き出しに持っていないと、おそらく書けないだろう。

認知主義は構造主義とも言われているように、認知構造、知識構造という考えをもつ。そこから、理解できず学習につまづいてしまうのは、知識構造がないからだと考える。この知識構造・認知構造を「スキーマ」とも言う。新しいことを学ぶ時には、すでに持っている「スキーマ」を使いながら、対処していく。外国語の学習でもこのスキーマの考えを取り入れている。外国語の文章や会話を自分のスキーマを使い、推測したり予測しながら意味を理解していくという考えだ。分母、分数のスキーマがない大学生は「分数ができない大学生」になってしまう。

さて、MBAの授業の中で最も苦労した「会計」について、認知主義の学習理論を使って考えてみたい。会計で苦労したのは、「簿記」であった。借方と貸方、負債・資本・資産の仕訳。経理部員でない限り、普段、簿記の仕訳まではやらない。簿記の知識構造がないのだ。特に、「会計特論」の授業でやった「連結会計」はいくら考えても最後まで理解できなかった。先生は、我々学生は簿記の知識をもっているものとして授業を進める。しかし、先生と学生の認識のギャップが存在するから理解できない。先生がギャップに気づかれないと、授業についていけなくなってしまう。

大学教育において、分かりにくい授業をされている先生方は、おそらく、学生の既有の知識構造を理解されていないのだと思う。例えば、法学部の授業。大学1回生にとって、それまでの人生で法律と関わったことなんてほとんどないと思う。だから法律なんて考えたこともない。法学部を志望する理由もあまりたいしたものではないだろう。20数年前の私がそうであったように。きっと社会科学系学部の中で偏差値が一番高いからという志望理由が多いと推察する。そんな大学生に、法律に興味をもってもらうためには、頭の中にある「スキーマ」を把握することが大切だと思う。例えば、裁判員制度とやらが始まるらしい、法科大学院ってどうなんだろう、祖父の遺産をめぐってもめていたけど相続ってどうやって決めるんだろう、テレビに出ている弁護士って頭が良さそう、こんなことが学生の頭の中にあったとしたら、それを題材にして、導入部分を組み立てると教師と学生のギャップが縮まる。

教育設計、インストラクション・デザインを考える際に、まず最初のステップで「分析」を行う。対象者の分析である。大学の授業でも、最初の授業で、学生のその授業に対する意識、既有知識、関連知識、興味がある事項などをアンケートとしてやってみる。そうすると、学生の頭の中と同じ目線の授業ができる。

そういえば、僕が学生のころの刑法の授業で、先生が時々、「強姦罪」と「和姦」の違いを説明されていた。僕たち学生の頭の中はそういうことに占領されていたと見抜いていかからなのか?それともご自身が興味がおありだったのか?

協調学習

2008-10-09 23:17:24 | 大学教育・学び
「学ぶ」方法論のひとつに「協調学習」がある。学生同士が共同で活動したり、相互に教えあうこと。共同で活動することには、グループワーク、グループデイスカッション、共同研究などがある。企業研修でも、ゲームや経営シミュレーションを使ったグループワークも実施さあれている。後者の教えあうことには、グループの中で学生が順番に研究発表して、全体の知を効率的に高めいく。

協調学習を研究した研究者によると、協調学習の効用に「学習者同士の相互作用を通して、全員の理解が収束に向かうこと」であると唱えたロシュエルの説と、これに真っ向から対立する理論として「強調学習では理解はなかなか統合されない。一人ひとりは違った視点を持っている。それだからこそ、高いレベルの理解がなされる。」とする三宅なほみさんの説がある。私自身の経験からは、どちらの説も正しい。

MBAでは、教授から示されるアサインメント課題で、2~4名のグループでの研究発表がある。MBAが優れているのは、違ったバックグラウンドをもった学生が集まっているところにある。自分の会社の人間同士では思いつかない発想、持っていない知識や経験があるので、自分では思いつかない結論に至ることがある。
昨年のマーケティングの授業でシャープ・アクオスのブランド戦略をグループで研究したときのこと。私は、広告で絵画を用いるのはどういう意図か?ということに対して、絵画は吉永さゆりさんのイメージにあっているし、高い液晶技術をポジショニングするためと考えていたのだが、相方から、「テレビを変えると暮らしが変わる」というコピーはどう説明がつくのか?という問題提起があった。そこから、議論は盛り上がって、「暮らしが変わる」というには、観る番組が変わることをさしているのではないか?芸術的、文化的なもの、美しいものを観たくなるのがアクオスなのだから、暮らしが変わるのだよ、というメッセージではないか?ということが理解できた。

京都大学が策定した基本理念の中で教育の項にはこうある。「多様かつ調和のとれた教育体系のもと、対話を根幹として自学自習を促し、卓越した知の継承と創造的精神の涵養につとめる。」この中で、 “対話を根幹として”とあるのは、 京都大学では自由な校風と自主性を大切にしているゆえに、教師教えるのではなく、相互に学びあうことを理念としている。ただ、対話が効果を発揮するためには、お互いが違った視点や思考を持っていることが必要だと思う。同質の人間が集まっても、あまり発展性はない。同じ会社の中で議論していても、なかなか新しいアイデアが出ないのと同じことだ。

大学教育でも、例えば、他学部の学生同士、文科系と理科系の学生を意図的にグルーピングして、共同学習、共同研究をさせてみるのも効果があると思う。医学部と文学部の学生、3回生と1回生、東北出身者と九州出身者の組み合わせなど。医学部と文学部ではその学部を選んだ理由も違うし、将来の職業観も違う。なぜこうも違うのか、という問題意識が発端となって、相手の学問の興味関心が湧いてくるかもしれない。クロス・ファンクショナルな学習活動っていいよね。